「…………私、母親ですけども」
ミズチの追求に、面倒そうな表情で答える霞さん。
だが、ミズチはお構いなしに続ける。
「いいや、お前さんは戸牙子を『人間の血を吸って産んだ』んじゃろう? つまり、ヴァンパイアとしてのヴァージンは残っておる。わしは覚えておるぞ、お前さんが自分語りのなかで『鬼に純潔を奪われるぐらい、命を助けられたことに比べたら』と言ってたことをな」
「目ざとい神様ですこと」
「目利きがきくと言え。さあ結奈、わしの願いはもう分かったじゃろう?」
帯に刺さる神刀玉泉の柄から手を離して、ミズチは臨戦態勢を解いた。
手をひらひらと振りながら私を見て、嫌みったらしくほくそ笑む。
だけれど、そんな彼女の要求に苛立ちを覚える暇はなかった。むしろこれは好都合、とも言える。
彼女から持ちかけてきたのだから、あとはそれに応えるだけである。
「交換条件、と受け取って良いのかしら。霞さんの血を飲む許可を正式に与えるから、今すぐみなとの中へ帰るって」
「お、なんじゃ、えらく素直じゃないか」
「本人の許可がなければ意味は無いけれどね。霞さん、ミズチの取引は突っぱねてもいいんですよ」
視線を霞さんへ移して、問いかける。
もちろんこれは仮の話であり、もし霞さんが許可しないのなら、私が無理矢理連れ帰ればいいだけ。
強引なやり方で恨まれるとしても、その方が面倒な手順を挟まなくていい。
そもそも、許可なんてするはずがないだろう。
吸血鬼が吸血されることを許すなんて、よっぽど相手を信頼していなければできないことだ。
そう、思っていたのだが。
「いいですよ」
霞さんはあっさりと、暇を持て余している婦人のように言った。
その返答に一瞬、ふらりと脳天がぐらついて、頭を抱えた。
なんでこうも、私の周りというか、みなとの周りには自分の命や純潔を捧げる人が多いのか。
みなとか、みなとが天然たらしなのが悪いのか?
「……霞さん、理由をうかがっても良いですか……? これってつまり、いつかみなとがあなたの血を吸いに来る約束ができるんですよ……?」
今私が見ているのは夢ではないのかと不安になり、恐る恐る尋ねてみたが、返答はまた淡泊だった。
「問題ありません。むしろ吸って頂きたいぐらいですよ」
……吸ってほしい?
どういう意味だ。吸血鬼にとって「吸血される」ことは人間にとって処女を捧げるのと、ほぼ同義であるはずなのに。
問い詰めようとしたところで、私の怪訝な表情から察したのか、霞さんは分かっているようにうんうんと頷きながら続ける。
「ええ、訝しむのも分かりますよ。けれど理由についてはまあ、今は言えないといいますか。考えがあってのことですので、結奈さんはあまり気にしなくて良いですよ。もっとも、こんな人妻子持ちの年増吸血鬼を、年頃の男の子が好くかどうかですけどね」
そう言って、口元を抑えながら軽快に笑った。
しかし、隣で聞いていたミズチはばつが悪そうに目線をそらしている。
もしかすると、霞さんと比べてもよっぽど年増な自分が、先ほどまで少女服を着ていたことを思い出して、心の中で悶絶しているのかもしれない。
「しかし結奈よ、何をそんなに急いでいるんじゃ? さっきちらりと、みなとの名前が出てきたが」
ミズチが惚けたことを言った。
呑気なことを言う彼女に呆れてしまい、聞き返し方が少し荒くなってしまうぐらいには。
「いやいやあなた、今みなとがどういう状態か、分かってないの?」
「なんじゃ、それ。むしろわしは久しぶりに一人になれた年頃の男をそっとしてやっておるのに、無粋なこと言ってやるでない」
「いや、そういう意味じゃないわよ」
言いながら、顔が熱くなってくる。ちょっと背中に嫌な汗も出てきた。
たしかにみなとは年頃の男の子で、それも同じ家で一緒に暮らす身近な人間の秘め事を人づて、ならぬ神づてで聞かされているのだから。
「わしが言うのもおかしい話じゃが、お前さんはあやつにくっつきすぎじゃわ。もう少し放任してやらんと、男は窮屈を恨むようになるぞ?」
「別に、みなとにだって一人の時間はあるでしょ」
「いやいや……夜中に添い寝を強要されてる時点でのぉ……」
「な、なに。夜でないとだめな理由でもあるの? 昼間に一人の時間を作れてもいいでしょう?」
「おまえ……それを言ってやるでないわ。わしら女には分からんこともある」
「あ、あなたには分かるっていうの?」
「経験論じゃよ。本質的にはわしのような神が、異種族のことなぞ理解できるわけないし。別に良いんでないか? たまには一人で遊ばせてやるのも」
口の端を上げて不敵な笑みを滲ませて、鼻で笑うミズチ。
体裁上、大事件を起こした半神半人に完全な自由が許されているわけではない、と言おうとしたところで。
ふとした疑問が頭をかすった。
「……ミズチ。一人で遊ばせるってことは、今は意識が繋がってないの?」
私の問いが理解できなかったのか、首をかしげて、きょとんと呆けるミズチ。
聞いた瞬間は気の抜けた顔色をしていたが、彼女の眉間は少しずつ、そして確実に、きつめのしわがよっていく。
私の問いで、気づかされたように。
「……おい、みなとはどこにおるんじゃ?」
「は? なんであなたが分からないのよ」
「山査子の結界術のような、何かにとらわれておるのか?」
「いや、さっき電話した時は普通に……」
静かにまくし立てるミズチの真に迫る態度で、はっとさせられる。
みなとは、森の奥へ調査に行くと言っていた。空木叔父さんに付いていくと。
失敗したかもしれない。
私はあまりにも迂闊で、親戚を信用しすぎていたのではないのか。
空木叔父さんなら、私の家族を脅かすようなことはしないと、そう思い込んで油断していたのではないか。
ミズチは深刻な顔色を浮かべて、続けた。
「みなとがわしの声に反応せん。一心同体のわしらでは普通、ありえんことじゃ。あやつが異象結界で閉じこもっているのなら話は別じゃが、使えても神秘術が関の山じゃろ」
「まさか、殺されたっていうの!?」
思わず、私はミズチの肩を掴んで揺らす。
目の前で直面する彼女の瞳には、どこか情味が宿っていた。
「焦るな結奈。現に目の前にわしはおるじゃろ? みなとが死んだのなら、わしの命もここで終わるまでじゃ。そうなっておらんということは、生きてはおるんじゃろ。だから、何かしらの邪魔が入っているか、拘束されて閉じ込められているか、そういう可能性が見えてくるが――」
彼女は一度深呼吸をして、目を閉じた。己の精神を集中させて、見えない繋がりのようなものを感じ取るように。
そして数秒後。
薄く開いたまぶたの影から、鈍い赤色の眼光が漏れ出した。
「あいつじゃろうな、この感じ」
あいつ。
彼女が認知していて、それを強調して言うのに、名前をはっきりと呼ばないということは、候補が限られる。
名前を覚えることすら珍しいどころか、個体を認識するのも面倒くさがるミズチが、しっかりとその存在を認識しているのだ。
だから、きっとその正体はただひとつだろう。
「あいつって、もしかしてみなとの中にいる……」
「そう、わしらが束になってもどうにもならんかった、みなとの奥に眠る異形で、わしの宿敵。どうやら大好きな男を独り占めしておるようじゃな。まったくもって、モテモテで羨ましいのぉ。ハーレムものってわしら女から見ると男の浅ましい欲望が見え透けて嫌気が差すんじゃがな」
「言ってる場合? 宿主が奪われるかもしれないのよ?」
「……そうなれば、結奈。お前が、私を引き継いでくれるんじゃろう?」
ぽつりと、彼女は目尻を下げて、慈しむように言った。
普段が高飛車であるために違和感を覚えるが、ミズチの発した声色はいつもの他人をあざ笑ういけ好かないものではなく、戦友か相棒に向けるような、暖かく優しい声音だった。
こんな彼女を見たことがあるのは、きっと私ぐらいではないだろうか。
みなとには、どちらかといえば姑のような態度で接しているし。
「前も言ったでしょ。それは最期の手段」
「なはは、後ろ盾があるなしでは覚悟も変わるものじゃわい。じゃが今は、目の前の問題をどうにかせんとな」
ミズチのいう目先の問題とは、つまり「みなとが何者かの悪意によって、孤立していること」だ。
空木叔父さんの差し金かといえば、きっと違うとミズチはいう。
あの男には殺意はあっても、害意がなかったと。
そう言われて、私も腑に落ちたというか、改めて納得できた。
というより、今更になってとある事実を思い出したから、うまく物事が重なり合い、はまったのだ。
月白の庭園に所属する実働部隊の責任者、灰蝋空木の専門は「灰」である。
専門外である「神」に関してまで手を伸ばすような、オールマイティな殺し屋ではない。
だから、空木さんでないとしたら、候補は一つぐらいにしか絞れない。
みなとが孤立しているのは、「みなとの中にいる者の所為」だと。
「結奈さん。そのお話、私たちにも聞かせて頂けませんか。みなと君が、心配です」
霞さんはずいと私たちに詰め寄ってきた。
彼女は「他陣営」であり、私たちの情報を与えるのは危険だという理性的な判断はできているのだが、それと対をなすように、霞さんなら話しても大丈夫だろう――という安心感に似た信頼があるのは、なぜだろう。
ほだされているのだろうか、この方の持つ魅力に。
私は、突然訪ねた無礼を詫びるために、現状の説明と情報共有をすることにした。
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