僕の背後から「ストラック」と聞こえた。
その技を唱える者を、僕は知っている。聞き覚えのある声と、聴き馴染みたくない詠唱をする、因縁の男を。
人間の心臓を一瞬で貫く、弾丸のような杭を打ち付ける技、「ストラック」の対象は、篠桐だった。
老体を覆い尽くす大きさをした六本の黒い杭が撃ち込まれ、轟音が耳を震えさせる。
鈍い黒鉄が篠桐の体をすりつぶし、そのまま土まで抉り取った。
声が聞こえた方へ振り返ると、そこにはフード付きの黒いマントに身をつつむ、ピエロの面を被った長身の男がいた。
「あんた……」
「久しぶり、というほどでもないか。奇遇だな、みなと」
忘れもしない。
僕を一度殺し、半神半人にさせた元凶で宿敵、グロウだった。
「なんで、ここにいる」
狙われたのが僕でないことに奇妙な不自然さを覚え、目の前で起こった殺戮に感傷を抱く暇もなかった。
「そいつを殺しに来たんだよ、篠桐宗司をな」
「……なんでだ。狙うのなら、僕じゃないのか?」
「まさか」
グロウは肩をすくめて飄々と言う。
「みなとを殺す意味など、今の俺たちにはない。むしろ前々から狙っていたのは、そこで潰れた老人の方だ」
「……篠桐を? この人を狙ってたって、それはもしかして」
こいつが人間を狙う理由は、僕と相対した時と変わっていないのならただ一つ。
篠桐宗治が、グロウの仲間を殺したから。
「……だとしてもだ」
「ん?」
「人間を目の前で殺したあんたを、僕が見逃すと思う? グロウが一番憎む同族殺しを、僕は目の前でされたことになるんだけど」
「くははっ。みなと、俺はお前に助け舟を出しに来たつもりだったんだがな?」
「……どういう意味さ」
グロウは一歩ずつ、悠々とこちらに近づいてくる。
警戒心の欠片もない振る舞いに、僕だけ殺気立っているのが馬鹿に思えるぐらいだ。
彼は腕を組んでさも考えているようなそぶりを見せるが、相も変わらずピエロ面のせいで表情が読めない。
「神の受肉、上司への反逆、怪異の問題ごとへの無断介入。どれもお前のいる方舟からすれば禁忌ものな失態だらけだ。あっという間にファイアだぞ」
「うっ……」
実際、グロウの指摘は間違ってはいなかった。
今回、僕の私情で起こした行動は巨人ノスリに助力した時よりタチが悪い。素直に自首したところで監禁か、もしくは極刑だってありえるだろう。
僕の存在を嫌う人間は、篠桐のように山ほどいるんだから。
「まあ、今回の件は裏で糸を引いているやつがいたから、大目に見られる可能性もあるだろうが、お前は前科もあるからな。全くのお咎めなしとはいかんだろう」
「……前科? ノスリとの事件のこと?」
「ん? なるほど、知らされていないのだな。はあ……甘やかしが過ぎるな、あの姉は」
彼がついた溜め息に混じる感情は、奇妙に温かいものだった。
まるで、自分も似たような境遇に出会ったことがあるような、もしくは逆の立場だったのか、そんな呆れ方。
諦観が混じった経験者特有の言い草に、不思議な親近感を覚える。
化け物に親近感を覚えるというのもおかしな話ではあるけれど。
「まあ俺も人のことは言えんが、だとしても今回は良いように踊らされたと言わざるを得ないな。あまり美味くない仕事だった」
「踊らされた……? あのさ、もう少しわかるように言ってよ」
「分かるように言えないということが分からんのか? 俺もさっさとこの場から離れないと、囚われるんだよ」
囚われる、と言ったのか?
夜霧の帳のことを指し示しているようにも聞こえるが、確証はない。
ないなら、僕の知っている情報をひけらかすわけにはいかない。
「……ん? おい、みなと」
「え、な、なに?」
急に、グロウはくんくんと僕の首元に近づいて犬のように何かを嗅いでいる。
ここまで懐に近づけるなんて、少し無警戒がすぎるとも思ったが、この時の僕はグロウから戦意の欠片をひとつまみも感じられなかったせいで、敵意を向ける気が起きなかった。
「お前、カルミーラの血でも吸ったか?」
「……え、カルミーラって。いや、というか匂いだけで分かるの? ちょっと、あの……こわい」
「やめろ、なぜ頬を赤らめる。勘違いしているようだが、俺は鼻がきくんだよ。ロゼの血を吸ったのか?」
……は?
いや、アンサーとして見れば間違いではあるし、そもそも歯牙にかけるべき話題ですらない。
誰が誰の血を吸ったかなんて、誰と誰がキスをしたのと同じような、内内の話題であって、人様にどうのこう言う話ではない。
言う話ではないが。
気にかけるべきは、グロウの発した名前だった。
「ちょっと待ってグロウ。あんたは、ロゼさんを知ってるのか?」
「ローゼラキスは、俺の遠縁だ。いや、本当にかすっている程度のものだぞ。お前が思うような遠さではない。だが、だからこそ分かりやすかった。お前の匂いにホーソーンが混じっている」
「ホーソーン……?」
「バラ科の植物だ、知らないか? たしか日本語や中国語では『山査子』というらしいな」
山査子。
そこまで言われて、ようやくピンときたわけだが。
けど、僕が吸ったのはたしか戸牙子の血であって、ロゼさんというわけでは……。
いや、むしろこれこそが、彼女たち二人が親子であることの証明か。
「……ロゼさんの、娘の血を吸ったんだ」
「娘!? あいつが!?」
グロウが先ほどまでの悠々自適な喋り方を崩して、信じられないものでも聞いたように驚嘆した。
飄々とした雰囲気の彼が心底驚いているのに、こっちまで驚く。
「そうか、時代も変わるものだな……あの冷血鬼が……面白い土産話だ」
「ちょっと、一人で納得しないで。そもそも、どうして僕を助けるような真似をしたんだよ」
「それはもちろん、お前に恩を売るためだ」
できるだけ、いつ不意打ちされても大丈夫なように気を張り続けるが、ただ世間話をしにきたような彼の態度と言葉に若干、苛立ちを覚える。
「恩を売れば、あんたに手を出さないとでも?」
「ああ」
「舐めてるね」
「むしろ俺はみなとに憧憬すら抱いてるのだがな? 見下しているつもりなど、一切ない」
「命乞いにしては必死さが足りないんじゃない? 完全覚醒中の僕を相手できるの?」
「できんな。俺は戦闘力に関しては大したことはない。暗殺が常で、一騎打ちなどもってのほかだ」
「再戦を楽しみにしている、っていうのは強がりだったんだね」
「それは嘘ではないが、お前のはったりに乗ってやったんだ。神楽坂結奈の暗殺に失敗した時点で、撤退の理由にもなったしな」
僕は嘘を見抜くのは、あまり得意ではない。
考えはするが、言葉を鵜呑みにしてしまいがちなところがあるせいで、グロウの言うことがどこまで真実であるかがわからない。
ただ、はったりだと見抜かれていたことは、僕の死因に繋がっていてもおかしくなかった事実だ。
あのまま継続して戦闘していたら、僕は絶対に途中で気を失っていた。
そうなっていたら、姉さんの死が決まっていたかもしれない。
つまり。
もし彼の言うことが本当であるのだとしたら。
僕は一度、見逃されている。
「……そういうのが、交渉術ってやつなの?」
「みなとのような、愚直な奴に効く話術だな」
苛立たしい。
面の奥で、絶対に不敵な笑みを浮かべている。
「……あーもう、じゃあこれでなし! 一対一でおあいこだ。次はもう見逃さないから!」
「感謝しよう」
ひらりと仰々しいお辞儀をするグロウ。
けれど、それは僕がグロウをこの場で見逃す話であって、グロウが殺した篠桐の件をなかったことにするわけではない。
仮に姉さんや方舟に報告するとしても、どこから話したらいいのか……。
「みなと、見逃してもらう礼に、この件の後始末は任せてもらおう」
「は? 後始末?」
「ああ、諸々の痕跡をどう処理するか悩んでいた種が、お前の状態を見てちょうど消えたよ。みなとはそのまま、この場から離れればいい」
痕跡を処理、と言ったが。処理できる物なのか?
上層部が殺された件が、怪異側の事件で触れられないわけがない。
元を辿ろうとすれば、絶対に僕にいきつくはずだ。そうなれば、立場的に不利な僕が様々な難癖をつけられる可能性も高い。
「色々考えているようだが、杞憂に終わるぞ」
「どういう意味?」
「自分の状態をよくわかっていないようだな。今のお前は不安定なんだ、記憶やら認識やらがな。帰るべき故郷に戻れば、お前はここに居なかったことにされるし、ここでの戦闘も出来事もすべてなかったことにされる」
「なかったことにって……そんなこと、ありえるの?」
「正確には『みなとがこの場に居たことが忘れられる』だな。‟山査子”の血を吸った時点で、みなと自身に霧の術がかかっているということだ。しかしながら本当に、ロゼの作った城が今の今まで残ることになるとは。厄介な気質だよ、あいつも。だからここまで後回しになってしまったのだが」
「……え、ちょっと待って! いま『山査子』って!?」
間違いなく、そう言った。
忘れられるはずの、あの家系の名を。
血縁の関係があるロゼさんならまだしも、山査子の苗字は玄六さんのものであるはずだ。
なんでグロウは、それを知っているんだ?
「不思議そうだな、まあ無理もない」
「だ、だってあの家系は、霧術が……! というよりそれが僕にかかっているだなんて……!」
「そういうものだ、吸血というのはな。契りの儀式でもあり、能力の移譲でもある。たしかそうだな……」
不意に、グロウはマントの中から何か物を取り出した。
手にあったのは和紙。そこに書かれている文字を、初めて見る外国語のように片言で読む。
「さんざしとがこ、だったか。なるほど、つまりこいつがあのロゼの娘、ということなんだな」
「え、いやいや待って! そこに書かれてるの!? 戸牙子の名前が!?」
おかしい。
山査子戸牙子の名前を知っているのは、僕と、六戸にロゼさんと、あとは虹羽さんぐらいだろう。
もし名前を知っている誰かがいて、その人が情報を載せたのだとしても、あそこまで強力な忘却の術式を突破できるなんて。
……和紙?
グロウが手に持っている和紙は、温かみのある暖色で、材質はすこし劣化を感じられる。
見覚えがあった。
この和紙に、どうしようもないほど見覚えが。
「その『とがこ』の血を吸ったお前には、ロゼの忘却の術式がかかっている。存在自体があやふやな状態になっているお前は、俺が離れる前にここから出ないと、また囚われることになる」
「囚われる……。夜霧の帳のことまでわかってるのか、グロウ」
「詳細な情報が書かれているからな。俺もこの紙切れがなければ、すぐ忘れてしまうほどだ。だが、解呪杭は間違いなく刺されている。取引は成立した」
「解呪杭?」
また聞き馴染みのない単語だが、言葉の意味だけで捉えるのなら「何かの術式を解く杭」という物に思えるが。
杭……?
「グロウ、その杭はもしかして黒色で、十字架みたいなお札が貼られてて、そこに赤いバツ印が書かれているやつ?」
「なんだ、知っているのか?」
「……それを刺したの、僕なんだよ」
僕はグロウに、虹羽さんから渡されて交換を頼まれた杭の件を伝えた。
すると彼は、わざとらしく思えるほど、ピエロ面の奥から不機嫌そうな嘆息をこぼした。
「なるほど……あいも変わらず使える物はなんでも使うタチで、容赦がない……。なぁみなと」
突然、馴れ馴れしく呼んでくるグロウに沈黙で返す。
「お前、本当にこちら側に来るつもりはないのか?」
今更というより、またも勧誘。
一体なんのつもりだろう。
「今回の件でよく理解できたろう。人間は怪異を恐れ、怪異から遠ざかるものだ。時として熱を増したそれは、殺しにだってつながる。『退治』と大義名分を謳ってな」
「……僕は人間だから」
「ふうむ、本当にそうなのか? その角が、その髪色が、その竜腕が、本当に人間のものだと言えるのか?」
「……説明する時は、人間と神のハーフって言うよ」
「同族からの迫害を受けてもか?」
「僕みたいな異色の存在は、受け入れられる人の方が少ないとは思うよ。けどそれで諦めるつもりなんてない」
「なんとも、根気強いのか、愚直なのかよくわからん在り方をしているな。篠桐宗司との問答で理解なぞしてもらえないことの方が多いと思わなかったのか?」
「グロウ、そうやって諦めるのは一瞬で楽だよ。ほんとだったら、僕だって楽を取りたいよ。でもそれじゃあ、だめなんだ」
通じ合えないからと言って、お互いの理解を諦めるなんて。
話し合えないからと言って、お互いの心を無いものとして扱うなんて。
そんなの、無意志の逃げじゃないか。
「僕は、自分のことを人間と怪異の橋掛け役なんだって思ってる。最初は姉さんを守るために得た力であっても、これに意味を見出さないと、僕はずっと楽を取ってしまう。神の力に甘えて、怠惰な人生を送るのが目に見えてる」
「いいのではないのか? それも一つの幸運だろう?」
「……失望されたくないんだよ」
「誰にだ?」
「姉さんに……」
「ほう、ははは」
なぜか、からりと楽しそうに笑われた。
それと同時に、僕とグロウの周りに小さな粒子が集まるように、黒い霧が漂い始める。
「おかしい?」
「いいや、だからあそこまで篠桐宗司に執着していたのも分かる気がしただけだ。そもそも、『この老人は俺が殺したからお前は何の責任も気負いも持たなくていい』と言ってやるつもりだったんだがな」
「は? あんた、そんなお節介を言うやつなの?」
「お前のことを本格的に気に入っただけだ。だから後悔しろ。過ちを覚えておけ。お前が篠桐宗司をたきつけ、焚きつけられて、今回の結果になってしまったことをな」
「え、ええ……? 君たち怪異ってやっぱりおかしいよ、矛盾だらけだよ……」
「最高の誉め言葉だな」
そういって、グロウは僕の肩に手を置き、ぐるりと山査子家の屋敷が見えない方角へ無理やり向けられた。
「さあ退場の時間だ、橋掛け役。お前はいつまでも居ていい役じゃない。盛り上がる場面だけかっさらい、あとはさっさと消えるべきだ」
「ちょ、待って! あんたが姉さんを狙い続けてるなら僕は本気で……」
「ああそれなら心配いらん、神楽坂結奈は標的から外れた。お前がいる間はな」
「……どういうこと?」
「均衡が取れてるんだよ、パワーバランスという方が分かりやすいか?」
「なんのさ」
「怪異と人間のだ。俺たちが狙っているのは人間として強すぎる、一個で数百個を相手にできるようないかれたやつだ。だが、神楽坂結奈のそばにお前がいる限り、そのバランスは丁度いいからな」
それはつまり。
姉さんが人間側で、僕が怪異側ということなのか。
「姉さんは、もう襲わないのか?」
「ああ。みなとと全面戦争する方が壊滅的な被害を負わされるんだ、お前の逆鱗に触れるわけがない」
「逆鱗って……僕は竜じゃないし、人間だよ?」
「その思い込みでお前は人間に戻れるのだからな。末恐ろしいよ」
……え?
グロウの言ったことを理解する前に、急かすように背中をぐいぐいと押され、この場から追いやられた。
もやのような黒霧が漂い始め、視界が酷く暗くなっていき、僕の意識は混濁し始める。
「――また会おう、青き人間――」
重く暗いその声が、妙に親しみを持っていたことに不自然さを抱きながら、眠るように意識が消え去った。
次に意識を取り戻したのは。
僕の故郷、神楽坂家の玄関であった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!