「がはっ!?」
首の背に、鋭く刺さる強烈な打撃が走った。
足取りがふらつき、気絶しそうになるが、脳天を自分で殴って意識の位置を戻す。
今、何が起こった?
彼に向かって突進したはずなのに、いつの間にか鬼は僕の後ろにいた。
瞬間移動された、ではない。
だってそれはおかしい。
もし瞬間移動していたのなら、突進しようとした鬼は、なぜまだそこにいる。
鬼は、移動していない。
それどころか、僕が向かおうとした位置から一歩たりとも、動いてすらいない。
分身なのか。
けれど、後ろを振り返っても鬼はいない。
いや。
分身でも瞬間移動でも、なんなら時を止めてその間になにかされたわけでもない。
わかる、わかっている。
僕の中に眠る直感が、がんがんと警鐘を鳴らしている。
僕は、錯覚している。
もう一度、湿り気を帯びた地を蹴って、先ほどの位置から移動していない鬼へと殴りかかる。
しかし、また届かなかった。
意識すらしていなかった横っ腹を殴られて、豪速で体が吹き飛ぶ。
宙を飛ぶ体は大樹に打ち付けられてスピードを落とし、そのまま重力にひかれて顔面が木の幹にぶつかる。
「みなとっ!」
額に襲い掛かった痛みが激しく、戸牙子の悲痛な叫びが傷口と頭にしみる。
硬い幹との衝突で、またも脳天を揺らされ気絶しかけた。
あまりにも、こいつとの戦闘は分が悪い。
怪異に対して無類の強さを誇る白式でも、届かなければ意味がない。
撫でるだけで相手に壊滅的なダメージを与える型式でも、触れられなければ意味がないどころか、使わなくて良い技になってしまう。
そういった意味では、ミズチの力以外で実戦的な技がまだまだ未熟な僕と、この鬼との対戦カードはあまりにも相性が悪い。
視界の先で、戸牙子が涙目になりながら僕を見据えていた。
『早く逃げろ』
思考がふらついてまともに声が出せなくても、口をそうやって動かすだけで、感覚が鋭敏になっている夜の吸血鬼なら僕が何を言いたいのか、わかってくれるはずだ。
なのに、彼女は僕を睨み返すだけで、恨みつらみがこもった怒りの炎を鬼へ向けて、叫んだ。
「あんた、いい加減にしてよッ!」
戸牙子が闇夜にとける黒い羽をひらき、宝眼と毒の煙を同時に浴びせようとする。
アメジストの宝石が流星群のように放たれ、紫の霧は星明りを覆い隠す勢いで鬼を包み込む。
が、鬼は紫水晶の弾丸を引き締まった肉体で難なく受け止め、粉々に粉砕。毒の煙にはずんずんと迷いなく、自ら入ってきた。
「なっ、なんで、効かないのよ!?」
毒煙を吸い込んでも異常をみせない鬼は、のろのろ悠長ながらはっきりした足取りで、戸牙子の近くへ歩み寄る。
効かないことを分かっているような、余裕な姿勢にも見えるそれが、強者の様相をありありと示していた。
「い、いやっ! こないでッ! 助けて!」
ぴた、と。
鬼はなぜか、戸牙子の放った恐怖の叫びで、命令に忠実な従者のように足を止めた。
いや、なぜと不思議がるほどではない。
一度吹っ飛ばされて、戸牙子と鬼の立ち振る舞いを遠目から見たおかげでもあるのだろうけれど、僕には初めから疑念があった。
当事者であるほど、場の戦況は状況は読みづらい。
だから軍師や、戦略家や、参謀がいるわけで。
そしてその役目をつかさどっているのが、偶然にも今は僕であっただけだ。
戸牙子は攫われた被害者で、鬼は攫った加害者。
そこは変わらない事実ではあるが、戸牙子自身は恐怖心で目が曇り、判断力が鈍っているのかもしれない。
それは仕方ないだろう。
誰だって、自分を殺そうとしてくる相手がじりじりと歩み寄ってきたら、恐怖で視界も思考も鈍るだろう。
たとえそれが、勘違いであったとしても。
そもそも戸牙子が攫われたのは、なぜなのか?
あの鬼には、どうしても彼女を攫いたかった理由があるように見える。見えてしまう。
こういった「相手にも何かしらの都合があるのではないか?」と考えてしまうのは僕の悪い癖だとも指摘されるが、交渉人としては有用なスキルとも言われたため、とりあえず今は考えを巡らせる。
あの鬼がその身に宿している感情は、悪意に満ちた意思ではなく、もっと別のなにか。
だって、あの鬼は僕に向けていた敵意を。
戸牙子には、向けていない。
僕には遠慮なしに殴りかかってきていたのに、戸牙子にはゆっくりと歩み寄る様を見ても、扱いが違うのは明らかだ。
まるで、戸牙子の反応を伺うような立ち振る舞い。
何か、あの鬼には全く別の意志がある。
それがどういったものかまでは、今ある材料だけでは判断できない。
本当なら、これぐらいさっさと推察できるだけの力を持たないと失格なのだろう。
交渉人として組織に籍を置いているのに、まるでらしいことができていない。
『どうしても困ったときは、壊していいよ』
首から下がる、青い水晶のついたネックレスを見て、ふと虹羽さんの言葉を思い出す。
今の僕では、半神の能力が薄れかけて頑丈なだけが取り柄になっている僕では、現状を解決できる方法も手段もない。
怪異に対して天下無双の白式も、意識外から攻撃されて、届かない。
ミズチも眠ってしまって、神力も勝手に使うことができない。
鬼から戸牙子を守ることもできないし、戸牙子と一緒に逃げ帰ることもできない。
だが、だからといって、このアイテムに頼るのは、諦めではない。
誰かの助けを得て、もう一度僕が解決するためのチャンスを手に入れなければ。
仕切りなおさなければ。
これは、僕の仕事だ。
僕が最後まで面倒を見ないといけない、大切な依頼なのだ。
「おおおおぉぉおおッ!」
立ち上がり、きしんでうめく体の悲鳴を渾身の叫び声でかき消し、僕は走る。
制止した鬼と後ずさりする戸牙子の間は、2メートル近い鬼の体格でおよそ2歩分。
だから、僕の突進は鬼に向かったのか、戸牙子へ向かったのか、判断しづらい動きのはずだ。
判断しづらい動き。
予想しにくい立ち回り。
明確な目標が見えない特攻。
ブラフを張る行為が、この鬼には効く。
こいつは、錯覚を起こさせる怪異だ。
霧に微睡むように、霞に消え入るように。
意識の隙間に入り込み、相対する相手の頭を混乱させる。
それだけはわかっていた。だからこそ、僕が走って特攻してきたことへの対処法は、きっとひとつ。
僕を攻撃して、足を止めることだ。
「ぐっは……効くかよぉ!」
またも、意識の外から首の背に殴打をくらったが、虹羽さんからもらった水晶玉を歯でかみしぎり、必死に耐えた。
そして僕は鬼を無視して、スピードを乗せたまま両手を広げて、半ば突進する形のまま戸牙子へダイブ。
「えっ!?」
何をされたのかも分からず、驚愕の表情を浮かべる彼女と、キスができそうな至近距離で目を合わせる。
残念ながら、今は飴玉を歯で挟んでいるから口づけはできないが。
がきゃり。
ガラスの飴玉を、渾身の力をこめて、歯で食いちぎった。
割れた水晶玉の中から出てきた液体は、一瞬で風船のように膨張して僕の周りを包み込み、抱擁している戸牙子も混ざった。
そして、世界が虹の絵の具で上書きしたパレットのように、塗り替わる。
深夜の山奥から、虹色の雲が土台となった天界のような空間へ、僕らは瞬間移動。
抱えた戸牙子を守るように、背中から倒れこむ。
わたあめのようにふわふわの雲が、着地の衝撃を和らげる。
そんなメルヘンチックな空間には不釣り合いの中年男性が、駆け込んだ先で立っていた。
「おやおやぁ、裸の女の子を連れてるとかみなと君、僕はガールフレンドを自慢させるためにそれを渡したわけじゃないんだけどねぇ?」
場を茶化す皮肉。
ニタニタと見透かすような笑み。
趣味の悪い、虹色のスポーツサングラス。
性格の悪そうな、そのどれもが。
今の僕に、安心をもたらしてくれた。
「眩しいねぇ、これが青春色ってやつかい?」
虹羽ヤノは、そう言って倒れこむ僕たちの前で膝を曲げ、にたっと微笑んだ。
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