目の前に広がるのは、僕の帰るべき故郷である神楽坂家。
神足通を使った覚えはないのに、グロウに押されるまま黒い霧の先を抜けると、そこはなぜか僕の家だった。
しかも、僕の体に違和感があった。
いや、それは不自然な違和感であることは間違いない。
僕は人間であるわけだから、全身がただの人間へと戻っていることに対して、疑問を抱くこと自体が不自然である。
しかし、戸牙子の血まで吸って完全覚醒していたのに、あっさり人の体に戻っていることは、奇妙で奇怪な違和感だった。
だけども。
帰りたかった家が目の前にある、小さな幸せに駆け込みたい気持ちがはやり、僕は自宅の扉を開ける。
「ただいま……」
玄関の照明に廊下やリビングを照らすライトたちが煌々ときらめいている。
無機質な明かりが帰宅を歓迎してくれているように感じるのは、ここがもう戻れないと一瞬でも思ってしまった、大切な故郷だからだろうか。
廊下を進み、リビングにつながる扉を開ける。
「おかえり」
ソファに座りながらテレビを見ていた姉さんは、帰りを喜んでくれた家族のように、僕を見てほのかに微笑む。
唯一の家族はゆっくりと立ち上がり、キッチンの方まで歩いて戸棚からガラスコップを取り出して、水を入れて渡してくれる。
「ずいぶん遅かったわね? 五日も家を留守にするなんて、めちゃおこよ」
姉さんは精神的疲弊が限界を越えると、冗談を言うようになる。
饒舌になる、という方が正しいかもしれないが、普段使う語彙のラインナップから一回り二回り外れて、その無表情冷徹の雰囲気から発せられる言葉だとは到底思えない言い回しを多用するようになる。
あと、家の中の電気をすべてつけっぱなしにするのも、彼女の精神状態が不安定な時によくやる癖だ。
帰りの遅い弟を待つためだけに、玄関だけでなくリビングや廊下。そして挙句の果てには自室や水回り、地下室など家中にある電気をフル稼働させる。
彼女曰く、暗い空間に耐えられなくなるらしい。
というより、五日も経っていたのか……。
せいぜい二日程度しか経っていないと思っていたが、現実というのは僕の妄想をしっかりと上書きしてくるもので、姉さんが放った言葉も、テレビのニュースに映る日付も、電子時計に書いてある数字も、すべて間違いなく僕がここを出た日からきっちり正確に、五日経過していることを証明してくる。
「まあ、いつものことだし、帰ってきたんだから何も言うつもりはないけれど」
「……ごめんなさい」
「どうしたの、そんな辛そうな顔して。何かあった?」
淡々と言いのける姉さんだけど、その奥にある優しさに、僕はどうしようもないぐらい救われる。
思わず、ソファで座っていた彼女に抱き付いてしまうぐらいには。
「……どうしたの、ここまで甘えてくるなんて、らしくないわね?」
今にも泣き出してしまいそうなぐらい、僕の胸中は安堵に埋め尽くされた。
家族が居てくれたこと、そんな人が帰りを待っていてくれたこと。
父親も母親も、義理の母親までも亡くしている僕にとって、最後の砦。
神楽坂結奈とまた出会えたこと。
一度諦めかけた夢に出会えた幸せに、自然と涙があふれてきた。
「辛いことが、あったのね。今日はいっぱい泣きなさい。私しか見ていないから」
姉さんの胸の中で、優しく頭を撫でられながら、小一時間近く声もださずに泣き続けた。
*
僕を慰めてくれている間、姉さんに対してぽつぽつと今回の件を話した。
誰かに聞いてもらいたかったのかもしれないし、ただ許しを請いたかったのかもしれないし、懺悔でもしたかったのかもしれない。
けれど、今回の件を話して僕が一体どんな罰則を与えられるのだとしても。
姉さんにだけは、真実を伝えたかった。
戸牙子という吸血鬼の女の子が、誰からも忘れられるという特殊な因果に結びつかれていて、それを助けるために奔走したこと。
篠桐宗司という上層部の老人が、戸牙子とその家族を狙ったこと。
それに対して僕は、見境なく彼らを殺そうとする篠桐から鬼らを守るために、喧嘩を売ってしまったこと。
そして、最終的に交渉も話し合いもできず、篠桐はグロウに目の前で殺されたこと。
包み隠さず、できるかぎり事細かに話した。
これで僕は重罪人として、極刑を受けようが構わないという覚悟で。
今日が最愛の人との、最後の面会になるかもしれないと、そういう心持ちで。
なのに。
僕の話を聞き終えた姉さんが発した言葉は、意外なものだった。
いや、予想をはるかに超えていた。
「みなと。ご苦労様」
「……へ?」
「よく頑張ったわね」
言って、彼女は優しく僕の黒髪を撫でてくる。
「その話は、他言無用よ。あなたに霧の術がかかっていることは間違いない。私ですら、今あなたから話を聞かされたから、この五日間どこで何をしていたのかを思い出せたほどだから」
「思い出せた……? それってどういうこと?」
「あなたが帰ってきて初めて、私はみなとを思い出したの。正確には、今の今まであなたの存在を忘れていた。だから、どうして家中の電気を点けているのかも、どうして徹夜をして起き続けているのかも、全く分かっていなかった。それでも、何か忘れてはいけないものを、本能が覚えていたみたいにね」
悲しそうに、それこそ僕に懺悔するように言う。
「だからきっと、あなたが今回関わった出来事は、みなとが話さない限り誰の記憶にも残らない」
「……秘密を貫けってこと?」
「そうなるわ」
「でもそれは……」
「ええ、きっと苦しいわよね。私はいままでたくさん、みなとの責任感の強さを見てきたから。色んなしがらみに挟まれて、動きづらくなって、それでもがむしゃらにもがいて。でもそれは、あなたの良さだと思うから」
彼女は撫でていた手をおもむろに、僕の手に重ねる。
そのまま柔らかく引っ掛けるように、自身の小指を絡めてくる。
「あなたの罪は、私が一緒に背負ってあげるから。だから、話してくれてありがとうね」
指切りげんまんをされる。
重い話であるはずなのに、なんてことのない日常のように姉さんはさらりと約束し、にこりと笑う。
やっぱり、敵わないなぁ。
この人に惚れ込んでいるのは、ただ強いだけだからじゃない。
その奥に秘められた、深い愛情に憧れているからだ。
「さて、じゃあみなとの話は聞いたから、ここからは私が聞く番ね?」
「え、ある程度は話したつもりだけど、なにか気になることでもあった?」
「ええ、とっても気になるお話よ」
そう言って彼女はにこりと、今度は温かみのある微笑ではなく、冷気を帯びた威圧の笑みに変えた。
先ほどまでの優しさから一転した深みのある笑みに鳥肌がたち、心臓がばくばくと跳ね上がる。
なぜか?
これが神楽坂結奈の持つ、クーヤンデレのエンジンスタートであることを、僕は弟としてよく知っていたから。
「ねえみなと、その吸血鬼の女の子、好きなの?」
*
さてまあ。
全てを説明したということは、僕と戸牙子がどういうことをしたのかも、ある程度は話したわけだ。
もちろん別に、何度か夜はともにしたが、隠れてやましいことはしていない。
本当に、一切合切男女として危ういことはしていないと、僕は思い込んでいた。
だがそれは、人間視点のお話だったのだ。
吸血鬼にとっての吸血は、契りの行為であり、能力の移譲でもある。
ロゼさんにグロウから教えてもらったから知ってはいたが、それは『吸血鬼が吸血する』時の話であり、『吸血鬼が吸血される場合』はまた違った意味合いが出てくるらしい。
なんだか裁定のややこしいボードゲームのルールみたいに聞こえるが、もったいぶらず単刀直入に言ってしまおう。
吸血鬼は、心を許した相手にしか吸血させない。
もっと深く掘り下げるのなら、「愛する相手にしか吸血させない」
たとえ話として吸血行為のことをキスの話と比べたが、実はそれがあながち間違いでもなかったのが、数奇なこと極まりない。
というか、吸血を許した戸牙子も戸牙子だよ。
なんで初めてに僕なんかを選んだのか。理解に苦しむというより、もう少し身の振り方を考えたほうがいいんじゃないかと、心配にすらなってくる。
そして、祖父の代がヴァンパイアハンターである姉さんが、吸血鬼の特性というか、もっとありていに言うなら吸血鬼にとっての「夢」を知らないわけがない。
だから、僕は処女の血を吸ったどころか、戸牙子の純潔を奪ってしまった事実を知らされて、姉さんに詰め寄られていた。
いや、詰め寄られていたのはどちらかといえば、僕ではなく……。
「結奈、わしはみなとを助けてやったんじゃ。あれは一時の気の迷いというか栄養分の補充というかな、分かるじゃろ?」
「私に飽きちゃったから、他の女に手を出したんでしょ?」
「ち、違う……断じて浮気ではなくてじゃな……?」
「ミズハノメ、あなたのせいでみなとがプレイボーイだと思われている件について、私が並々ならぬ感情を抱いているのはご存知よね?」
「存じておりんす……」
「そうね、その受肉したほやほやの右腕を詰めるぐらいはしないと、割に合わないわね」
「ヤクザも真っ青な所業じゃのお!?」
「生きてるだけ儲けものでしょ?」
僕の隣で涙を浮かべながら正座で説教を受ける相棒の姿にいたたまれなくなり、助け船を出すことにした。
「あの、姉さん。血を吸ったのは確かにミズチの提案だったけど、ミズチに受肉をさせたのは僕の意志なんだ。だからその……」
「許してあげてほしいって?」
「そ、そうです……」
威圧だけで死にそう。
ミズチ、姉さんを相手取るっているのはこういうことだと重々承知しておけよ。
普段なら言い訳すること自体、悪手なんだから……。
「ふうん、みなと」
「な、なんでしょう……?」
「脱ぎなさい」
あれ、エピソード飛んだ?
なんか話の順序というか、脈絡を全く感じられないんだけど。
「上半身を見せなさい」
「い、いまですか……?」
無言のままにこりと口元をほころばせるが、目が笑っていない。
刑務所に入れられる囚人の気分で、上着に手をかける。
あらわになった僕の裸をみて、姉さんの目の色が変わった。
「……ミズハノメ」
「ひぃっ! 結奈、お許しを……!」
「どうして、鱗が首元まで侵食してるのよ」
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