敷地内というか、厳密には駐車場のさらに隅の方にある、灰皿の置かれたスペースから放たれたのだが、彼女の怒声は店内でレジ打ちしている店員にも、三軒先の住居で暮らす住民にも届いていそうなほどの大咆吼だった。
晴天の夜と月に呼応するような、獣の咆哮だ。怒りを押しつぶさず、真正面からぶちまけにいくような怒気に、僕は不覚にも懐かしさを覚えた。
いや、身内のとある女性が喧嘩をふっかけるときに荒らげる声とちょっと似ているというだけで、それを獣のような咆哮だと断定してしまうのはさすがに浅慮も甚だしいが、まあ、多少ノスタルジーに浸るぐらいは許してくれてもいいのではないかと思いたい。
なんせ、巴さんの怒声はかれこれ数年近く聞いていないから、ついつい郷愁を覚えてしまうのだ。
やはり僕にとって巴さんは、一緒に暮らした大切な家族だ。時たま、無性に会いたくなることもあれば、声が恋しくなることもある。
それがたとえ、聞くのも怯えてしまうほど猛り狂った叫びであってもだ。
もちろん、つい最近突然帰ってきたりはしたのだが、あの時はほとんど怪異に関する要件を占めていたから、ゆっくり会話もできなかった。だから久しぶりに、女性でありながら遠慮のない、気前の良い怒声を聞けたことに感謝すらしようかと、思っていたのだが。
「……あれ?」
ふと、気になったので視線を獣に向けてみる。
僕の目は、一応かなり良い。というかミズチのおかげで良くなった。
人間の頃の視力は0.6であり、ギリギリ眼鏡が欲しくなる微妙な目の悪さだったのだが、それが神眼へと変わってからは、夜目も利くようになった。
なので、まあ、怒声の先に視線を移してくっきりと、景色を瞳で捉えたのだが、そこに居る人には見覚えがあった。
だがそれは、一人だけではない。
片方は、すらりと伸びる背に長い銀髪を結って、ポニーテールにしている女性。
もう片方は、彼女の罵倒をもろに浴びて胸ぐらを掴まれている、タバコを持った中年男性。
そのどちらにも、僕は見覚えがあったのだ。
「いきなりなんだ! タバコぐらい買えば良いだろう!」
「あーしは葉巻がいいんだよ! ついさっき水にぽしゃって全部吸えなくなったんだよ! 買おうと思ったら売り切れて腹立ってるんだよォ!」
「知るか! だったら別の店にでも行け!」
「今すぐ欲しいんだよゴラぁ! 一本ぐらい分けてくれても良いじゃねえか! 男のくせにみみっちいなぁオイッ!」
僕はしゃがんでいた状態から立ち上がって、見据える。
見間違いがないように、顔と姿形をしっかりと確認するために、喧嘩している二人のもとへ歩みを進めた。
「あ、ちょっと君」
先ほどまで会話していたダウナー系女子が、僕を制止するため声をかけてきた気がするが、気のせいだろう。
気にせず、進む。一歩近づくたびに、顔の情報が増えて、表情がよくわかり、脳内の記憶と照合が進んでいく。
距離にして、あと五歩程度。
剣幕と怒号が耳をつんざく間合いまで近づいたところで、モヤモヤとしていた視界が晴れる感覚に陥った。
「あ――」
「あん?」
「ああ?」
三人の声が重なる瞬間、喉元までつっかえていた記憶と思考がすっきりと澄み渡った。
「ロゼさんに突っかかったクレーマー!」
あまりの喜びに指をさしながら声をあげてしまった。
そう、片方が灰蝋巴であることは近づいていく段階で分かっていたが、もう片方の男性に関しては残念ながらギリギリまで分からなかった。
彼は、葉巻タバコを巴さんからたかられている中年男性は。
ファーストフードで働いている吸血鬼の王女、ロゼさんに暴言を吐き、しかし王の器量で上手にたしなめられた、クレームおじさんだったのだ。
「誰がクレーマーだ?」
「誰だ、ロゼというのは?」
ほとんど同時に、息ぴったりのコンビかと思うぐらい、目の前で怒声を浴びせ合っていた二人の声が重なった。巴さんはクレーマーだと言われたことを不審に思い、クレーマーおじさんはロゼさんの名前に心当たりがないようで、そちらを不思議がった。
何気に、僕が今言ったことは男性の方だけでなく、巴さんにも当てはまる、のかもしれない。
巴さんがロゼさんに対して突っかかったのは事実だろうし、確認してみなければ分からない話であるが。
「あ、ええっと」
「ていうかみなとじゃないか! おいおいどうしたんだよこんなところで!」
巴さんは男性の胸ぐらを掴んだまま、顔だけこちらに向けて豪快に笑う。嵐のような怒気が僕の顔を見ている今だけは消え去っている。
むしろこちらが「一般の人になんてことしてるの」と言いたかったのだが、理由不明に神経が立っている巴さんが相手なので、ぐっと飲み込んだ。
男性は面倒くさそうに、僕へ視線を移して睨みながら言う。
「おい、知り合いならこの女を止めてくれ。いきなりタバコをたかってきたんだぞ」
「たかるとは失礼だな! 幼気なおなごがお願いしてるだけじゃねえか!」
「幼気……?」
片眉をひそめて怪訝な顔で巴さんを見据えるおじさん。ありえないものでも見るような感情が透けて見える。
残念なことにその感性は間違っていない、厄介クレーマーだがそこだけに関しては同調したい。
助け船を出すつもりではない。だがとりあえず、先ほど聞こえてきた会話内容の確認も兼ねて、僕は巴さんに聞いてみることにした。
「ええっと、巴さん」
「なんだよ?」
「タバコがほしいの?」
「ああ、早急にな」
「葉巻?」
「そうだ」
ということは、これから仕事なのだろうか。
灰蝋巴という女性は、仕事に行く前に必ず葉巻とウォッカをたしなむ変わった人だ。
僕が巴さんと暮らしていた時間は姉さんほど長くないが、彼女は家を出る前には決まってその二つを味わってから、仕事に行っていたことを覚えている。
子供心ながら、玄関を出て行く彼女の背姿にいつも不安を覚えたものだ。酔っ払って、万が一の事故が起きて怪我でもして帰ってきたらどうしようかと。もしかしたらこの見送りが最後になるのではないかと、びくびく震えて見送るしかなかった。
結局、数週間前にそれはただの杞憂だったと知ることになったわけだが。
「コンビニに売っていなかった、のかな」
「そうだ、売り切れだとかなんだとか、ありえねえだろ? このご時世葉巻なんてコンビニでも扱っているのにだ。つい数時間前に売り切れたとか、しゃらくさいこと言いやがってだな!」
「あー、それは辛かったね」
適当な相づちを打って愚痴のヒートアップを防ぐ。気が立っている時の灰蝋巴はうまく手綱を引かなければ、予測できない方向に当たり散らかす暴れ馬なのだ。
そう、今の状況みたいに、一般人に突っかかることだって辞さない。むしろ下手に落ち着かせようと水を差したら、引火するように水を撒いた人間にまで被害をまき散らす。
存在自体が水と化学反応を起こして大爆発する、セシウムみたいな人だ。例えとしてはあまりにもひどい気はするが、これでも良い側面がある人だと、擁護はしておきたい。
と、そこで胸ぐらを掴まれたままのおじさんが、嘆息しながら巴さんに向かって言う。
「タバコがないと生きられんのか? よくもまあずけずけとせびる、女として恥ずかしくないのか?」
「ああ? おっさん、何も知らねえ脳みそが口と連動してるようだな? 失言癖で人生ドブにしてきたんだろ?」
ばっさり、ともすれば妄言とも受け取られかねない罵倒を男性に放つ巴さん。
しかしながら、これが彼女の恐ろしい側面でもある。なぜならその鋭利な言葉が、いつも核心と本質を貫く真実であることが多いからだ。
クレーマーおじさんはばつが悪そうに一瞬視線をそらしたかと思うと、胸ぐらを掴む巴さんの手を叩いてはらった。
スーツ姿の彼はネクタイを締め直しながら、持っていた葉巻タバコを地面に捨てて踏みつけて、火を消す。
「礼儀も知らん小娘が……。お前みたいなやつに何かを施そうという気が起きると思うか?」
「あん? んだよ、見返りが欲しいんなら最初からそう言えよ。何が欲しいんだ? 金か? それともあたしの体か?」
喉が裂けそうな咳払いが響く。
巴さんの世迷い言に彼は激しく咳き込みながら、僕に目線を向けてくる。
驚倒と呆然が入り交じった表情で、「こんな人間と知り合いなのか?」と顔で訴えかけていた。
そんな人間と知り合いなんです、でも良いところもあるんです、と言いたかった。
だがそれは夢見がちな願望である。残念なことに、当たり前だが現実と願望は違う。
巴さんはあっけらかんと続ける。
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