「私の異象結界、『ローゼン・ガルテン』はこんな風に蝙蝠の眷属を使役するのですが、実はこれって結構目立つんですよね」
「……それは確かに、見た目からして目立ちますよね」
「いえいえ、見た目はいくらでも変えられると言いますか、見えないようにすることはできるんですよ。でも、異象結界術というのがかなり目立つことは結奈さんならご存知ですよね?」
「あ、ああ」
そうだった。
すっかり失念していたというか、「異象結界を使う奴」がつい最近まで少なすぎて、関連知識が脳の奥底に眠っていたのだ。
そしてさらに、最近はインフレを起こしたように、周りに異象結界持ちが多くなったせいで、感覚が麻痺していた。
異象結界は、『世界』という大きな絵画に『穴』を開けるようなもの。
そして『世界』というのは流動し、変化し、万物流転していくものであり、それがルールでもあり、理でもある。
開いてしまった穴を埋めようとする世界の抵抗が働くのは順当であり、自然の本能で、また摂理なのだ。
だから、異象結界は使うだけで世界が大きく揺れる。
もちろん、結界術はもともとそういうものであり、行使したタイミングというか、穴を作ったタイミングは非常に分かりやすく、ばれやすい。
たとえば、とんでもなく遠い、地球の真裏で起こった災害にはすぐ気付けないように、一瞬程度の穴であれば気にする者は少ない。
ただし、気付こうとすればいくらでも気付けるし、調べられる。
ニュースやネットの普及で、他国の情勢を簡単に知ることができるように。
どの場所でどういった動きがあったかなんていうのは、情報を生業とするものや、国を動かす立場にある者へ筒抜けになりやすい。
だから、霞さんの異象結界、もとい「ローゼン・ガルテン」は移動手段として使うことができないと、彼女は遠回しに説明してくれたのだ。
「なので、もし私が送るとしたら普通に飛んで、それに乗ってもらうしかないんですがね。乗り心地は期待しないでくださいね?」
「いや、乗るなんてそんな……恐れ多いです」
「気にしすぎ、ですよ。竜の背中に乗るような、そういうアトラクションだと思って、ね?」
彼女はウインクしながら、微笑んだ。
ずいぶんお茶目なことをいう。竜の背中というのが、はたして乗り心地が良いのか悪いのかは、わからないが。
「急ぐとなれば、夜の空を駆け抜けるしかないですからね。まあそれが私の本分ですし、そうすれば多分誰にもつけられないでしょうし」
なるほど。
結界術を使わない普通の移動法なら、吸血鬼の隠密性は横に並ぶものなしだろう。
しかし、それは逆を言えば、霞さんがつけるような者がもしかして、もうこの世界に居るのだろうか。
どこからか情報が漏れているのか、それとも、誰かが流しているのか。
けれど、そういった世情にうっすらと気付いて、先読みの行動ができる霞さんも、さすがだな。
「ああそれと、これはお返ししますね」
今気づいたと言わんばかりに、彼女はローゼン・ガルテンの施された巾着袋と、鞘に収まった玉泉をガラステーブルの上に置いた。
きっと、ミズチを殺して呆然としてしまい、戸牙子ちゃんの部屋に落としたままのそれらを霞さんは拾っておいてくれたのだろう。
だが。
「……え、霞さん!?」
彼女は、巾着袋の紐を緩めて中を開いたかと思ったら、玉泉をその中にすとんと入れたのだ。
もちろん、手のひらに収まるような大きさしかない巾着袋では、どれだけ懐刀が小さめであったとしても入るわけがないのに。
袋の底を突き抜けることもなく、押し出して布地を広げることもなく、まるで異空間に落ちていくように、玉泉は収まってしまった。
「はい、どうぞ」
「いや、何をしてるんですか。玉泉はいざ知らず、その袋は私たちが持つには価値が……」
「ええ、でしょうね。ですからこれは、個人的な贈り物です」
「……何を言ってるんですか?」
「神楽坂結奈さんへあげる、と言ってるんですよ。方舟が持つにはあまりにも重すぎるのなら、あなたが持てばいいでしょう?」
「いや……そうはいっても……」
「ふふ、私はあなたに、というかみなと君と結奈さん二人に、これ以上無いぐらい恩を頂いていますからね。個人的に返さないと、返しきれない借金なんですよ。これは言ってしまえば、血の賄賂ですね」
にこにこしながらカップに口を付けて、紅茶を含む霞さん。
賄賂、とは言うが。
むしろ私たちの方が、彼女に賄賂を渡してでも、味方をしてほしいぐらいなのに。
ここまで乗り気というか、自ら乗り出してくるような態度に不安を覚えるのも無理はないと思いたい。
なぜ、霞さんは私たちに肩入れするのだろう。
恩人に自分の身を捧げるような、そういう献身的な立ち振る舞いに疑問を覚えたりはしないのだろうか。
「結奈さん、そうではないんですよ」
テーブルを挟んだ先にある黒い粒子で形成された蝙蝠羽が、私の頭をなでできた。
その羽の感触は、まるでつかみどころのない霧のようだったが、優しい動きだったせいか不思議と警戒心が緩んでしまう。
「私がこうしているのは、罪滅ぼしみたいなものなんです。自責を抱え続ける日々はもう終わりにしろと、あなたの弟君に、そう諭されたのですから」
「……霞さん、私の心を……」
読んだ、のだろう。
魅了の技を持つ彼女は、神通力の他心通と同じような、心読みの力がある。
心を読んでいるのではなく、相手の心が勝手に流れてくると例える方が良いらしいが。
「ぶしつけなことをして申し訳ないです。ほとんど無意識でやってるというのは、言い訳にはできませんね。でも、これだけは言いたいのです。私がこんなことを対価もなしにできるのは、私がおばあちゃんだからなんです」
冗談を言っているような雰囲気ではなかった。
「……お若く見えますが」
「何をおっしゃいますか。私、ミズチほどではないにしても彼女といい勝負してますよ。私たちみたいに永く生きてきた存在というのは、もう自分の生き死にへの興味はなくなるんです。むしろ、自分たちが与えたもので新たな人々が、どんな姿を見せてくれるのかに俄然興味がわくものです。結奈さんは、取引と契約を繰り返し続けて、対価と報酬が当たり前の世界を生きてきたのでしょう。だから、理解できない。意味がわからない。その神経がおかしいと感じてしまう」
自嘲するように彼女は軽く失笑して、使役していた蝙蝠羽を消した。
宙ぶらりんになるカップとソーサーを、彼女の生身の両手で持つ。
「老婆心、なんですよ。近しい人が黒く染まっていくのを見るのが耐えられなくて、なんとかして救ってあげたいと、嵩高にも考えてしまう。おかしい話ですね、時代を作るのは新人類であって、私たち老人の出る幕などないというのに。早く養分になってしまえば、新しい世代の土壌になれたらいいと思いつつも、でもどこか、『まだやれる』って思ってるんでしょう」
「それが、私に肩入れする理由なんですか……?」
「いいえ、それは理由ではないですね。言い方として適切なのは、レゾンデートルではないでしょうか?」
「レゾンデートル……たしか、存在理由という意味でしたよね?」
「存在している価値、です。私があなたに力を貸すのは、私の存在価値を今でも残し続けるため。つまりは、意志と尊厳の保身。自己満足の身勝手ということですよ」
不思議で不可思議な価値観というか、私には理解できない。
いや、きっと今は理解できない領域であり、もっと歳を重ねれば見えてくる景色なのかもしれない。
そういう考え方もあるのだと、彼女は言ってくれたのだ。
狭窄気味になっている視界を、もっと広げてみてもいいのではないかと、そう言われたようにも受け取れてしまう。
だが、嫌味に感じる説教ではなかった。
それはなぜだろう。彼女の話し方が、どこか母親のような語り方だったからなのか。
私は、母親同士の気分で話していたつもりだったが、いつの間にか彼女の顔は、娘を持つ母親の顔ではなく、娘に語りかける親の顔になっていたのだ。
おばあちゃん。霞さん自身の語ったその肩書きが、妙にしっくりくる。
孫を相手にしているような感覚なのだろうか。
「とにかく、その巾着袋は差し上げますからね。もうウダウダ言われても受け取りませんから」
「ええ……」
「ほら、しまった。もう蝙蝠の羽しまいました。あれがないと私の結界術には繋がりませんからね、仕舞えませんからね、返されても困りますよ!」
まるで、奢った後に無理矢理渡してこようとするお金に対して、「財布しまったから!」と抗議する主婦に見えてしまった。
母親、おばあちゃん、それに続くのはおばちゃんか……。
「……大切に保管します」
「あら、使ってくれて良いんですよ? その中に入れたものは現実時間での劣化が緩やかになりますから」
「でも、これって霞さんの結界に繋がってるんじゃないですか? ものを入れたら、あなたの世界に詰め込まれてしまうんじゃ」
「ふっふっふ、実はちょっとしたタネがありましてね、その巾着袋はそこで完全に完結してるので、本体の私とは繋がっていないんですよ!」
むふーという擬音が似合いそうな、誇らしげな笑顔を浮かべて両手を腰にあてるさまが、なんだか本当のおばちゃんっぽい。
属性が行ったり来たりで忙しい人だな……。
しかし、つまるところこの巾着袋は、電話機の子機のような存在ではなく、これ単体で独立している携帯と同じようなものか。
元々持っている結界を参考にして新しく作ったのだとしたら、離れ業がすぎる。
「じゃあその……ありがたく使わせてもらいます。実は丁度、私の持っていたのが手元からなくなったので、非常に助かります」
「やっぱり、結奈さんの見た目が身軽なのはそういうことでしたか。女なのにジャケット一枚だけで移動しているなんて、ちょっと信じられませんでしたからね」
「化粧品はまあ、現地で買ったりするんですけどね……」
「マジですか、今度一緒に買い物行きましょう、私あなたの女子力に危機感を覚えます」
語調が乱れるなんて、よっぽど動転しているのか、心配されているのだろう。
そんな風に気楽に考えながらカップに口を付けると、紅茶がもう底を尽きかけていて、いつの間にか最後の一口になっていた。
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