バカップル。
僕、神楽坂みなとがいまどういう状況であるのかを端的に言い表すのであれば、きっとそういった言葉が適切だろう。
恋人である男女が人目を気にせず、電車のなかでいちゃいちゃとしているように見られても、なんらおかしくないし、至極真っ当な見解である。
終点でもある駅の始発に乗ったため、乗車している人自体はかなり少ないが、だとしても公共の場でそういった行為をする事に対して、何も思わないほど図太い神経をしているわけではない。
まあ、けれども。
恥ずかしい気持ちがあることも事実ではあるが、嬉しさで心が満ちているのもまた事実。
僕は今、長い時間をかけて神楽坂家まで帰る電車に乗っている。
いや、「僕ら」だ。姉さんと座席に並んで座り、がたんがたんとゆりかごのように揺られている。
隣に座っている姉さんは、僕にひっつくように腕を組んで、肩を寄せ付けて、べったりともたれかかっている。
なんなら腕にもたれかけている頭がそのまま倒れてきて、僕の膝でスヤスヤと眠り始めてしまいそうだ。
疲れがひどいのだろうと思った。目のクマもひどかったし、髪も荒れているし、なんなら左手には包帯が巻かれていて、怪我をしている。何があったのかと聞いてみたくはあったが、疲れている人に説明をさせるのも申し訳なくなって、僕はだまったまま、姉さんの抱き枕となっていた。
そう、抱き枕と例える方が適切かもな。
そんな勢いで、彼女は僕の腕をぎゅっと抱きしめているのだ。
血管が圧迫されそうな膂力から思うに、目は閉じているけれど眠ってはいないのかもしれない。
咲良の事件がひとまずというか、一旦の終わりを迎えて、僕は帰路につこうと山を降りて、最寄り駅へと向かった。
そうしたら、駅の待合室にいた姉さんと出くわし、僕ら神楽坂姉弟は一緒に帰る事になった。
もちろん僕は姉さんに「どうしてここに?」とか「なんでそんなに荒れてるの?」と質問してみたのだが、彼女はにこにこと楽しそうな笑みを僕に向けるだけで、何も言わなかった。まるで予想が的中したような、そういうほくそ笑むような表情であったことが不思議ではある。
ぼろぼろな姿なのに眩しい笑顔を浮かべる姉さんは、僕の腕をちょいちょいと引っ張ってきて、「早く帰ろう」と無言で促してきた。
あんな、少女のようにあどけなく、朗らかとした雰囲気の姉さんを見たのが久しぶりだったせいで、ギャップに面食らい、僕はなすがまま、彼女の行動に従うしかなかった。
そして、電車に乗って座ったら、姉さんはまるで恋人に甘えるように抱きついてきたのである。
これが、今の僕と姉さんが電車の中でのバカップル状態になったことの経緯である。
理屈が通っているのかどうかは保証できないが、まあ経緯だけあれば十分だろう。
誰にだってそういう時はあると思う。
誰かに甘えたくなったり、ただそばにいてほしかったり、人肌を求めたり。
姉さんだって、神殺しとは言われていても人間である事に変わりはない。
神楽坂結奈は、僕のような半神半人ではなく、人間だ。
だから倫理観や常識だって、人間準拠だ。それは当たり前の話だが、そんな普通のことがどれだけ素晴らしいか、僕は骨身に染みるほど理解している。
僕だからこそ。
元人間だった者だからこそ、人間である事の素晴らしさを今になって、今更思うのが遅すぎるぐらいに、理解できる。
普通であることの尊さ。普遍であることの素晴らしさ。
世の中の「当たり前」を一番知っている、普通の人。
彼らは大多数の意見に理解を示せて、共感できて、思いやる事ができる。仲間を大切にできる。
普通の素晴らしさは、そこにある。
僕は、異常で異質で異形だ。頭がイかれてる狂人であり、狂神だ。
でも姉さんは、確かに殺し屋ではあっても、こうして弟に甘えられるぐらいには、まだ人間らしさを残している。
彼女の人間性を守る役目を、間接的にではあるが僕ができているというのなら、僕にはまだ生きる意味があると思える。
きっと、今の僕が味わうことになった感情や思考を、姉さんはずっと前から抱え続けていたのだ。
僕がそもそも、半神半人となる前から、彼女はこの業界にいた。
人間のまま、化け物を殺し続けた。
身近な人間には、人間らしくあってほしい。
化け物なんかがいる裏世界を知らないまま、人らしく生きていてほしい。
薄暮のように仄暗く、淡い希望と願いを抱え続けていたのだろうと、僕は知る。
何も知らない咲良に真実を教えてしまったからこそ、僕は身をもって知ることになった。
だから。
そうであるから、似たような立場になった今の僕に、これまでしたことないような甘え方をしてくれるようになったのかな。
そうだと思って良いのかな、姉さん。
これが僕の思い上がりで、勘違いだったら。
あなたの背中は遠くて、まだまだ追いつけそうにないよ。
いつになったら、僕は姉さんの隣に立てるような男になれるんだろうね、ほんと。
「みなと」
急に、疲労を感じる掠れた声で話しかけられた。
姉さんの目は瞑ったままだが、腕にこもった力が弱まる。が、その代わりといった風に彼女は僕の腕に頬ずりしてくる。
「あなたは、良い匂いね」
「……え、うん?」
すりすりと顔をこすりつけながら、ゆっくり味わうように鼻から息を吸って、僕の肌を味わっている。
くすぐったくて、一瞬身を引いた。
「あ、ごめん、嫌だった……?」
身を引く動作に対して、申し訳なさそうに僕を見据えてくる彼女。その目には遠慮と怯えが混じっており、しおらしくなっている様を見て、妙な罪悪感が湧き出てしまった。
なんか、童女を相手にしているような気分だった。というより、娘か?
「い、嫌じゃないよ、うん。ちょっとびっくりしただけ。ほら、いろいろ動き回って、汗とか煤で臭いと思うし……」
「いや、あなたの匂いが好きなのよ」
「僕の匂い……? あーえっと、一応綺麗にしているつもりだったけど、匂います?」
「男の匂いとはまた違うというか、もっと根源的な、みなとにしか出ない匂いが、好きなの。嫌だったら……うん……もう、嗅がない……」
「あーいやいや! 全然良いよ、いくらでも吸ってくれて! あ、でも公衆の目は気にする感じで!」
最後のあたり、自分で遠慮しながらも心苦しくなったのか、涙目で表情を歪ませていた彼女を見て、断れるわけがないだろうがよ。
まあ、田舎の路線であることだけが救いではあった。乗客も少ないし、すれ違う人たちに怪訝な目で見られはするが、邪魔にはなっていないと思う。そう思いたい。
「やっぱり、あなたが居ないと寂しいわ」
「……どうしたの、姉さん。なんだかいつにも増して、甘えたがりになっているというか……」
「あの、少し聞いてみたいんだけど、毎日私と添い寝をするのは、嫌だったりする?」
「え? 嫌かと言われたら、うーん、別に?」
「め、迷惑じゃないかしら……?」
おずおずと、普段の威厳が見る影もないぐらい、弱々しい顔色で尋ねてきた。まるで子供だ。
しかしまあ、こう言うのもなんだが、今更だとは思った。
てっきり、僕は姉さんの要望に問答無用でへりくだるのが、約束を犯した罪人としての使命だとすら思っていたのだが。意外にもその要求をしてきた彼女自身が、毎晩僕を拘束している現状を気にしていたらしい。
「全く迷惑じゃない。というか最近は姉さんがよく眠れているのが分かるから、嬉しいぐらいだよ」
「……そんなところ見てるのね」
小声で聞き取りづらかったが、聞こえはした。
以前から、神楽坂結奈の寝起きは悪いことで有名だ。それこそ、僕と一緒に家族として暮らし始めた頃から。
特に一番分かりやすいエピソードが、「風呂場無記憶乱入事件」だ。
簡単に言えば、僕がお風呂に入っているとき、姉さんが寝ぼけたまま浴室へ入ってくるのだ。
しかもこの事件、一回だけではない。これまで数年近く一緒に暮らしてきた中で、もう何度もある。
実はこの僕、神楽坂みなとは朝風呂が結構好きである。
むしろ夜はシャワーで済ませたいことも多くて、逆に朝一番に風呂へ入るのが好きだ。好きだった。
この事件が最初に起きたのは、僕が小学六年生、姉さんが高校生の頃だ。
朝にお風呂を沸かして、僕がゆっくり入っていると、姉さんが寝ぼけたまま浴室へと入ってきた。しかも彼女は、シャワーで自分の体を洗い終えるまで湯船のなかで硬直していた僕に気付かなかった。というか、寝ぼけている時は記憶すら無くなるらしい。
それまではまあ、何もなかったというか、逆にお互いの存在に気を遣っていたという方が正しいだろう。
「今はお風呂に入っているから、洗面所には近づかないでおこう」といった気遣い。しかし、三年ほど一緒に暮らしたことで、気が緩まっていたタイミングで起きたわけだ。
一応、それ以前から彼女に寝ぼけ癖があるのは、知識として持っていた。朝ご飯の時なんか朦朧としているし、目をつぶりながらもぐもぐと口を動かしていることもざらである。
しかしまさか、隣に人がいるというのに裸を晒して体を洗っていても気付かないとまでは思わず、てっきり僕は自分が幽霊にでもなってしまったのかと、小学生ながら己の存在を疑ったものだ。
まあ、ラッキースケベエピソードにも思えるかもしれないが、年齢を重ねていくごとに彼女を異性として意識してしまっていたせいで、心臓に悪くなったのだ。
なので、近年はよっぽどでなければ僕は朝風呂に入らないことにしている。なので朝風呂は好きだった、というわけだ。
しかし、ここ最近の姉さんは非常に寝覚めが良くなっている。
朝から意識がはっきりしていることが増えて、寝ぼけたままご飯を食べていることも減った。つまり、よく眠れているのだ。
それが僕と一緒に添い寝をするようになってからであることは、分かりきっている事実だ。
だから、迷惑だなんて思ってもいないし、光栄だと思っている。
添い寝程度で睡眠の質の問題が解決しているのなら、お手軽な話だろう。
腕を握る力が緩まり、彼女の細く白い手が僕の手に覆い被さる。
「安心した。男の子はひとりの時間が欲しいって聞いたから……」
「誰にさ」
「ミズチ」
「いやいや、思い出しなよ姉さん、あいつは下ネタ大好き変態神だよ? そんな戯れ言、姉さんをからかうために言ったに決まっているじゃないか」
「そ、そうだったのね。それは、そうか。うん、確かにみなとの言うとおりね。私の早とちりだったわ」
遠慮する必要がないと分かったのか、満足そうに彼女は頬を緩ませる。
しかしなんてことを言ったのだ、ミズチ。あとでしばき倒す、覚悟しておけ。
神楽坂家の最寄り駅まで、電車で二時間。
電車を降りて、駅から徒歩で我が家へ帰るまでの間、姉さんは僕の腕から全く離れなかった。
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