王女は私を優しい目で見据えつつ、問いかけてくる。
「たしか結奈さん、でしたよね?」
「あ、私の名前を……」
「ええ、覚えてますよ。もうホントに、あれだけ決死の戦いをした人の姪なんですから、覚えてしまいます。そんなあなたにお願いしたいのです。どうか私のことは『王女』などと堅苦しい呼びかたではなく、霞と呼んで欲しいのです」
「あの、さすがにそれは……」
「あらあらそうですか? 残念です、そうなると私もあなたのことを『銀の殺し屋』と呼ぶしかありませんねえ?」
いじらしく、楽しそうにからからと告げた。面と向かって世間話をしてみれば、気さくでお茶目な方だということが分かる。
私が勝手に緊張してしまって、ぴんと張り詰めていた精神の糸が緩んだ。難しい意図を全くはらんでいない、井戸端会議のような軽い調子で話す彼女が、なぜかおかしくて、頬が緩んだ。
「よかった、結奈さんはちゃんと笑えるんですね」
「……え、私ってそんなイメージなんですか?」
「てっきり、笑うこともできなくなってる冷酷無比な殺し屋を想像していたのですが、やっぱりあなたは『灰刀の巴嬢』と血が繋がっていますね。笑顔が似ていますし、似合いますよ」
「あ、そうですか……」
面と向かってそう言われると、こそばゆい。
私が叔母さんと似ているとは、あまり言われてこなかったというか、せいぜい「戦闘狂」であることしか共通点がないと思っていたのだけれど。
意外な発見というか、意識したことなんてなかったな。笑顔が似ているなんて。
「……というか、巴叔母さんの笑顔なんて見たことあるんですね、王女……」
「むー」
腕を胸の前で組み、仁王立ちで頬をぷっくら膨らませて抗議された。
本当に、名前で呼んで欲しいみたいだ……。
「………………霞、さん」
「よろしい!」
心底嬉しそうににっこり笑う吸血鬼の女王。
ただ、そんな姿を見てもなんというか、王女の威厳がなくなったわけでも、牙や毒が抜かれたわけでもないと感じる。
そういう圧倒的な強さを前面に出さなくてもいい余裕が、霞さんにはあるのだ。
「それでそれで、今日はどうされたのですか? 連絡を入れてくだされば、お茶の用意ぐらいしましたのに」
「いえ、本当に一瞬で終わるというか、ミズチを迎えに来ただけですので」
当の本人というか、本神は少女趣味の服のままぺたんと座って、呆然としている。
目がうつろだし、ボソボソと独り言を吐き続けている。
パジャマ姿の戸牙子ちゃんへ視線を向けて、説明を求める。
「あの、戸牙子……さん」
「あ、別にいつも通りでいいですよ? ママはそこまで気にしないといいますか、私も結奈お姉様って呼んでるの知ってますし」
普段通りの呼び方をするか一瞬迷ったが、彼女はあっさりしていた。
一応親が目の前にいるから気を配ったつもりだったのだが、最近の子は親にも開けっぴろげに話すものなのだろうか。
それだけ仲が良い証拠でもあるということか。
改めて、話を戻す。
「……戸牙子ちゃん、ミズチはどうしてこんな世界の終わりを迎えたように放心しているの?」
「……えへっ」
こつんと自分の頭に手をあてて、悪びれずに笑う戸牙子ちゃん。
ふと、言葉責めで泣きべそをかかせたいと思ったその瞬間。
黒い粒子の集まりが、蝙蝠の翼を形作って、戸牙子ちゃんの頭を鷲掴みに締め上げた。
「うぎゃー! 痛い痛いごめんってママ!」
「戸牙子ぉ? 神様に礼節を忘れるなんて、そんな悪い子になってしまったのならお仕置きが必要よねぇ?」
その黒い翼は、たしかに蝙蝠の翼ではあるのだが、霞さんの背中ではなく、使役する眷属のように戸牙子ちゃんの頭上から突然現れた。
下手すれば、全身を包み隠せるようなサイズ感の翼で、器用にぎりぎりと娘の頭を締めている。
まるで箸で豆をつかむような、緻密な動きだ。
懐かしさを覚える光景を目の当たりにして、ノスタルジックな感傷に浸る。
私も、巴叔母さんからよくじゃれ合い感覚でこってりいじられたものだ。
それが毎回、死にかけになりそうなレベルのいたずらだったから、笑えない遊びであるが、今にして思えば楽しい記憶だ。
微笑ましい気分で親子を見ていたら、ふと耳に小さな声が入り込む。
いや、入り込んだというか、暖かい家族の団欒が行われている戸牙子ちゃんの私室で唯一、「強烈な負の感情を生み出す異物」に、無意識が奪われた。
「わしは、わしは少女……わしは魔法少女なんじゃ……」
ツインテールで魔法少女コスプレ状態のミズチが放つ独り言が聞こえてきて、思わず耳を疑った。ひっそり聞き耳を立てる。
「わしは神ではない……わしは三十過ぎても処女を守り抜いて魔法少女になったんじゃ……だからこんな服をきているのは至極当然のことわりなのじゃ……」
「み、ミズチ?」
「スク水も、ゴスロリも、ブルマも……わしが少女であるから全て着れて当然じゃ……決してわしは五千歳を超えた年増などではない……。そうじゃ、わしは十二歳ぐらいで貢ぎ物にされていたはずじゃ……。わしは、あたしは……うら若き少女ですわ……」
なんと、ミズチはプライドや尊厳を傷つけられすぎて幼児退行していた。ぺたんと座り込む姿まで合わさって、見た目は完全に幼児だ。言葉遣いまでぶれにぶれているし、今までの記憶を抹消しようとしている、これはまずい。
彼女の元へ歩み寄り、座り込んで目をのぞき込む。
深緑色の瞳に赤く細長い瞳孔。蛇の象徴とも言える縦長の瞳孔が、今は黒く暗い色で塗りつぶされていた。正常な人間がこうなっていたら死にかけである。
「……ミズチ」
「誰じゃ、そのミズチというのは? なんだか、どこかで聞いたことがあった気がするが、まあ忘れた方がいい名前かもしれんなぁ……」
「ミズチ、目を見てくれない? 私よ、結奈よ」
「ああ、銀髪のお姉さん、あたしをどうするつもりですか……? また何か、可愛い服を着せてくれるんですか……?」
重傷だ。
まるで精神を破壊されて虚無に呑まれた精神病患者のようで、見るのも痛々しく、神様の威厳にいたっては見る影もない。
ここまでしおらしくなっている彼女を動画か記録媒体に収めたい気持ちもあるが、さすがに絶縁されそうなので欲望をぐっと抑える。
仕方がない。奥の手を使おう。
「……ミズハノメノカミ」
数秒後、うつろに虚空を眺めていたミズチの目がほんのわずかに色を取り戻し、光を灯し始めた。
私の放った言葉の咀嚼ができたのか、彼女は正気を取り戻す第一歩を踏みしめた。
「……なんで、その名前を呼んでくれるのは、『県守』だけで……」
まだうわごとが続いていたが、少しずつ声に色のともった生気が宿り始める。
彼女は今まさに、己が何者であるかを見つめ直して、記憶を呼び覚ましている。
「いや……違うな。もう一人、その名を知ってるやつが、いる……」
「そうよ、ミズハノメ。戦友で、相棒でもあり、同じ男を愛する恋敵。絶対に譲れないけれども、実力を認め合った宿敵が、その名前を知ってる」
「……ああ、なはは、かかか、かっかっかっか……」
乾いた笑いが、戸牙子ちゃんの私物で散乱している、今時の子がゲームをする用の部屋で静かに響き渡る。
数十秒の寂声が続くなか、ぴたっと笑い声が消えて静寂が訪れた次の瞬間。
彼女の虚無で無色だった顔色が、憤怒に塗り替わった。
「おい、誰が気安くその名を呼んでいいと言った」
彼女に、激怒の魂が乗り移った。
瞳孔が赤黒くギラギラと蠢き、ツノは脱皮を繰り返すようにめぎゃめぎゃと音を立てて鱗が剥がれ落ち、曲がりくねて伸びる。
ツインテールだった髪の毛がばさりとほどかれるが、いつものサイドテールではなく、空色のセミロングになり、毛先は毒のような紫で染められている。
一瞬で全身を変貌、変化させて、着ていた服が脱ぎ捨てられ、いつものような露出度の高い服ではなく、霞さんのような完全に体型を隠す日本の着物となった。紺色の布地に、睡蓮の花がこさえられている。
そして、着物の帯には彼女の得物が顕現していた。
帯に刺し挟まれているのは、女でも扱える小さめの懐刀であり、刃渡りを神水で自由に変化させられる、神の刀。
神殺しの刀剣であり、同族殺しの祖。
「神刀玉泉」
帯の中で静かに佇む玉泉の柄に、彼女は手をかけていた。
霞さんは戸牙子ちゃんの前に立ち、蝙蝠の翼を広げて、娘を守っている。
吸血鬼が恐怖をにじませるレベルの殺気。
今この場でここに居る全員を憂さ晴らしに殺してもおかしくないほど、ミズチは気が立っている。
「ミズハノメ」は、ミズチの真名であり、彼女の本来の姿でもある。
いや、彼女の生い立ちは複雑すぎるために、ミズハノメを真名といってしまうと語弊が生まれるのだが。
だが、その名前と彼女自身が因縁浅からぬ関係であることは間違いなく、そして彼女からすればこの名前は地雷でもあり、見たくも聞きたくもない名前なのだ。
自分を捨てたやつらに付けられた名前であり、迫害されたのちに、神としての威光を捨て去り、記憶からも歴史からも抹消された名前を聞いて、気分が良くなるはずもない。
私はミズチへ向かいなおる。
「ミズチ、ごめんなさい」
私は、謝った。
誠心誠意、彼女の顔が見えなくなるほど頭を下げて、真摯に謝罪する。
「あなたが正気を取り戻すには、これが早いと思って言ったの。今は、急がないといけない状況で、本当にごめんなさい。いじわるじゃないことは、信じてほしい」
自分が悪いと思っていないのなら、筋を通しているという信念があるなら、謝る必要はないというのが私の哲学だ。
それでも今回に限っては、無条件に謝るべきだと思った。
「みなとのもとへ戻ってほしい。今あの子は、咲良っていう幼馴染みを追っている。多分、怪異が絡んでいる」
ミズチの怒りに満ちていた表情が、少しだけ和らぐ。
みなとのことになれば甘くなるのは、お互い様ということか。
「……お前さんからそこまで言われたら、のぉ」
「お詫びに、言うこと聞くから」
「ほお、それはなんでもいいのか?」
「できる範囲で」
「ふーむ、そうじゃのお」
急にニタニタと笑い始めるミズチ。
その視線は、霞さんの方を向いているが、まさか。
「おいロゼ。お前さんはまだ処女じゃろ?」
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