春の香りにすっかり包まれた柔風が、肌を撫でる日頃。
心地よい暖かさと、桜の花びらがちらほらと地面を彩る景色は、不思議と日本人の心を和ませる。
桜は種類にもよるが、比較的早咲きのものと遅咲きのものに分かれている。
いや、それ自体はきっと普通のことであり、遅い早いの差は単純に埋められた順番とか、生まれた順番とか、もしくは桜の咲いている場所の地形や環境だとか、要因は色々ありはするのだろうけれど。
しかしながら、桜というのは大衆のイメージ的には終わりと始まりを見届ける役であり、卒業式や始業式と常に共にいるような感覚だが、春を迎えて咲き始めた桜は意外に早く散っていたりして、かと思えば普段自分が行かないような土地まで出向くと満開だったりすることもある。
暖かい地域では早く咲いて、寒い地域だと六月頃に咲くこともあるのだとか。
そうなってくると、簡単に「春の香り」とたとえはしたが、果たしてそれは桜の香りと断定してしまって良いものなのだろうか。
まあ、そんな平和なことを考えられるだけ、春は気分も暖かくなりやすい時期であることは間違いない。
冷え切った寒さと暗い日差しが息を潜めて、待ちわびたように咲き始める木々の香りが、僕は春の香りだと思っている。
とは言いつつも、やはり春と言えば桜。
僕は桜が満開になるまでの過程も好きだし、満開のあとひらひらと散る桜吹雪も好きだ。
葉っぱの緑と桜の薄桃色が枝に入り交じり、春の終わりを感じさせる姿も、また乙なもの。
そんな風に全身で春を堪能していた時期、僕は戸牙子から駅前のファーストフード店へ呼び出された。
何やら要件があるらしいのだが、電話では特に教えてくれず、ただ「来てほしい」としか言われなかった。
もちろん僕は彼女の友人であり、別に嫌っているわけでもないのだが、わけを教えてもらえないことにちょっとした不満というか、まあ包み隠さずに言うと返答を濁していたのだが、そんな僕が呼び出しに応じたのには理由がある。
なんと、彼女のおごりである。
まるで「おごりだからついてきた」という非常に卑しい人間に思われるかもしれないが、人間なんて案外そんなものだと思いたい。
というより理由があれば来るのかと言われたら、そういうわけでもないというか。
いかんせん、戸牙子が現在住んでいる新山査子家、ならぬ真山査子家は僕の住む地域からそれなりに遠い。
となれば、僕の最寄り駅に近いファーストフード店を集合場所にしたということは、彼女がわざわざここまで出向いてくれたことは理解している。
そして「おごるから」と名分まで謳って呼び出してくるとは、もしかすると重要な案件なのではないかと懸念して、ある程度の準備を整えてから行きたかったのだ。
ようするに、男として見栄を張りたかったというのが本音。
デートというわけではなくとも、女の子の前だし少しぐらい身だしなみを整えたい。
なんせ連絡がきたのは、今日の午後四時頃、つまりつい先ほどだったから。
しかも電話で起こされた。完全な寝起きである。
いや、ここで一つ弁明をさせてほしい。
確かに学校はもう始まっている。
しかし、これは本当に残念だと心の底から思っているのだが、通信制高校というのは時間の制約がない、なさすぎる。
午後から登校したって良いし、午前だけで終わらせても問題ないシステムをしているため、言ってしまうと時間感覚が緩みまくってしまい、贅沢な時間の使い方ができてしまえるのだ。
そのせいで、まだ転入して一年目の始まりなのに、家事が終わればお昼寝をして過ごすという専業主婦のような日々を送っているのだ。
バイト禁止だった神楽坂家で、長期休みの時に行っていた生活サイクルと全く一緒であり、なんというか年中夏休みとはこのことかと思わされる。
ミズチのせいにするのもさすがに悪いというか、そこまで僕も悪逆非道ではないが、まあ気持ちよくすやすやとお昼寝をする相棒のそばでうとうとしてしまうのも、仕方ないと思ってほしい。
と、ここまで稚拙な言い訳を並べはしたが、戸牙子を待たせているのも申し訳ないため、手早くシャワーを浴びて気持ちをすっきりさせ、僕はファーストフード店まで出向いた。
「好きなもの頼んでいいわ」と、先に席についてフライドポテトをおよそ一人で食べきるのが難しいのではないかというほど大量に注文していた戸牙子から、一万円札を渡された。
一瞬、ハンバーガー百個にこの諭吉を費やしても面白そうだなんて悪戯心が芽生えたが、さすがに迷惑客というか、面倒な客として巴さんにぶん殴られそうなので、ぐっとこらえる。
現在の時刻は平日の午後五時過ぎであり、昼時のピークに比べると店内は閑散としている。
受け取った軍資金を手にレジへ進もうとすると、ぐいっと脳内が引っ張られた。
「おい、みなとよ。サイドメニューフルコースの約束を忘れたのか?」
「……そういえばそうだった、記憶力いいじゃないか。じゃあ全部頼めばいいかい?」
「いんや、わしの気になるものを実際に見て選びたい。だからお前さんよ、トイレへいけ」
「……まさか?」
「実体化し、変化する」
サイドメニューフルコースをおごる約束はしたのだし、破るつもりはないが……。
服はどうするのだろう。
「こんなこともあろうかとな、わしは戸牙子と同人イベントに行った時の服装を完全記憶しておる。再現は可能じゃ」
「再現? どうやってさ」
「まあ、目の錯覚を起こさせる感じじゃな。ツノを見えなくしたように」
なるほど。
なら大丈夫そうか。
おもむろに、レジ順番待ち列から外れる。不思議に思う人はいるだろうが、きっと気にも留めないだろう。
そして、トイレへ。
正確には、男子トイレへの扉をあけて、鍵をしめる。
幸いにも、完全個室タイプのおかげで人目を気にする必要はない。
大丈夫、僕はミズチの保護者であって、これは父親が幼児の娘に同行するのと一緒だ。
決していかがわしい目的があるわけではない、そう言い訳させて欲しい。
「んじゃ、着替えようかの」
ミズチは僕の体から、もっと精密に例えると僕の背中から脱皮するサナギのように、にゅるりと実体化する。
そして、乙女として全く恥じらうことも焦ることもなく、着ている服に手をかけてばさりと全裸になった。
平坦な体のラインは、どこまでも美しく玉肌のようにきめ細かい。というより子供のみずみずしい肉体美とでも言うべきか。
「なんじゃ、そんなに珍しそうに見んくてもええじゃろ。それとも今の男のくせにこんな貧相な体に欲情するのか、お前さんは」
「肌が、綺麗だよね。なんかもっと、僕の心臓みたいに蛇っぽさが強いのかと思ってたけど、人の肌みたいに綺麗だ」
「お、おう……なんだかそういわれると照れちゃうのぉ。飲血療法が効いておるんじゃろうな」
「アイアンメイデンのエリザベート・バートリじゃないんだからさ。いや、まさかミズチは日本版バートリ夫人だったのか」
処女の鮮血を浴びて肌が綺麗になるという迷信、「鉄の処女伝説」とミズチは似ているような気がする。
「んふふ、しかし綺麗だなんて久しく言われておらんかったから、年甲斐もなくはしゃいじゃうのぉ。いやはや成長したではないかみなと。女の扱い方がわかってきたのではないか?」
「わかったわかった、それでどうやって着替えるの?」
全身素っ裸の状態で腕を組み、仁王立ちするミズチから目線を逸らしつつ言う。ロリコンではないとはいえ、さすがに目の毒だ。
ほどなくしてミズチは「もういいぞ」と言って、トイレの扉に手をかける。
そこには、同人イベントに行った時のボーイッシュな服装に身を包んだ幼女がいた。
黒髪にキャップ、ダボっとしたパーカーにデニムショートパンツとスニーカー。
なんと象徴的な二本ツノまで消えている、アイデンティティの欠片もなくなっている気はするのだが、変化能力として評価するなら最高レベルだろう。
普段のミズチではないその姿は新鮮で、同時に着こなしているように思う。
戸牙子のファッションセンスに間違いはないようで、安心はしたのだが。
「ちょっと待って、二人でトイレから出てきたらほら、周りの人に怪しまれるでしょ!」
「わしはむしろ見せつけてやってもよいぞ、えい」
扉を開けやがった。僕の許可も意見も全部かなぐり捨てて、独断行動だ。
なんと個室の先には、僕がトイレに駆け込んだのを見られていたのか、女の店員さんがにこにこと微笑みを浮かべて立っていた。
「お客様、トイレの長時間ご利用はご遠慮いただけますでしょうか?」
「あ、ご、ごめんなさい!」
慌ててミズチの頭も鷲掴み、勢いよく下げて一緒に謝る。
だが。
「ふふっ。なんて、冗談ですよみなと君。お着替えをしていたんですよね?」
その声色には、聞き覚えがあった。
母のような暖かさを持つ口調と、慈しみを醸し出す声音は、ついこの前知り合ったばかりのものだ。
恐る恐る顔をあげると、ファーストフード店の制服に身を包む、金髪で赤眼の吸血鬼がいた。
制服姿だったせいで一瞬、本人かどうか悩んだが、その愛想の良さで確信できた。
最古の王で、最後の王。
ローゼラキス・カルミーラ・ホーソーンが、「山査子」と書かれた名札をつけて、優しく微笑んでいた。
*
「ただいまの期間は絶品倍々チーズバーガーがおすすめですよ」
「倍々チーズバーガーというのはいったいどれくらいチーズが入っておるんじゃ!?」
「たくさんです」
「食べたい!」
ぐいっとつま先立ちしながらカウンターのメニューを覗きこみ、眼を輝かせながら何度も質問を重ねるミズチ。
それに対して嫌な顔をせず、丁寧に商品説明をしてくれるロゼさん。
しかし、ミズチへの応対は丁寧というより、子供に接する態度だな、うん。
「みなと君はお決まりでしょうか?」
「……ロゼさんがどうしてここで働くことを決めたのか知りたいですね」
驚きの方が強くて、僕の食欲はどこかにすっとんでしまった。
それでも何も頼まないのは口寂しいから、烏龍茶だけ注文しておく。
「世間に馴染むためにはバイトが一番だと戸牙子から言われまして。実際楽しいですし、充実してますよ」
真っ当な提案ではあるが、あの引きこもりハーフヴァンプがそれを提言したのだと想像すると、笑い話もいいところだ。
人のこと言えるのかい、戸牙子よ。
「けどたまに、心配なのか戸牙子が見に来るんですよ。そこだけはちょっと気恥ずかしいですね」
「気恥ずかしいで済むのもすごい気はしますけどね」
バイト先に身内が来て追い返すこともしないなんて、余裕があるというか、圧倒的母性というか。
僕なら多分、知り合いがバイト先に来たら恥ずかしくなるだろうな。バイトしたことないけど。
しまった、結局僕もバイトは未経験じゃないか。戸牙子のこと笑えないよ。
「ナゲット! ソース全種類で欲しい! あとポテトも!」
「かしこりました」
ミズチの注文にテキパキと小慣れた動作で手元を動かし、タッチパッドに指を走らせるロゼさん。
なんだか、現代の世間に馴染めるかどうか不安になっていた僕が考えすぎだったと思わせられるぐらい、手際がよかった。
「ロゼさん、今日どうして戸牙子が呼び出してきたのか知ってます?」
「……え、デートじゃないのですか?」
「冗談やめてください……」
母親が働いているファーストフード店をデートの集合先にするなど、とんだバカップルだ。
「そうですね、私も詳しくは聞いていないのですが、頼みごとがあるらしいですよ?」
ロゼさんはそう続けながら、ルビーの眼を明後日の方向へ向けて瞬かせる。
これは、本当にあとから聞いたロゼさんの癖、ではあったのだが。
彼女は真実を隠す際に、自然と片目をつぶる癖があるらしい。
まるで背けたい現実を直視しないようにする、誰にも向けないウインクの意味を知るのは、また後日のお話。
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