空気を冷たく凍らせるような声がりんと響く。
視線の先で、声の主である巴さんが結んだ髪をいじりながら、ウォッカの瓶をあおっている。
得物である白刀は、彼女の肩の上で微動だにせず、均等な重さで釣り合う天秤のように静止していた。バランス力だとか、そういう次元で片付く話には見えない。磁石や接着剤をつけていると言われた方がまだ納得できそうである。
「結奈が来たからって安心できると思うのか? あたしはこれでも人類最強の殺し屋だぜ」
「とっくの前に世代交代してるわよ」
巴さんの口上に横やりを入れたのは、姉さんだった。
「叔母さんがいなくなった時点で、人類最強の殺し屋は私になったわ」
「はっ、自惚れやがって。レオ爺と殺りあったこともねえのによく言うぜ」
「今からやってもきっと同じ結果よ」
「そうかい。なら奪い返すまでか」
ウォッカを飲み干し、瓶を下げた瞬間、それはつんざく音と共に割れた。
巴さんが持っていた瓶を、思いっきり握りこんで破壊したのだ。瓶だったものに亀裂が入り、握り込んだ手の中で、粉々のガラス片へとなる。
だが、それは瓶の形を保っていた。
手の握力だけではありえない細かさにまで粉砕されたガラス片たちは、巴さんの手の中でいまだに瓶の形をしていた。
「守らねえといけねえやつがいるっていうのは、戦りづれえよなあ、結奈?」
巴さんのそれは、脅しに聞こえた。いや、実際間違っていないはずだ。彼女はまともに戦えない僕と咲良を、人質として狙っている。
あれは、巴さんの手にあるガラス片は、僕のつたない経験則による分析ではあるが、『神秘術』だ。
神秘の技は、自信の想像力を使って物質や現象を創り上げる業。
虹羽さん曰く、「そこにはないものを自身の創造力だけで引っ張り出す技」
ミズチ曰く、「己の空想を現実に引きずり込む技」
手に持っていた酒瓶を握りつぶしていたから、それは神秘術などではなく、別の類いの術かもしれないというのが、本来抱くべき感想であるはずだが。
どういうべきか、これはきっと僕が神秘術の適性があるから、自然と思い浮かぶ所感なのだ。
神秘術は、僕の「睡蓮鏡」や空木さんの「雪卯」のように、「本来そこにはない物質や現象で上書きしている」ことが大きな判断基準になる。
空中で停滞しているガラスの粒子。
しかもそれは、破壊されたはずの瓶であった頃の形状を忘れていない。
それはまさしく、「現実を空想で上塗りした結果」であることに違いない。
つまり。
巴さんの手にあるガラス粒子は、今は彼女の意思だけでどうにでも操れる、獰猛な凶器なのだ。
「そうね、よく分かるわ」
姉さんは感情をおくびにも出さず、銃口を巴さんの近くで片膝をついて顔を伏せている海女露さんに向けた。
相手がそうするならこちらも、と言わんばかりに。
「ね、姉さん!?」
無防備な状態の海女露さんを人質にするなんて、とは思ったが。
僕以上に、そして隣でことを見届けている咲良以上に、驚いていたのは巴さんだった。
視線の先で、目を見開いて青ざめている。驚怖の色をにじませながら、信じられないものを見たように眉間にしわを寄せ、姉さんを鋭く睨む。
「……本気かよ、お前」
「ええ、私はみなとを守るためなら世界を敵に回しても構わないの」
「味方が一切いなくなるぞ」
「巴さんが敵に回る時点で、どうにでもなるわ」
「どうにもならなくなるの言い間違いだろうがよ」
海女露さんは、隷属するように顔を伏せたままだ。
状況を掴めていないのか、それとも見えていないからなのか、銃口を向けられているというのに彼女の態度は氷のように冷静だった。
「下ろせ、硝子を」
脅しの怒気。唸るような低い声が突き通り、巴さんを穿った。
それを浴びた巴さんの眉がひくついた。怖れをなしたように。
「……結奈、人の道を踏み外してまで、みなとを守る価値はあるっていうのか? 確かにそいつは、恩人だ。あたしだけじゃない、お前だって咲良だって、みなとの周りにいるやつらみんなそう思ってる」
「三つ数える」
「オイ聞けって、あたしはみなとが恩人だからこそ、これ以上ひでえ目に遭わせたくねえって思ってるだけなんだよ」
「ひとつ」
姉さんが、撃鉄を起こす。
「神と取り引きなんて、ろくでもねえ呪いだ。それを止められなかったんだ。あたし達は失敗したんだ、間に合わなかったんだよ」
「……ふたつ」
ゆっくり、トリガーに指をかける。
「もうどうにもならねえのなら、あたしらが介錯してやる方が楽だろうがよ。あたしの代償に蝕まれ続けるみなとを、苦しんだまま生きながらえさせるのかよ」
「……まさか」
姉さんの指が止まった。あとほんの少し、風が吹く程度の力で押し込まれる引き金が、すんでのところでとどまる。
「言ったの? あのことを」
「ああ、話した」
「どこまで」
「かいつまんで。だが核心は伝えた」
姉さんが長いため息をつきながら銃口を下ろし、気が抜けたように目を伏せてうつむいた。
後ろから見ている僕でも、明らかな隙が生まれたというのが分かるのに、対峙している巴さんは攻撃することも、威圧することもなく、ただ次の言葉を待つように、ガラス片の瓶を持ちながら立ちすくんでいた。
「だから……帰ってきて欲しくなかった」
涙に滲んだ声で、姉さんはゆっくり顔を上げて、恨めしそうにぽそりと呟いた。
「叔母さん、みなとがあなたの命を救ったとき、あなたの心臓を肩代わりしたとき、なんて言ってたか知らないでしょ」
「……あたしの意識がないときの話なら、知らねえな」
「『家族がいなくなるのは、もう嫌だよね?』って。すぐ隣にいた、私に言ったのよ? 忘れられない、昨日のことのように思い出せる。一言一句だけじゃない。あの時のみなとの表情も感情も声色も、全部覚えてる。あの子が願ったのは、私の幸せなのよ? 自分の依り代となる記憶も名前も魂も棄ててまで、『巴さんがいなくなって取り残される私』の不幸を請け負ってくれたっていうのに……!」
姉さんが泣きわめくように、甲高く黄色い声を上げて続ける。
「みなとのため? いずれ知ることになる!? 自分本位もいい加減してよ! 叔母さんはみなとの背負った覚悟も全部忘れ去って、置いてきぼりにして、何百年も消えていたの! みなとの想いをないがしろにしたのよ!?」
「ごちゃごちゃうるせえなあ、めんどくせえ女だよ」
「うるさくもなるわよ! 恩知らずを殺したくなるのを抑えてるだけまだマシと思って!」
ヒステリックに感情を昂らせて、姉さんはまくしたてた。
心底嫌っている相手を糾弾している姿が、今までの鬱憤を晴らしているようにも見える。
それぐらい、溜まり溜まっていた怨恨なのだろう。
しかし、巴さんは激昂を毛ほども気にせず、飄々と続ける。
「恩の返し方なんて人それぞれだろうが。あたしは不器用なんだよ、お前や咲良みたいな気遣いっつーのが苦手なんだ。それによぉ」
巴さんが白刀の剣尖を僕へ指す。彼女と僕の間合いはそれなりにあるが、一瞬でも気を許したら。
いや、気を張り詰めていたとしても、一秒後には僕の首が飛んでいてもおかしくない。
「みなとを殺せば、代償の呪縛はいったん解ける。そうなればこいつ自身の再生力で、どうにでも復活できるだろ?」
「だから、だからそれをしてしまったら!」
「あたしは死ぬ」
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