神様との契約というのは、実のところ生贄や魂などは必要なく、ただの口約束で良いらしい。
それは、心臓を穿たれて死にかけの人間を蘇らせるような、常軌を逸する大それた契約であったとしても、だとか。
「実際な、人の生身を『生贄です!』と出されても困ってしまうものなんじゃよ。あれじゃ、猫がネズミをとってきて見せびらかしてくるのは可愛らしいで済むが、猫が猫を咥えて持ってきたら、さすがに神経を疑うじゃろう? 白羽の矢、なんて建前で生娘が白装束で来るんじゃが、あれは大義名分にかこつけた口減らしだったのではないかとすら思うのよなぁ」
人間は滑稽で見栄っ張りな生き物じゃ、と彼女は心底呆れた風に一笑。
空色の髪を結ってルーズサイドテールにし、曲がりくねる竜のようなツノを生やし、小学生程度の体格をした彼女は、いわゆる神様というやつなのだろう。
少なくとも、人間ではない。
目の前にいる彼女は、僕ら人とは全く違う異質の存在。
人間でもなく、生き物でもなく、無機物でもなく。
それらどんなものよりも超越した未知の人外であり、怪異であった。
そんな彼女は、心臓を撃ち抜かれて命が危険な状態である僕に対し、迷いなくさらりと言った。言ってくれたのだ。
お前さんの心臓を肩代わりしてやる、と。
「……神様、僕の心臓を治してもらうんですから、何かしら代償が必要なんじゃないのでしょうか?」
「ほう、律儀なやつよのう。人間にしては随分真っ直ぐな心持ちをしておる。うむ、惚れた」
「……はっ?」
一瞬の告白。
そんなこと微塵も思っていないような、ただの冗談にも聞こえた。
呆けていた僕に、神様は悪びれることも照れることせず続ける。
「お前さん、名前は?」
「あっ、神楽坂みなと……です」
結んだ水色の髪をくるくると手で遊びながら、彼女はにやりと不敵な笑みを浮かべて、興味深そうに目を細める。
「ふむ、なかなか悪くない名をしておるな、親に感謝しておくことよ。わしと面白いぐらいに噛み合うほど相性が良い名じゃ」
「え、名前に何か意味があるんですか?」
「うむ、名が縛るものは見えないようで大きいのじゃよ。夫婦の契りを交わすとき、苗字を揃えるのと同じようにな。それにお前さんは、わしが昔惚れた男とよく似ておるからの」
「そんな理由で助けてくれるんですか……?」
「お前さんも、昔の恋人に似ている女がおったら、手を出したくなるじゃろう?」
「いやいや、それはだいぶというか、かなりクズじゃないですかね!?」
「はは、まあ否定はせん」
不敵な表情を崩し、からからと凄惨に笑う。
無邪気な子供のようでいて、なのにどこか年の功を思わせるのは、何千年も生きてきたからなのだろうか?
これが神と人間の価値観の違いだとするなら、僕どころか、人間とは馬が合わない気もする。
それでも。
僕はこの神様に、とんでもないお願いをするのだから。
人として、僕としての誠意を見せないわけにはいかない。
「……神様」
「んん?」
「僕は、あなたに何を返せばいいのですか?」
「ほぉ? なんじゃお前さん、神と取り引きするつもりなのか? 今の世は、超能力やら異能やら、もらうだけもらってあとは好き勝手する輩の方が、得をするというのにな」
「いえ、あなたは僕の命を救ってくれると、言ってくれたんです。なら、そのご恩には一生を使ってでも、絶対報いたいんです……!」
だって。
死にかけの僕が神様と直談判をして、人として踏み外してはならない禁忌に手をだしてでも。
僕には今すぐ生き返らないといけない使命があるのだから。
神様は無言のまま値踏みするように目を細めて、「ふっ」と呆れ気味に笑った。
それは、嘲笑に近くて。なのに、どこか暖かい微笑みだった。
「ああ、良い。お前さんは愚直で、真摯な男じゃな。そうまでして己を納得させたいというのなら、出してやろうじゃないか、条件をな」
語気を強めて放たれた言葉に緊張が走り、飲み込む唾が喉を鳴らす。
一言一句聞き逃さないように、全神経を集中させた。
「わしに、処女の血を飲ませろ」
あっけらかんと悪びれもなく、神様は言う。
ニヤニヤと、ラスボスがしてもおかしくなさそうな不敵な表情で。
これが、人間だった僕が神様へと成り果てた日に、彼女と交わした口約束。
とんでもない契約で縛られてしまったが、命を救ってもらったことに比べたら、大したことはない。
それで、僕の使命を果たせるのなら。
それで、僕の大好きな姉さんを守れるのなら。
僕は、人ではなくなってもいいのだから。
「ではな、みなと。わしの力で、お主の愛する姉君を守ってやるのじゃよ」
神様はそれだけ言い残して、僕は死の淵から蘇った。
「ただい……ま……」
玄関のドアが開く音と同時に、生気のこもっていない帰宅の挨拶が聞こえた。
どことなく不安がまさり、洗い物を中断して駆けつけると、玄関マットの上でシルクのような銀髪が放射状に広がっていた。
「ちょ、姉さん!? 大丈夫!?」
「ああ……大丈夫……」
その正体は、くたりと膝をついて頭をこすりつけるように前のめりに倒れこんでいた、僕の姉だった。
家路まで保っていた気力が事切れてしまい、マットの上で死んだように動かない。
口先では平静を装っているが、現在時刻は夜十一時を回っており、全く大丈夫そうではなかった。
「ど、どうしたの? 仕事が忙しかった?」
「そう……」
「えっと、ご飯作ってるから温めるよ。お風呂は……入らなくても大丈夫そう?」
「うん……明日は休みだしメイクも落としたからあとは寝るだけ……」
姉さんは倒れ込んだまま靴を脱ぎ、ずりずりと匍匐前進で廊下を進み始める。
おいたわしい姿を見ていられず、僕は姉さんの体を半ば無理やり、了承なしにお姫様抱っこで持ち上げる。
髪の毛や首元から、ふわりとシャンプーの甘い香りがする。どうやら外で浴びてきたようだ。
「……ありがとう、みなと」
声を出すことも辛そうなのに、絞り出すように感謝を告げてくれた。
「疲れてる人に無理して欲しくないよ」
「気配りのできる弟ね、さぞモテてるんでしょう?」
あまりの疲労に深夜テンション気味な姉さんの軽口をはいはいと受け流し、リビングまで向かってソファに座らせる。
だらりとクッションに埋もれて液体のように溶けている姿は、普段の凛々しさとは程遠かった。
まるで魂でも吸われた人形みたいで、不自然な不安を覚える。
ここまで疲弊していると、ご飯を食べるのすら辛そうだな。
「……栄養ドリンクでも持ってこようか?」
「あー……うん、その方が助かるわ」
彼女の要望通り栄養ドリンクを持ってきて渡したが、瓶の蓋を開けるのに苦戦している。
見かねた僕が代わりに蓋を開けて姉さんに渡すが、小瓶をふらふらと力なく持ち上げて飲む姿は、過労死寸前なブラック企業の社会人にも見えてしまう。
「姉さん、最近残業多くない? フリーターでそれって、法律的に大丈夫なの?」
「まあ……ぎりぎり法に触れない時間配分でやってるから大丈夫よ。心配させちゃってごめんね。せっかく作ってくれたご飯も食べられなくて」
「いや、冷蔵庫に入れてるからいいよ。食べれなかったら、僕が食べるし。ていうか生活費が苦しいなら、僕もアルバイトしてかせぐし……」
「それはだめ」
ぴしゃりと、冷たく諭される。
「……なんで?」
「学生のうちは、勉強と遊びに集中っていつも言ってるでしょ? お金を稼ぐのは大人の私がやることなんだから、みなとは気にしないで。今でも、家事をやってくれてるだけで助かってるんだから、ね?」
姉さんは眉を下げて小さく微笑んだ。
外では冷静沈着、泰然自若、絶対零度など冷たい異名で呼ばれている彼女が、僕の前でしか見せない和らいだ声色で続ける。
「それはそうと、学校は最近どう? 楽しい?」
「あーうん、楽しいよ。昨日は友達と小テストの勉強をしたんだけど、結果が良くてみんなでカラオケ打ち上げに行ってきた」
「それだけ聞くと一見普通の高校生っぽく聞こえるけど、みなとは嘘も上手だからね」
「……今は真っ当にやってるよ」
「本当かなぁ? また無茶してたら怒るわよ」
見透かしたように釘を刺され、僕は苦笑を抑えきれなかった。
残念ながら、僕は不良もどきな行動が多い。そのあたりの改善を時に厳しく、時に優しく諭されるものだから、僕は姉さんには敵わないのだ。
まあだとしても、最終的にはいつも僕が悪いことも自覚しているから、姉さんのからのお叱りも甘んじて受け入れる。
この一週間、残業続きで帰りが遅かった姉さんと久々にゆっくり話せるつもりでいたし、楽しみにしていた。
だったのだが、そんな期待も束の間、数分もしたら彼女はこくこくと船を漕ぎはじめてしまった。
「あー姉さん、家のことはやっとくから今日はもう寝たら?」
呼びかけながら肩を揺するが、「うぅん……」と煩わしそうにうめくだけ。
このままソファで寝かせるのも忍びない、寝室まで運ぶか。
もう一度お姫様だっこすると、眠りこけてしまって無防備になっている姿を直視してしまう。
ブラウスの首元から胸にかけてのぞきみえた柔肌に、よくない感情を抱いてしまったのを振り払うため、視線を逸らす。
外ではいつもカッコよくてクールな姉さんが、腕の中ですやすやと眠っている姿に、どうしようもなく庇護欲がそそられる。
それに合わせて、よくない感情もたぎってきてしまった。
ここでひとつだけ弁明をしておきたい。
昨今、実の兄妹や姉弟でのカップリングというのもなくはないジャンルとなってきているが、僕たちの関係は義姉弟である。
姉さんとは言っているが義理である。
血がつながっていないからこそ、異性として意識してしまうのだ。
だからこれは、高校生男子として非常に健全な反応であって、血の繋がっていない義理の姉と一つ屋根の下で二人暮らしという危うい展開になってもおかしくない家庭状況であるからであってだな。
なんなら僕は家の中で起こりうるラッキースケベを狙ったりしたことすら一度もない。本当だ。
決してやましい気持ちなどない!
と高校生男子としてなけなしの自制心を奮い立たせ、二階にある大人の女性の聖域へと向かった。
聖域、なんて大袈裟な言い方をしたが、あいもかわらず殺風景な部屋だ。
無機質で飾り気のないガラステーブルとベッドだけと、姉さんの淡白な性格がよく表れている一室。
ミニマリストも顔負けな部屋のベッドに、お姫様を横たわらせる。
「おやすみ、姉さん」
返事は帰ってこず、そのまま数秒も経たず気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
照明のリモコンに手を伸ばし、電気を消して部屋から立ち去ろうとした時。
姉さんの服のポケットから、ころりと何かが落ちたのが見えた。
「んん?」
それは、ほんのりと水のように青く光っている。
小さな電球のようにも見えるが、しかしどことなくその光の質感は、自然光に近い。
まるで月に照らされる海原のようにも、太陽の差し込む水面のようにも勘違いしてしまう、青く妖しい誘光に、僕はなぜか見とれていた。
きっとなにかしらの電子機器だろうな。
真っ暗な部屋だと目立つし、消しておこう。
不気味に光るそれがどういったものかも確認せず触れた。
その瞬間。
『なんぞ、無粋な男よの。もすこしありがたみと慈しみをもってふれぬか』
くぐもった女の声が、脳内にどろりと絡みついた。
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