ミズチは笑いながら言った。
さらりと、からからに嗄れた声で、なんの悪びれも懐疑心もためらいもなく、あっさりと、自分の死を望んだ。
横で聞いていた霞さんは仰天して、私の方を見た。
「結奈さん、ミズチは何を言っているのですか。熱と痛みにうなされて、精神が壊れているのですか」
「……いいえ、胆力だけで言えばミズチのメンタルは、強固なものです。壊れるわけがないというか、もともとが歪すぎて、壊れようがない」
「そんなことはわかっています。ミズチのような神が、俗世を好む変神が、死を望んでいることに対して疑問を抱いているのです。私のような、吸血鬼程度の弱い精神力しか無い怪異ではなく、強靱で狂神な彼女が、こんな腑抜けたことを言うわけがないのに……」
霞さんは今にも泣きそうな表情で、私が抱えるミズチを見ている。
一瞬、ミズチを過大評価しているのではないのかと疑念を感じたが、そうではないのだ。
彼女は、ミズチのことを怪異の王と同じレベルの、神級の怪異として見ている。
だからこそ、霞さんはミズチの精神性が理解できているからこそ、さきほど放たれたうわごとが信じられないのだ。
もしかすると、信じたくないだけかもしれない。
神がこんなことを言うわけがないと、信頼を裏切られたような気分なのかも。
いや、信仰か。
「霞さん、ミズチはみなとのそばを離れたとしても、片道切符ではありますが、帰る方法があります」
「な、何を急に……?」
「自殺すること、です」
私の言葉を聞いて、口元を抑えながらうろたえる霞さん。
今からすることを、彼女は察してしまったのだろう。
それも仕方ない。
みなととミズチで結ばれているこの仕掛けを、因果を知っている者なんて、せいぜい虹羽先輩と私ぐらいだろうし。
話したのは、霞さんが信頼できるからだ。
「厳密には他殺でも良いんですが、ミズチが死ねるような要因は、彼女自身でしか作れないほどなんです。まあ、私もできなくはないですが」
「なぜ、死んだらみなと君のもとへ帰るのですか……?」
「ミズチの心臓が、みなとの胸にあるからです。再生と輪廻の象徴である蛇としての怪異性が、ミズチの死によってトリガーになり、発動します。心臓を起点にして蘇る。たとえ脳髄が木っ端みじんに砕け散っても、です」
「そんな、それは再生ではありません……!」
「ええ、『再臨』です。記憶に障害が現れることはざらで、完全復活するには時間もかかります。それでも、みなとのもとへは還れます」
本当なら、これは最後の手段にしたかった。
わざわざミズチを殺して無理矢理戻させるなんて真似をしたくなかったから、早めに動いたつもりだし、ミズチと合流してからヴァイパル・バレットを撃つつもりで用意していたのだが。
まさか、みなとではなくミズチが瓶を持っているなんて思いもしなかった。
この可能性を考えられなかった自分の詰めが甘いことは嫌というほど分かっている。
大きな誤算。予測不能な事態。読み切れなかった現状。
見積もりの甘さで積もったツケが、まとめて降りかかってきたようなものだ。
だから、これは私の責任だ。
「結奈、これを」
胸の中で抱きかかえていたミズチが、私が握っていた手を離した。
溶け落ちていない左手で帯に刺している神刀の鞘を握りしめ、ずいと私に差し出してきた。
「お前さんの銀弾は金切り声のようにうるさくてかなわん。な? こういうとき、音の出ない刀物もわるくないじゃろう?」
「……あなたの玉泉は、『記憶を削る』力を持っていたはず。それであなたを刺したら、ただでさえ再臨するときに記憶障害がでるのに、下手をしたらあなたの名前まで削るかもしれない。私のでやる」
「まあ聞け。今回に限っては記憶を削る方が良いじゃろう。もし、あいつに気取られて、再構築を防がれたら、たまったもんではない。そうなれば、わしの魂はどこにも還れん。宙に浮いたまま、宿を見失って、ふらふらと消えてしまう」
「気取られてなんて、そんなこと……」
「ありえない、とは言えんじゃろ? 今でさえわしは、主と意思疎通ができんのじゃぞ。これが精神だけの遮断ではなく、魂すらも遮っているのなら……ああくそ、考えたくもない。あの阿婆擦れ……次は絶対に殺してやる……」
自分で言及しながら、ミズチは憤怒に燃えている。
ぎらりと赤い眼光が空気を切り裂き、彼女の視界にあるものすべてが石へと成り果てそうな激憤だった
「結奈、よく聞け。邪魔が入るのなら、不服ではあるがわしの意志ではなく、他人伝てにやってもらわんといかん。わしの意識を消しさり、記憶も名前も極限まで薄れさせて、神力ではなく、ただの自然治癒現象としてみなとの心臓から復活する。これをやるにはわしの玉泉しかない」
彼女が胸に押しつけてくる鞘に収まる神刀を、私は渋々受け取る。こうなると、こうなってしまうと、ミズチは意志が固い。
懐刀程度の大きさしかない玉泉は、片手で持てるほど軽いのだが、しかしどこか芯が詰まったように重く感じる。
物質的な重量はたいしたことないのに、概念的な質量が膨大なのだ。
これが、変幻自在の神刀。流動する水で刃渡りをいくらでも変えられて、記憶と名前を削る怪刀。
初夜を迎えた日に、愛する神を殺した得物の残滓であり、因縁と運命にとらわれた神刀。
伝説的な逸話を持つミズチの得物であり、同族殺しの祖。
まさしく、名前と記憶を頼りに生きる『神族』特化の、神殺しの刀。
「そう苦い顔をするでないわ。わしにとってはこんなの、もう何回もあったことじゃ。なあ、お前らがそんな顔をしていると、わしのぴちぴちな少女心が痛むわい」
ミズチは、私と霞さんを交互に見ながら、にこりと微笑んだ。
額に汗をにじませて、無理に浮かべた作り笑顔で、見送るように。
「……急がんとな。みなとが心配じゃ」
「ミズチ……!」
「結奈、ロゼ。お互い、イロモノでやんちゃなやつに惚れるもんじゃのお? 趣味が悪い友じゃよ」
かっかっかと、渇いた喉を鳴らしながら、ミズチが水を操って玉泉の鞘を抜いた。
鞘から抜かれた刀身が露わになり、ぎらりと鉛が光る。
私の覚悟を、ぬるりと押し出すように。
「……みなとは、やんちゃだけど、いい男よ」
「知っておる」
さも当然のように、それが周知の事実であるように。
相棒は、力なく笑った。
私は。
剥き身の玉泉で、相棒の胸を、心臓の位置を見据えて、貫いた。
私の口角は、上がっていた。
相棒を自らの手で殺めることに、悲痛を覚えて、心を痛めているはずなのに。
殺しなんて慣れた作業で、いちいち感傷に浸ることもしなくなっていったはずなのに。
口元だけ歪んだように、無色の狂気に包まれたように、ほくそ笑んでいた。
ごめんね、ミズチ。
あなたをこの手で殺せることに、身悶えるほど歓喜してしまう女で、ごめんなさい。
脳髄から心臓に下腹部まで、全身に血が巡って、神経がぶるりと悦楽で震えてしまっている。
好きで大好きでたまらなく愛している、大切なみなとのそばに、ずっといられるあなたに嫉妬してしまって。
そんなたまらなく憎い恋敵を、宿敵を、ライバルを。理屈を味方にして自らの手で直接殺せることに、至上の喜びで悦に浸ってしまう人間で、ごめんなさい。
心臓を貫かれたミズチは、全身が少しずつおぼろげな霧へと成り果て、霧散していく最中。
彼女の冷たい手が、玉泉を持つ私の手をずっと握り続け、その力が弱くなる瞬間だった。
ミズチは小さくつぶやいた。
「悪かったのぉ、結奈」
何が、と聞こうとしたら、そんな質問は無粋だと言わんばかりに、彼女は私の言葉を遮るように続けた。
「みなとだけは、死んでも守るから、それで許しておくれ」
安らかに、心地好さそうに目を閉じたミズチが、霧消した。
刺しどころを失った懐刀が、からん、と力なく床に落ちる。
血が一切付いていない刀身に、一滴のしずくが落ちて、きらりと光を反射した。
それはミズチの肉体から浮き出た水ではなく、私の目から落ちたものだと気づけたのは、目尻が熱かったから。
ミズチ。
あなたの言葉に励まされる人間は、たくさんいるってこと、忘れないで。
だから、ちゃんと帰ってきてよ。
みなとと一緒に、我が家へ。
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