「わしの声に気づいていない、ではなく……遮断されていたのか。んんむ、別行動は愚策かもしれんのぉ……」
僕が寝ているベッドの上で、正確に言うと僕の足の間であぐらをかきながら、ぶつぶつと独り言を続けて腕を組む幼女。
「おーい、ミズチちゃん。考えるのも良いけど、とりあえず詳しいことはあとからにしよう。一人おいてけぼりになってるしさ。ほら、自己紹介しなくていいのかい? 一応咲良とは初対面でしょ?」
「愛する者を傷つけたやつに対する礼儀なんぞ持ち合わせておらん」
「咲良は処女だって」
「初めましてなのじゃ!」
一瞬であぐらを直して正座したと思ったら、にぱっとあざとい笑みを浮かべた。
蛇神様よ、威厳のかけらもないではないか。
「あ、はじめまして……」
「名を教えてもらおうかの」
「雅火咲良、です……」
「そうか、わしのことは知っておるか?」
「え、えっと、みなと君から聞いた程度しか……」
「なるほど、どこまで聞いておるかは知らんが、その様子だとお前さんの血が、みなとの傷を治す力になることはまだ聞いておらんようじゃの」
咲良は目を見開いて僕を見据える。
相棒め、余計なことを言いやがって。
「処女の血を飲む契約」をしたとは言ったが、「血を飲んだらどうなるか」までは言っていなかったから、咲良は驚いているのだろう。
「おい、ミズチ……」
「どうせそんなことだろうと思ったわい。のお娘っこ、みなとは処女の血を飲めば、こやつ自身の心臓に栄養が送られ、再生力が高まる。そうなれば、お前さんが燃やし尽くした右腕も、あっという間に完治するじゃろう」
「そ、それなら!」
咲良はためらいなく上着を脱ごうとする。だが、僕は手を咲良の方に向けて、制止させる。
訝しむような疑心のまなざしが、痛い。
「……みなと君、何で止めるの? どうしてそんな大事なことを言ってくれなかったの?」
「咲良、考えてもみてくれ。血を飲めば傷が再生するなんて、一体どんなおとぎ話だよ。明らかに現実の話じゃない、怪異の逸話だ」
「それはあなたが、半神半人だからでしょう?」
「そうだ。だけど君は? 血を吸われる君は、人間だ。怪異に関わったのなら、自衛策を持たないといけないとは言った。だけど、これは明らかに『怪異との取引』になってしまう。君が、君でいられなくなる第一歩になってしまう。真人間としての道を踏み外す、最初の罪になるのは絶対に――」
「いいよ」
ぴしゃりと、咲良は冷淡に告げる。
投げやりにも思えるような返事に怒りを覚えたが、何も感じていないわけではなく、すべてを悟ったような表情をしている。
「覚悟してる」
「おい、僕は本気で言ってるんだよ」
「わかってるから。私だって、もう『そっち側』なんでしょ? 記憶も意識もなくなって、一週間も飲まず食わずでさまよっていたなんて、人間じゃない。それを、あなたが必死につなぎ止めてくれた。だからこうして、戻ってきた。その恩返しを、させてほしいの」
悟ったようなとは思ったが、実際に咲良は、とっくに理解していたのだろう。
自分のなかに巣くっているものが、異形の者であることを自覚しており、察していた。
きっとそれは、僕が鱗の心臓を見せる前からだ。
もうただの人ではないと。普通の人間ではいられないと。
自分は巻き込まれた部外者ではなく、望んで進み入った共犯であることを、彼女は薄々感じ取っていたのだろう。
咲良は座ったまま僕に背を向けて、上着に手をかけた。
僕の制止なんて意味がなかったように、一枚一枚脱いでいき、下着姿になった彼女は、健康的な肌と桜色の髪が混ざりあい、青く扇情的だ。
「これで、チャラにして」
背中まで伸びた長い髪をたくしあげて、艶めかしく若々しい首筋が露わになった。
異性の裸というのは、罪と毒を生み出す絵画のようだ。
目を奪われて、心もざわめくのに、それを忌避しなければならないという理性が働く。
本能と理屈の間でせめぎ合う、己の感情にすら、嫌悪を抱いてしまう。
見てはならないのに、瞳は意思に反して勝手に覗く。
見蕩れてはならないのに、心は自由気ままに叫ぶ。
つやと光沢をもって流れる桜色の髪は、春の風を呼ぶ若さの象徴だ。
うなじにある髪と肌の境界線は、情欲を沸き立たせる。
張りと柔らかみに包まれた玉肌は、自身の体が持つ価値を見せびらかして、主張してくる。
食べごろ、だと。
「みなと君、はやく。さすがに、恥ずかしい」
背中を向けては居るが、咲良の耳元は炎のように赤くなっている。
じわりとにじみ出ている汗が、背を伝ってきらめく。
その水気までもが、彼女の体を美しく見せようとする意思を持っているのかと勘違いするほどだった。
手が伸びる。彼女の両肩を、僕はがっしりと掴んだ。
「っ……!」
たくし上げた髪の束を、咲良は体の前で人形のようにぎゅっと握りしめた。
痛みを我慢するためか、それとも不安を抑えるためか。
はっとした。
僕は、またやってしまうのか。
女の子を不安にさせている現状に、何も思わないわけがない。
心を許している相手であっても、幼馴染みであっても、僕らは男と女だ。
そしてそれ以上に。
僕にとって咲良は、女の子であり、大切な幼馴染みなのだ。
頼ることはあっても、傷つけたくはない。
彼女の存在に勇気づけられても、すがりきって倒れ込みたくはない。
思い出せ。
僕はなんで、ここまで来たのだ。
こんな真夜中に、家に帰る終電もなくなる時間に、手がかりだって見つからずに出鼻をくじかれる可能性もあったこの場所へ、どうして来たのか。
咲良を見つけるためか。
咲良を守るためか。
咲良を、助けるためか?
「そう、じゃないんだ」
魂を焼き尽くす炎に焼かれても。
罪を蒸発させようとし、肉体を塵にかえそうとする炎に触れてでも、咲良の手を取ったのは。
「僕が、傲慢だから」
「……な、なに?」
「咲良、僕は君を助けられない。君を救うなんて真似はできない」
「え、何の話?」
「君は人間だ。人間を助けられるのは人間だけだ、神様でも半神半人でもない」
これは、咲良の血を飲む行為は、取引になってしまう。
僕が血を吸って、燃え朽ちた右腕を回復させるのは、血肉を蘇らせる儀式であり、人間と人外の対等な契約でもある。
契約は、双方の利益があってはじめて成り立つものだ。
そうでなければ、ただの押しつけに成り果ててしまう。
「君が血を吸われた場合のメリットが、君にはない。いや、もっと直球に言おう。僕にメリットが発生することで、その恩を返さないといけない義理が生まれてしまう。これが面倒だ」
「そ、そんな、お返しなんていらない……」
「ああ、僕もだ」
「じゃ、じゃあみなと君の腕はどうなるの! 私が傷つけて、燃やしてしまったんでしょ!」
「誰がそれを知ってる」
振り向いて、訝しむようにこちらを見据えてくる咲良。
抱きかかえる桜色の髪は、彼女の胸の中で静かに収まっている。
「誰が『僕の腕を燃やしたのは咲良だ』と、証明できる?」
「は……? え、何を言ってるの……?」
「証人がどこにいる。咲良か? それとも僕か? しかし君は残念ながら記憶が曖昧ときた。そうなると証言としての信憑性は薄い。だからあのとき、君のことを見ていた僕が証言しようじゃないか。この右腕を燃やしたのは、咲良じゃない」
「な、何を……」
「だから言ってやるさ、お前がその責任を果たそうとする意味なんてないし、意義もない。誰の罰をかぶろうとしているんだ。赤の他人がしでかした罪を、ただの憶測でなすりつけられることを善しとして、悲劇のヒロインを演じて、その純潔でチャラにしようってか。はっ、とんだ博愛主義だな。清楚に見せかけたビッチかよ」
「は!? ちょっとふざけないで、これでも私は真面目に……!」
「真面目に……ね。ホントにそうかい? これでも僕は、咲良のことを女として見ている。今改めて、理解したぜ。面と向かってお前の裸を見ているだけで、男としての欲望が渦巻いて、犯し尽くしたいほどだ。いまここで襲われる覚悟が、処女を奪われる自覚が、お前にあるのかよ」
氷で急激に冷やされたように、咲良の顔色が青ざめていく。
じりじりと、座ったまま僕のそばから離れていき、その裸体を壁にぴたりとくっつけた。
視線は逸らさず、その目に恐怖をにじませて。僕に対して、畏れの情念を抱きながら。
自分の底から失笑がこぼれた。
「ほらな、咲良の覚悟なんて、そんなもんだ」
「いや……違う!」
「なら分かっていないだけだ。夢見がちな少女の純潔ほど醜いものはないな。迎えに来てくれる王子様を待ち続けて、一生を終えるんだろう」
ぶちん。
何かが燃え切れたように、空気が熱くたぎる。
波がさざめき、波紋が起こり、頭の中で警鐘が鳴り始める。
「ひどいね、なにその強がり」
「事実だろ、今まで彼氏がいたことあったか?」
「それは別に関係ないでしょ」
「あるな。異性に対する耐性がないから、丁度良い幼馴染みを使って経験をしておこうって、算段をつけたんだろ」
「自分のことを過大評価しすぎで気持ち悪い。モテてるって勘違いしてる人並みに痛い」
「人のこと言えるかよ。処女だからって誰でも飛びつくわけじゃないんだよ。お前の方がよっぽどだ」
「あっそ、こんな意気地なしを好きな結奈姉を疑うよ。お似合いですね」
「最高の褒め言葉だな」
僕の失笑を聞き流すと、咲良は立ち上がる。
裸体を隠すこともせず、いそいそとクローゼットまで歩き、中から新しい衣服と下着を取り出すと、こちらに向かい直る。
「今日はそのベッド使わせてあげますので、朝になったらさっさと帰ってください」
「えらく優しいな、不良の癖に」
「あなたと同じ空気を吸いたくないだけです」
ぴしゃりと言い放った後、咲良はドア付近の棚に仕舞われていたバスタオルを取って、それを上着のように羽織る。
そのまま、ドアノブを回して部屋をあとにした。
静寂が室内を満たし、跳ね上がっていた心臓が落ち着き始めた頃。
「よーやるわい。幼馴染みとの喧嘩ってあんな感じなんじゃのぉ、結奈との痴話喧嘩とはまた違った趣じゃな」
「心臓に悪いよこれ。僕は別に喧嘩が好きなわけじゃないのに……」
置いてけぼりになっていたミズチと言葉を交わすが、ことの元凶を戒めるため、いままで傍観していた相棒の頭に、勢いよくチョップをかました。
「あいたっ! なんじゃい!」
「なんじゃい、じゃないんじゃい! ミズチ、今日はV・B飲んだでしょ! これ以上血を飲んだらどうなるか予想できないの!?」
「うるさいのお、別にちょっとぐらい良いではないか!」
「その『ちょっと』の積み重ねが山となったら、取り返しつかないでしょ! 今のうちにちゃんと制御しておくべきなんだよ!」
「ううぅ……みなとの石頭! おかん!」
「悪かったな! これでも家計は握ってるんだよ!」
こんなところで自慢しても、聞いてくれるのは年増の幼女だけである。
「しかしなあ、その腕を治すためにはさすがに血がないと無理じゃろ。わしだって明らかに的外れな打診をしたわけじゃあないぞ」
「それは分かってる。君の提案が悪意じゃないってことは。だからそうだね、今回は僕の独断ってやつだ」
ミズチに罪があるわけでもない。
むしろ彼女は現実的な解決案を持ち出してくれたことに違いないのだが。
「試してみたかったんだ。神性っていうのを」
「……ほお。なんじゃお前さん、調べたのか?」
「ちょっとだけね」
神様というのが、何をもとに存在を維持しているのかを、僕は方舟で調べていた。
僕たち人間が肉体をもってこの世に存在しているのと同じように、神様や怪異も糧となるものがあって現世に居座っている。
その例が、『信仰』である。
信仰が出来上がるのには、まあ様々な経緯こそあれども、最終的にいきついて決定的になるのは「大きな感情」であるらしい。
畏怖だったり、崇拝だったり、憎悪だったり。
何かしらの感情を向けられると、その大きさと量に比例して怪異は力を増す。
多くの人々が持つ感情が、怪異にとっての糧であり、餌であり、エネルギー源となる。
だから、名前のない神でも力が強いのはそういった事情が絡んできているからとも聞くが、ここではおいておこう。
「試してみたかった。僕が半神半人なら、『人の感情』も栄養になるんじゃないかって」
「嫌悪、恐怖、軽蔑、迫害。目の前であれだけ浴びておったら、お前さんの『人としての精神』が先に燃え尽きそうじゃがな」
「そこは、頑張って耐える感じで。まあほら」
バケツに入っていた右腕を引き上げた。
ぽたぽたとたれ流れる水滴を床へこぼさないように、ビニール袋をゆっくりと肩からはがした。
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