非殺の水銀弾

過保護な義姉が神殺しだと知った日、僕は神様になりました
アオカラ
アオカラ

013 ティンダロスの土産

公開日時: 2020年11月4日(水) 18:00
更新日時: 2021年4月30日(金) 19:46
文字数:1,761


 蛙のような声を上げて、おそらく数時間前に食べたものと胃液を吐き出しながら商人は水路の壁に衝突。


 手加減はできなかった。

 多分、普通の人間なら内臓が飛び出て、どろどろの液状になっていてもおかしくはない力で殴りぬいた。

 なのに、商人は五体満足だった。


「くはっ、はあ、はあ……くそっ……こんなところで、死んでたまるか……!」


 商人は自ら喉の奥に手を突っ込み、嘔吐と共に小さな飴のようなものを吐き出した。

 先ほど女巨人が出てきたビー玉にも見えるが、その中身がもっと根本から違うものであることが、生命の根底にある本能的な恐怖で理解できてしまった。


 手に持っていた黒く光る球体を握りつぶして、破裂。

 あたりに強烈な異臭と、どす黒い血のような液体が飛び散り、商人の体が少しずつ歪んでいく。


 いや、それは歪むなんてものではなかった。

 もっと根本的に、体組織が人ではないものに変化している。


 肉と草が腐り果てたような腐臭と、重油のような黒い液体が商人の全身を覆っていき、体格が人間のものではなくなっていき、変貌。


 それは四本足で、尻尾があり、少々大きめなオオカミのようにも見える姿。

 しかし、現実世界にいるオオカミとは全く似ても似つかない特徴が、二つある。


 ひとつが太く曲がりくねっている、注射針を思わせるような長い舌。

 もうひとつが、目があるはずの場所には爛れた斑点状の皮膚になっており、見ているだけで身震いしてしまうような気持ち悪さとおぞましさが混在していた。


「ティンダロスの猟犬!? みなと、離れなさい! そいつを相手にしたらだめ!」


 離れていた姉さんの叫びに近い忠告は、情けないが言われずともそうしたいと思ってしまうほどだった。


 目の前にいるこいつは、本当にやばい。

 本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らしており、動悸と鳥肌が収まらない。

 けれど、ここで僕が逃げてしまったら、姉さんとノスリたちの数の有利が無くなってしまう。


 きっと、姉さんならこいつを倒すことはできるのだろう。


 しかしそうなると、僕とノスリで女巨人を止めないといけないわけだが、それができる自信はない。

 逆にこのまま商人の面影がなくなった犬を、手加減なしの全力でやろうとしても、倒しきれるのだろうか?


 悶々と悩んで立ちすくむ僕をよそに、黒い犬は跳躍した。

 目で追うより先に殺気を感じ取り、慌ててしゃがんだ。


「あっつっ!?」


 上空をかすめていった犬の黒い体液が皮膚に当たると、そこからじゅうと湯気のような煙がのぼり、痛覚が叫びをあげた。

 商人が放った炎の球を受けても熱くなかったのに、なんでこれは効くんだ……!?


 よくよく見ると、黒い体液は金属を溶かす酸のように僕の皮膚をむしばんで、腐らせている。

 体液の当たったところで膿がじゅくじゅくと湧き上がり、腐敗していく。


「っ!? い、いたいっ……!」


 腐った卵や、放置した牛乳なんかではきかない腐臭が立ち込める。

 ……まさか、こいつの体液は、付いたところ腐らせるのか!?


 ぐぁぁお。


 鳴き声、と言っていいのか分からない唸りが聞こえたころには、また肉薄されていた。

 眼前に犬の口が広がっていて、僕を呑みこもうとしている。


「こんのぉ!」


 間一髪で、犬の鼻と下あごを掴んで抑え込み、口を無理やり閉じて噛みつかれるのを防いだ。

 普通の犬ならこうするだけで、とりあえず噛みつかれる心配はない。


 普通の犬なら


 圧でがっちり閉じた口先から、うねうねとしなる針のような舌が、僕の顔面を狙いに定めている。

 だが、その針が僕の顔を貫く前に犬は銃声と共に真横に吹っ飛んでいった。


「みなと! 逃げなさいっ!」


 銀の弾丸がもう一発、犬へ向かって放たれたが、銀色の火花が地面に着弾しただけで終わった。

 犬もどきが、ぬるりと影に溶けて避けたように見えた。


「虹羽先輩を呼びなさい! あなたにそいつの相手は無理よ!」


 姉さんの忠告が耳に届いて、素直に聞こうとしたがどうやって虹羽さんを呼べばいいのかわからず、一瞬だけ固まってしまった。


 その一瞬で、背後によくないものが迫ってきた感覚に襲われる。

 振り返って対処しなくてはならないのに、見てはいけないおぞましい者が確かにそこにいる恐怖に、足がすくんでいた。


「逃げてえっ!」


 姉さんの痛々しい叫びを浴びても、全く動けなかった。

 死を覚悟した、つもりだったのに。

 恐怖というのは、ここまで人を停止させるのか。


 ばちゃ


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