未亡人という単語だけ聞くと、僕の勝手なイメージであるが、どこか儚げで、寂しそうな雰囲気を漂わせていそうだと思ってしまう。
もちろん誰にでも当てはまることではないだろう。夫を亡くして再婚していない人のことを言うわけだが、だからといって別れをずっと悔やんでいる人というのも、それはそれで珍しいような気がする。
人間、案外忘れっぽいものだ。
忘れっぽいなんて陳腐な言葉で身内の死を片付けるのもひどい話かもしれない。
だが、家族との思い出は忘れても、思いやりは忘れない。
母親がいたこと、父親がいたこと、義理の母親がよくしてくれたこと。
感謝の思いは残り続けるが、彼らがいなくなったから自分まで生きていられなくなるほど、僕は死んだ人にまで気を回せない。
記憶のしがらみに捕らわれ続けるより、今そばにいる人の力になる方が、よっぽど建設的だ。
しかし、それは人間のお話。
寿命も死に対する価値観も全く違う怪異たちは、それぞれの視点と思想を持っているのだろう。
きっとそれは、ミズチの瞬間移動で連れてこられた洋館で、僕の介抱をしてくれている金髪赤目着物の女吸血鬼であってもそうなのだろう。
彼女は戸牙子と面影こそは似ていても、吸血鬼の高圧的で畏怖を覚えさせる禍々しい雰囲気から程遠い、どこか柔らかい印象を感じられた。
「寒くないですか? ベッドの方は、寝心地はいいですか?」
「ええっと、大丈夫です。というかその、急に上がりこんで、介抱までしてもらって、なんて感謝をすればいいか……」
「気にしないで、六戸と戸牙子を助けてくれた、恩人なのですから」
クラシックで品のある内装にキングサイズのベッドと、いかにも西洋風な寝室だった。
天井にある照明はシャンデリアタイプで、ロウソクの光が部屋を暖かく照らしている。
分厚い布カーテンは完全に閉められていて日光を通さない、さすが吸血鬼の家。
緩やかな所作で紅茶を淹れる彼女をよくよく見ると、金髪ミディアムボブで顔立ちが戸牙子と非常に似ている。
それに、ごく自然と「戸牙子」や「六戸」を呼ぶことからも、きっとこの人は……。
「はい、お茶をどうぞ。あ、紅茶は苦手でしたか?」
「い、いえ……いただきます」
カップを受け取り、警戒しつつも一口含む。毒ではなかった。
なんとも拍子抜けというか、それとも戸牙子のいった母親の情報が、虚偽の申告だったのか。
彼女から聞いた話によれば、冷徹で子への愛情がない身勝手な親だと聞いていたわけだが。
目の前のご婦人からは、そういった酷な雰囲気は感じ取れない。
これが吸血鬼のもつ魅了系の能力だとするなら、僕も本気で抵抗しないといけないのだが……。
と、警戒心高めな僕をよそに、彼女はおもむろに話し始める。
「あなたが戸牙子と六戸を守ってくれたのは、あなたに憑いている神様から聞いております。本当にありがとうございます」
「い、いえ……。あの、つかぬ事をお聞きしますが、あなたはもしかして戸牙子のお母さんなのでしょうか……?」
「……はい、そうです。もしかして、戸牙子から私のことを聞いているのでしょうか?」
「それは、その……軽くですが」
「そうでしたか。ならここまで警戒されているのも、納得がいきます。ごめんなさいね、嫌なお話を聞かせてしまって」
相手の心を思いやる、本物の母性にあてられて、あっけなく僕の心は揺れ動く。
僕にも、こんな人がいてくれたら。
母親が今もいてくれたら、どれだけ嬉しかったのかと、今更思うのもおかしな話だが。
記憶というのは、普段は忘れているだけで、ふとしたきっかけで引っ張り出されるものだ。
この人はきっと、しっかりとした母親だ。
だから、疑心が募った僕は聞いてしまった。
「……生まれたての戸牙子を冷たくあしらって、そのまま蒸発したというのは本当なんでしょうか? 僕にはどうも、あなたがそんなことするような人には思えなくて」
「それは、嘘ではありません。まぎれもない真実です」
「どうして……彼女を閉じ込めるようなことを……?」
「……説明すると長くなりますし、それに信じてもらえるかどうかも……。私が起こした行動に嘘はありませんが、その行動の裏にある真実は、複雑に入り乱れています。だから……私はあの子に合わせられる顔なんて、持ち合わせておりません」
今まで保っていた和やかな表情が曇り始め、ティーカップをサイドテーブルにおいて椅子の上で姿勢を正した彼女は、静かに語り始める。
「身勝手なお願いなのですが、あなたから戸牙子に伝えて欲しいのです。私は冷酷無慈悲で、頼りにならない母親であったと」
「……は? なんでですか。僕たち三人が突然駆け込んでも、あなたは嫌な顔せずに、むしろ泣きながら助けてくれたじゃないですか」
「ですが、起きているのはまだあなただけです。鬼や吸血鬼といえども、神の回復力には敵いません。あの子達はまだ眠っていますし、六戸は喋れない。つまり、あなたさえ口止めできれば、それでいいのです」
そんなの、良いわけがない。
なぜそうまでして、この人は自分を悪者に仕立て上げようとするのか。
この人から香る雰囲気は、悪人のそれではない。
むしろどこまでも善を貫こうとして、そのためなら利害すら投げ出すような、自己犠牲の塊のような人。
まだ戸牙子と六戸を襲った老人の方が、悪人らしい。
「力づくでやるなら、僕は吸血鬼には負けませんよ」
「だから、話し合いでなんとかいたします」
「納得できるだけの理由がないと動きませんよ。戸牙子がこのまま母親を恨み続ける人生を歩むことが、良いことだと思わせられるのなら、ですけども」
「……ローゼラキス・カルミーラ・ホーソーン」
不意に、そういった彼女の真意が読み取れてしまうぐらいには、僕もずいぶん怪異側に偏ってしまったなと思う。
間違いなく、彼女が名乗ったのは、吸血鬼としての真名だ。
怪異が名前を名乗ることは、己の手の内を明かすのに等しい。
怪異は歴史に作られ、名前に縛られる。
吸血鬼の彼女だけでなく、それは半神半人である僕であっても、例外ではない。
「あの人に救ってもらって、山査子家に入ってからは、山査子霞と名乗っていますが、真名はローゼラキス・カルミーラ・ホーソーン。よく『ロゼ』と呼ばれていました」
「……名乗られたからには、名乗り返すのが礼儀ですね。僕は神楽坂みなと、憑いている神様はミズチと言います」
「神楽坂くん、ですね。ありがとう、私を信じてくれて」
それは、懺悔でもするような言い方で。
吸血鬼の十字架が苦手という逸話が、この人にはとんでもなく効いてしまうぐらいには、酷く重い自責を抱えているようだった。
「ロゼさん……って言っても大丈夫ですか?」
「あ、ええと……」
伏し目がちになりながら両手をあわせ、自分を落ち着かせるように手の甲をこすっている。
「そう呼ばれるのは……その、とても親しい人だけだったので……」
「あ、そうだったんですね! ごめんなさい、調子乗っちゃって」
「い、いえ……とても久しぶりに呼ばれたので、嬉しくて……。その、ぜひそう呼んでいただけると、ありがたいと、言いますか……」
にしては頬が紅潮しているけど、本当に良いのだろうか?
親しい人、とは言ったが。
それってもしかして、友人とかのレベルじゃなくて、恋人や伴侶だったりしたんじゃないのか?
いや……野暮なことは考えないようにしよう。
とりあえず呼んで良いのなら、「ロゼさん」でいこう。
「山査子霞」という名前や吸血鬼の真名より、あだ名や通称の方が、怪異はお互いを気軽に呼びやすい。
仕切り直すようにロゼさんは姿勢を整えて、僕へ向き直る。
「と、ともかくですね……私がこれから話すことは、真実ではあるのですけど、戸牙子から話を聞いたあなたには、信用できないことも多々あると思います。それでも、これを話さないことには説得のしようもありませんので」
「……大丈夫ですよ。たしかに僕は戸牙子のことを信頼してますし、良い友達だと思っていますけど、だからといって彼女の言葉全てにイエスを言えるわけではないですし、僕のことを信頼してくれて真名まで明かしてくれた、ロゼさんのことを頭ごなしに否定するつもりはありません」
「あくまで中立、ということですか?」
「はは、そんな聞こえの良いものじゃないです」
そんなに立派なものではないのだ、僕の精神論は。
どっちつかずよりもさらにタチが悪い、「どっちの味方にもなりたい」なのだ。
どんな相手の立場にもなって考えて、できる限り理解を示し、最善を尽くそうとする。
ミズチに言わせるなら、「ひね甘い性格」
誰かを救う時、誰かを見捨てる。
そんな当たり前をいくらでも否定してやりたいと思っている。
だから、今回だって僕は折れるつもりはない。
ミズチに受肉させてしまうような、禁忌の取引もしてしまったのだ。
今更、平穏で人間らしい日常に戻れるなんて思ってはいない。
泥舟に乗ったら最後、沈没まで見届けてやる。
「身の回りの誰かには、その場限りであっても、幸せでいて欲しいだけなんです」
言ってから、結構すかしたことを言ったなと恥ずかしくなり、後悔した。
だが、ロゼさんは柔らかい微笑を浮かべて、幼子の可愛らしい仕草を見つめるように目を細める。
「優しい男の子なんですね、神楽坂くんは」
母性を目の当たりにしてふと、昔の記憶がよみがえる。
母親という存在にここまで恋い焦がれたのは、姉さんと家族になる前の、小学生のころ以来だろうか。
そして戸牙子の母親、ローゼラキス・カルミーラ・ホーソーンは「山査子霞」へとなり変わったとある人間との出会いと。
霧の楼閣に囚われる戸牙子の謎と真実を、語り始めたのだった。
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