自身の痴態を自覚したことで頭が冷静になったのか、それとも切り替わったのか、戸牙子は素直に僕の言うことを聞いてくれた。
父親と別れたという無人駅からふわりと飛び立った僕の背中に、ぴったりくっつくように、というより隠れるように付いてきた。
当たり前のように“飛び立った”とは言っているが、僕の場合はどちらかというと“浮く”であり、厳密には戸牙子の方が“飛んでいる”に近い。
コウモリの翼をパタパタと動かして飛行する戸牙子と違い、僕の方は例えるなら全空間を水中に変えて、その中をふわふわと泳いでいる感覚に近い。
なぜ飛ぶ方法を選んだかというと、歩きで行くにはかなりの距離があったからだ。
本当なら瞬間移動技である「神足通」で連れて行けたら良かったのだが、あれは連発できるほど万能ではないし、ノーリスクな技でもない。
僕の上着ぐらいしか身体を隠すものがない彼女には申し訳ないが、自力での飛行をお願いした。
そんなこんなで山査子家に到着するまで一時間はかかり、時刻は夜十二時を回っていた。
着替えが済むのを居間で待っていようとしたら、戸牙子は僕の背中にくっついたままこう言った。
「離れないで、おねがい」
泣きそうになりながら静かに懇願されたのを突っぱねるほど、僕も鬼ではなかった。
着替える時だけは後ろを向くことを許してもらい、僕は戸牙子の自室まで付き添うことになった。
衣擦れの音が聞こえるほど背中合わせの至近距離で、女の子が着替えている状況というのは、ともすれば何かしらの事案に発展してもおかしくない危険な香りすら感じられる。
彼女の方を見ないようにしているが、それでも異性がいる部屋の中で平気で着替えられるなんて、精神の疲弊具合を感じられる。
一週間ぶりの実家に気が緩んでいるのかもしれないし、あの鬼にまた襲われるのかといった不安で、理性がまともに働いていないのかもしれない。
いや、むしろこれは彼女からの全幅の信頼でもあるのだろうか。
だとするなら、ここでその信頼を壊してしまえば一生取り返しがつかない。
一生かけても直せないではなく、彼女の一生を終わらせかねない非道を行うつもりも、毛頭ない。
現時点で僕に求められている役割は、慰めではなく。
ただそばに居てあげるだけの、安らぎを与えるぬいぐるみで良いのだ。
「あたしさ、どうして母親に捨てられたのか、ずっとずっと考えてきたの」
不意にぽつりと、母親が遺した唯一の洋服に着替えながら、彼女は静かに紡ぐ。
「何か悪いことをしたのかなとか、産まれながらおかしな子供だったのかなとか、顔が気に入らなかったのかなとか、子育てが面倒だったりしたのかなって。でも何度考えても、やっぱりネガティブな理由ばっかりしか思い浮かばなくて。自分を肯定してくれる人が居ない寂しさって、果てしないって思ったわ」
たとえ本当にそう思ってたとしても、それを子供に悟らせないことぐらい、親がする最低限の義務なんじゃないの? と。
戸牙子はあくまで淡々と、今までの記憶を無機質な音声ソフトで読み上げるように続ける。
「憎もうとしても、憎む気力もいつの間にか尽きてしまって。たまにふっと、怒りが湧いても、結局それが無駄な八つ当たりであることがわかったら、考えるのも無意味だって。じゃああたしが今こうやって生きて、考えて、何かをしようとしたって、全部無に終わるじゃない?」
「それは違う」と、声を荒げても言いたかった。
僕だけじゃなく、桔梗トバラのリスナーたちも、そういってくれるはずだと言いたかった。
でも、彼女の冷静な分析に、感情論で太刀打ちできそうな雰囲気もなく。
ただ独り言を紡いでいるだけの彼女にかけられる慰めの言葉なんて、なかった。
「なんのために生きてるんだろうね、あたしって。誰かの力になりたかったのかな。誰かに認めて欲しかったのかな。誰かに愛してるって言って欲しかったのかな。忘れられるあたしが何を考えても意味がないって思ったら、どうでもよくなっちゃって、ささっと死にたいなぁって思い始めたのにさ」
平坦な独白だったものが、ほんの少し色を灯す。
「みなとって、どうしてあたしを気にかけてくれるの?」
今までの独り言とは違う、純粋な疑問をかけられたことに気づき、僕は考えた。
しかし、僕の答えは初対面でリストーカー扱いしてくるような、壊滅的な出会いの時から変わっていない。
「心に傷を負った人の、力になりたいって思ったから。ただそれだけだよ」
「……それは、理由になってるの? あなたがそこに至る行動原理、思考回路がよくわからないわ。もし、もしもの話だけど、あたしのことが好きだったのとしても、そこまでしてくれるものなの?」
「戸牙子のことはエンターテイナーとして好きだしなぁ。僕は好きになった人にはとことん甘くなるよ?」
「いや、限度があるでしょう? 親子であっても、子供を捨てたり絶縁したりなんてよくあるのに」
「……これを言うと君の地雷を踏んでしまいそうで怖いけれど、あのね――」
どうやら着替え終わったようで、こちらの肩をとんとんと叩いた戸牙子の方へ、くるりと振り返る。
ブラウスにロングスカート。シンプルな服装だが、ハーフアップの髪には花のかんざしが付いており、高貴な吸血鬼らしさを感じさせた。
「捨てる神あれば、拾う神ありっていうから。君が誰かに捨てられたなら、僕が拾うぐらい良いでしょ?」
「……神様のなりそこないでもそんなことしてくれるんだね」
「真似事をしたくなる年頃なんだって、あんまりつっこまないでよ……」
「ふふ、自分でそんなこと言うなんておかしいわね」
「君だって、ひどく冷静に自分のことを分析していたじゃないか。それを倣ってみたんだよ」
実際のところ、放っておけなかっただけだ。
それは傲慢とも言えるのかもしれないけれど、彼女の話し方や警戒心の高さから、「この子には誰かがついていないとあげない」と、浅はかにも思ってしまったのだ。
それは、僕でなくていい。
むしろ僕以外である方が、きっと適切だ。
戸牙子の人生にとって、僕との出会いは二度目であり、貴重な機会なわけで。
当然といえばそうだし仕方ない話ではあるが、彼女は知り合った人に依存しすぎている節がある。
それは、無人駅で消えかけてしまうほど、父親を待ち焦がれているところから見てもあからさまだ。
もちろんリスナーであるファンたちも、戸牙子を支えてくれている。
けれどそれ以上の、もっともっと身近な関係が、彼女には必要だ。
だがその役は僕だけでは、無理だ。
僕ひとりだけでは、彼女の孤独は助けられない。
だから。
僕と一緒に、彼女にとって心の安らぎとなる存在を、探しに行くべきだ。
「お色直しは終了した?」
「えっと……化粧もした方が良い……?」
「うーん。いや、ありのままの自分を見せた方が、わかってもらいやすいと思うよ。それに戸牙子はもとが美人さんだからね。遜色ないよ」
「……あっそ。女慣れしてて、無性に腹がたつわ」
「良いじゃん、生き生きしててさ。もっと他人に怒りをぶつけてエネルギーを発散していこう!」
やれやれ、皮肉癖がどっかのおっさんから移ってきてしまっている気がするなあ。
なんだかんだ、僕もあの人に憧れていたりするのだろうか。
「……で、あたしをどこに連れて行くつもりなの?」
「君をさらった、あの鬼のところ」
きょとん。
戸牙子は絶句どころか、数秒ほど固まったまま、よだれが口端から出てくるほどフリーズ状態に陥る。
そして、目がどんどん虚ろになっていき、生気も消え始めて、何やら足元から黒い霧を出し始めて消えかかっている。
「まあ……あんたに死んだ方が良いって言われるなら、あたしもその判断を信じようかしら……。これでもあたし、あんたのこと気に入ってたし、そんな人から命令をもらえたなら、黄泉の国のお土産話にはちょうど良いかもね……」
「君はとことんメンヘラチックだねぇ……。妄想癖って言われても納得してしまうのが悲しいよ」
「だって、殺されるんでしょ、あたし」
「まさかぁ。僕は最悪殺されるかもしれない……ってこともないかな。だってあの鬼、僕への攻撃もどちらかといえば致命傷ねらいじゃなくて、気絶系の行動不能狙いだったし」
え? と戸牙子は不思議そうに首をかしげる。
直接対峙して気が動転していた彼女では、あの鬼の行動原理を理解するのは難しいものだろう。
「あの鬼さんね、敵意はあったけど害意はなかったように見えた。しかも戸牙子には、全くと言っていいほどね」
「そ、そんなこと……だってあたし、無理やりさらわれたのよ!?」
「うん、さらわないといけない理由があった。けどそれは、戸牙子が直接の原因にあったとは言いづらい。あれはね、むしろ人間である僕にあったんだよ」
戸牙子は目を見開いて、僕の言葉を食い入るように聞いている。
ある程度のハッタリ、というのは交渉人にとって必須スキルだが、僕の仮説はあながち間違ってはいないはずだ。
戸牙子の毒の霧もアメジストの弾丸も効かない、二本ツノの鬼。
彼は、僕にだけ敵意を向けた。
それはつまり、戸牙子のそばにいた僕から、戸牙子を守らなければいけないと考えたからではないだろうか。
もちろん、あくまで仮説だ。
だからこそ、これから証明しにいく。
「まあね、今日の僕は神様として助けに来たから、この前みたいな半端なやり方で終わらせるつもりはないよ。絶対に君を守って、一緒に帰るって約束できる。不安なら指切りでもする?」
「……嘘ついたら、十字架千杭打ち込む」
「うん。破ったら甘んじて受け止めるよ」
こうして、僕と戸牙子は方舟から依頼されて杭を打ち込んだ山奥へと向かった。
ぼろぼろになった和服に身を包み、しなる二本ツノを持つ鬼はそこで静かに座禅を組み、待ち構えていた。
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