「神楽坂家は、あなたの家でもある。姉さんがどれだけ毛嫌いしてて、忠犬みたいに威嚇しても、僕が絶対にその間を取り持つから」
「お前は、暗殺者をそばに置くのかよ」
「僕が強くなるから」
「……は?」
巴さんのそれは、あまりにも素っ頓狂な声だった。
予想だにしないというより、何を馬鹿なことを言っているのかという感情が丸見えの、あからさまな呆れ方だった。
「暗殺者よりターゲットが強くなれば、そばに置いても問題ないよね」
「……舐めてるだろ、お前」
「今はそうだね。でもいつか、僕は巴さんが牙を剥いても止められるぐらい強くなってみせる。チートに頼らずとも、ね」
「……そうか。そうかい」
巴さんは、振り返って僕に背中を向けながらそう言った。
否定することも、肯定することも、嘲笑することも賛美することもなく、ただ相づちで返された。
表情が見えないせいでどんな意図があるのか、一切分からないが、少なくとも無視されたわけではなかった。
「じゃあ、次帰ったときはあたしの飯を作ってくれ。おこぼれでも作り置きでもなく、あたしの好きなものを、あたしだけのためにな」
「約束するよ」
優しく笑ったような声が聞こえた。
巴さんが髪を縛っていた紐を解いて、ポニーテールに収まっていたものがぶわりと広がる。
「結奈、合い言葉は『レヴォントゥレット』で方角は南西だ。一秒もねえから、さっさと二人を連れてけ」
突如、姉さんがバッとこちらに振り向いて、結っていた髪を解きながら咲良と僕のそばに駆け寄ってきた。
そのまま、なんと彼女は僕の口に銃を無理矢理咥えさせて、そして咲良にはヘアゴムを咥えさせて、僕らのお腹に手を回してきた。
震える咲良の腰に手を回して支えるのが精一杯だった僕が虚弱な人間かと勘違いするほど、人間二人を両腕で同時に、軽々と抱きかかえた。
動物病院に連れて行かれるペットの気分ってこういうものなのだろうかと、そんな気の抜けた感想を浮かべた僕とは裏腹に、姉さんの表情は鬼気迫っていた。
「レヴォントゥレット!」
その直後、僕の視線は空を舞っていた。
公園の地面が空に、星空が地面へと、世界が反転していた。
しかしそれが、姉さんが僕らを抱えたまま大ジャンプをして視点が宙を舞ったからではないことに気付いてしまう。
世界が、風景が塗り変わり、重力が逆転する。
この感覚を、僕は覚えている、知っている。
グロウと別れた時、黒い霧のなかへ歩みを進めたときと同じ。
もしくは、虹羽さんのもとへ緊急避難したとき同じ。
そして、ロゼさんの敷地からミズチの手助けで出たときと同じ。
自分の中にある平衡感覚がぐるぐると歪んでしまって、コンパスが機能しなくなるような、表現しづらい気持ち悪さ。
異象の隆起、結界の崩壊。
「常世から最も遠い庭」を乗り越える感覚だった。
「みなと君、このロールキャベツおいしいね!」
「そうか! それは良かった! トマト味にしてたら咲良は食べれなかったもんな!」
「うん、とってもおいしい! もう一生食べ続けたいぐらい!」
「はは、嬉しいこと言ってくれるじゃないか! なんならもっと作っちゃおうかな!」
「ふたりとも」
僕と咲良が同時にびくっと跳ね上がる。その反動で座っている椅子がばたんと倒れそうだった。
「ゆっくり食べなさい、私は待つわよ」
髪を解いた姉さんが腕を組んで僕らのそばで仁王立ちしている。
リビングで向かいあって遅めの夕食にありついた僕らを、殺し屋さんが見下ろしている。
「……咲良、たくさん食べよう。これが最後の晩餐だと思ってな」
「もうみなと君のご飯食べられないのかな……」
「大丈夫、味を覚えていれば再現は可能だ……」
「生きていないと無理だよ……」
「どっちか片方が生き残れば、幸運だ。幸運を噛みしめる義務が、生き残った方にはある……」
「なるほど……恨みっこなしだよ……?」
「任せろ、僕が生き残れば命日には咲良の大好きなものを作って食べる……」
「私はみなと君のレシピ帳かなにかを掘り起こして、料理勉強してみるよ……」
「どっちも生かすつもりないわ」
死んだな。
命日が一緒ってどことなくロマンチックだよな。
「処刑を待つ死刑囚ってこんな気分なんだね……、私みなと君の気持ちがようやく分かった気がするよ……」
「分かってくれたか……まあ分からなくていい世界だがな……」
「こんな絶望を独り占めするなんて、やっぱり変態だね……」
「ありがとう……今は罵倒すら愛おしいよ……」
そんな感じで、ロールキャベツと野菜スープを温め直し、ご飯をよそった僕と咲良は涙目で箸を進める。
本当ならむせび泣いて許しを請いたいが、そういった余地はないと断ずるように、姉さんが「ご飯食べなさい」と促してきたのが、帰宅後のやりとり。
僕らが逃げ出す隙も与えないように、監視されていた。
箸を動かす手や、口にものを運ぶ一挙一動まで注意を凝らされていて、自宅であるはずなのに牢屋にいる気分だった。
精神の牢獄である。つい先ほど巴さんと固い約束を交わしたというのに、神楽坂家は安らぎの空間ではなくなってしまった。
ごめんね巴さん、あなたに殺される前に僕は死んでしまいます。
ジングルの音が部屋に鳴り響いた。この着信音は、姉さんの携帯だった。
「はい」
電話に出たおかげで一瞬だけ、監視からの解放に安堵が浮かび上がるが、それを察知したように鋭い眼光が飛んでくる。
逃げ出しませんから、だからもう少しその閻魔大王みたいな顔をやめていただけませんでしょうかね。
「……そっちが無事ならいいです。ええ、はい。分かってます、みなとは私が。申し訳ありませんが、虹羽先輩はそれを死守してください」
「虹羽さん!?」
思わず立ち上がったら、僕の頭を姉さんががしっとわしづかみ、押さえ込まれて座らされた。
あまりにも本気の膂力だったせいで、がちんと歯がぶつかって鳴る。
「無事ですよ、暴走もしてません。……ああ、そういうこと。なら、私が空木の相手をします」
話し込み始める姉さん。電話の相手は虹羽さんらしいが、どんな話をしているのかは全く予想できない。
「……取引? 待ってください、そんな取引、信用できるんですか? だって鱗は、まだ三枚しか見つかってないんですよ。それはあまりにも、贔屓目というか……」
姉さんの顔色が曇る。嫌悪を抱いていたが、渋々といった感じで続ける。
「……そうですか。じゃあ私は、貴方の方策を信じます。ですが、私は方舟よりもみなとを優先します。それだけは、忘れないでください」
さらりと言い捨てて、彼女は電話を切る。
電話の内容が気になるが、視線を合わせるのも怖くて、僕と咲良は慌てて食事に向かい直ろうとしたときだった。
「みなと、咲良」
「「ひゃい!」」
無色透明な声があまりにも恐ろしく感じたかと思ったら、次に姉さんが発したのは理解不能な提案だった。
「あなた達、今週末にデートしなさい」
巴さんに殺されかけた数日後、つまるところ四月中旬の土曜日に、僕と咲良はデートをすることになった。
しかしこれに一体どういう意図があるのか、はたして僕らがデートをすることで命が見逃されるのか、そういった事情もわからないまま、ただいたずらに姉さんから命じられた。
悪戯というか、面白がってなのか、それとも僕たち二人に与えられた最期の晩餐ならぬ最期の自由なのか。
真意を聞こうとしても正直、なにも聞けなかったのである。
有無を言わせぬ物言いだったというか、冗談が通じなさそうな雰囲気をまとって言われたからというか。
「なんで」とか「それをする意味は」みたいな、そういう疑問を投げかけた未来を選択しなかったから、今ここで、僕と咲良はショッピングモールで生きていられるのだと思う。
二人きりで、誰の監視もなく、ありふれた学生の男女カップルみたいにデートをしている。
しかし、幼馴染とデートというのは果たしてどういうことをすればいいのか、悩みどころではある。
確かに僕にとって咲良は大切な女の子だが、それは家族的な意味合いであるため、一人の女の子として向き合おうとしたとき、僕はあまりにも気が利かなくなってしまった。
何をすれば喜ぶとか、こういうものなら好きそうだとか。
咲良に対して、女子が喜びそうな類のものを安直に差し出そうとすれば、冷たい目が飛んでくることはなくとも、がっかりされそうな気はする。
気心が知れすぎている関係というのも、難しい。下手な媚びでも売ろうとすれば、幻滅されてまともに取り合ってくれなくなるような、そんな心配ばかりが浮かんでくる。
幼馴染とデート、難題で難問だ。
「……みなと君」
ショッピングモール内のベンチで一緒に並んで座る咲良が、キャラメルマキアートをストローでぐるぐる混ぜながら、ぽつりと呼びかけてきた。
お互い、朝七時にはきっちり起きて家で朝食を済ませて、姉さんに見送られながら出発した。
そのおかげで開店時間からショッピングモールに到着して、人の波が少ない時間帯からぶらぶらできた。そのままとりあえず「デートらしいこと」というので僕が提案したのが「おしゃれな飲み物を飲む」という感じでキャラメルマキアートをおごったわけだが。
咲良のもっているカップの中身は、数十分経っているというのにあまり減っていない。
「これって、デートなのかな……?」
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