突然、彼女は謝ってきた。何に対する謝罪なのかも分からないほど脈絡がなかったから、聞き返そうとしたら彼女は僕の質問を遮るように続ける。
「軽率だったなって、思ってる。自分の血を捧げることでみなと君が助かるのなら、それでいいって考えてしまってたけど、思い込んでいたけど。みなと君の気持ちを全く考えてない行動だったことに、気付かされた」
咲良はどうやら、桜火に取り憑かれていた日の夜に起きた出来事を思い返していたようだ。
僕が処女の血を、咲良の生き血を吸えば傷が回復すると聞かされて、咲良は自分の血を分け与えようとした。
なのに、僕は彼女の厚意を拒絶しただけではなく、むしろ脅しをかけるような真似までしたというのに。
「……なんで謝るのさ。むしろ謝るべきなのは、僕の方だよ」
「みなと君はもう、手紙で謝ってくれたでしょ? だから今度は私の番だよ」
「律儀だな、それが咲良の良いところだけど。僕はてっきり、絶縁されてもおかしくないと思っていたから、わざわざ出向いてきてくれて、こうしてまた話せることが嬉しいよ」
「私に憑いている怪異を祓うのに、私と会うつもりがなかったってこと?」
「僕は、な。姉さんとかなら、まだ接点はあるって割り切ってた」
「それが、みなと君なりの仕事の流儀なの?」
背中をちくりと刺すようなむずがゆさが走る。僕が手紙に書いたことを、咲良は余すところなくしっかり覚えているらしい。
咲良に宛てた手紙に、「合わせる顔がなくても、仕事だけは最後まで完遂するつもり」と書き記したのだ。
書いているうちに熱が入っていたから、手紙にはふさわしくない言葉や要らない感情まで載せてしまったような覚えがある。恥ずかしい。
「はは、まあそんなところかな。引き受けた仕事は最後まで責任をもってやり遂げる、ようにしている」
「仕事、かあ。吸血鬼の女の子と色々あったことも、仕事だったの?」
「一応そうだな。巻き込まれていくうちに状況がどんどん変わっていって、最終的な着地点はだいぶずれちゃったけど」
「なんだか、大変だね。私はみなと君がしてきた苦労も知らずに、そちら側へ入り込もうとしていたんだよね」
咲良の声色は自分を責めるように、どんどん弱々しくなっていく。
「咲良、そんなに気負わないでくれ。君は自分から怪異に立ち入ったわけじゃない。完全な被害者なんだ。そんな人を保護することも、僕のいる組織がする仕事なんだから、甘えてくれて良いんだ。まあ、すぐ信用はできないかもしれないけど」
「みなと君が言うのなら、私も信じてる。あの時の君はちょっと怖かったけど、私を怪異から遠ざけるためだってことが分かったから、大丈夫」
「おう……バレてたのか……」
「何年幼馴染みやってると思ってるの? 結奈姉さんと同じぐらい、みなと君の思考回路を理解しているつもりだよ」
さすがに手紙にはそういう真意を書かなかったわけだが、咲良にはいとも簡単に見抜かれていた。
僕は人間ではない、半神半人だ。人間に助けられた人間であるなら、まだ人間社会の仲間でいられる。けれど、半神半人に助けられた人間は、化け物に手を貸してもらったのと同じなのだ。
だから僕は、怖れを抱かせるやり方になったとしても、咲良を遠ざける必要があった。
これ以上、こちら側へ立ち入りさせないために。
彼女自身が、魑魅魍魎を忌避するために。
けれど、僕らの仲はその程度で引き離せるほど、やわな関係ではなかったのだろう。
「だから、謝らせてください。一時の気の迷いで、みなと君にひどいことを言わせちゃったことを」
「そ、そこまで気負うなよ。僕だって、その、あんまり紳士的じゃないことを言ったしさ……。お互い様というか、咲良に非はないというか……」
洗い物が終わったので、水気をタオルで拭き取ろうとしたとき、手が空いたことでお互いの視線がぶつかった。
いまにも吹き出してしまいそうな、朗らかな空気が二人の間に流れる。
「……これさ、終わらなくない?」
「……うん、一生続きそう」
別に洗い物の話ではない。お互いが何度謝罪をしても罪の意識が一生流れそうにない、という意味だ。
僕らは同時に、こぼれるような笑みが口元に浮かび出る。
「咲良」
「なんでしょう」
「落とし所を見つけようか」
「そうだね、何が良いかな?」
「……秘密の共有というのはどうかな」
「ほう?」
どことなく楽しそうにほくそ笑む咲良。何やら「秘密」という単語に惹かれたようだ。
「姉さんのね、小さい頃のアルバムの写真を、とある筋からもらい受けたんだ」
「くわしくわし!」
え、「詳しく」っていったのか? それとも新しい言語か?
まあ良い、興奮で歓喜しているのはキラキラしている目を見ても明らかだ。
「姉さんには内緒ということで、手を打たないか?」
「打とう! すべての罪悪感を新しい罪で塗り替えよう!」
「それはそれでどうかと思うがな!?」
闇墜ちコースじゃないか。戻れないところまで一緒に墜ちようという意味で言っているのかな。
ちなみに、姉さんの小さい頃のアルバムというか、写真データは空木さんからもらい受けたものだ。
約束通りというか、半分は冗談だったのだが、空木さんは本当に持っていたらしく、あの後すぐデータの入ったUSBが封筒で届いたのだ。
中身をパソコンでちらりと確認した。あまりの可愛さに悶え苦しんで途中で気を失うので、まだ全部は見られていない。
しかし咲良はなかなかどうして、業の深い女の子であるらしい。彼女が僕と同類であるシスコンの幼馴染みで良かったと、しつこいぐらいに思っている。
ピロリン、と軽快な呼び出し音が秘密の会議をしている僕らの間に割り込んだ。
このチャイムは風呂場からの呼び出しである。姉さんが押したのだろう。地獄耳で悪事に染まろうとする僕らを察知した、のではないと信じたい。
「あっ、お風呂から上がる時は呼んでねって言ってたんだ! ごめんみなと君、この話はまた今度!」
咲良は先ほどまでの邪悪な笑みが嘘のように明るい笑顔となり、ぱたぱたと軽快にスリッパをならしてリビングをあとにした。
なんというか、優先順位が姉さんの話より姉さんの介護なのは、姉が大好きな妹らしいというか。
ああいう感情の変わり身が得意なのは、女の子だからなのだろうか?
男の僕から見ると、とてもではないができそうにない業である。
咲良のいなくなったキッチンで、ロールキャベツの入った鍋を様子見しながら、食器の準備を進めるか、もう一品副菜を作るべきか考える。
しかし、また風呂場からの呼び出しチャイムが鳴った。
ちなみにうちのはインターホン機能も付いているので、会話が可能だ。端末に近づいて、応答ボタンを押すと、咲良の声が聞こえてきた。
「みなと君みなと君!」
「んー? どうした?」
「いまから数分の記憶消せる!?」
「恐ろしいこと言うじゃないか!? 僕をなんだと思ってるんだ!」
冗談かと思ってツッコミで返してしまったが、機械越しでも咲良が切羽詰まっていることが分かるような声に、悪寒で肌がざわつく。
「結奈姉が、のぼせてるっ!」
コンロの火を消して、エプロンを破る勢いで投げ捨てた。
フローリングを割らんばかりに足を押しつけて走り、風呂場まで駆けつける。
洗面台にあるバスマットで、透き通るほど白くまばゆい全裸の姉さんが、水を吸った長い銀髪に埋もれて、だらりと仰向けで倒れていた。
咲良が姉さんの体を引っ張ってなんとか浴室から出したようだが、どうやら女の子の膂力では姉さんの体を抱えることはできなかったらしい。
「意識は?」
「あ、あるみたいだけど、最後の気力で呼び出しボタンを押したみたい……」
姉さんの顔をのぞき込むと、表情は意外と安らかだった。息はしているが、あまり苦しそうではない。多分だが、のぼせているというより気絶しかけているのかも。
「お風呂で気持ちよくなって、眠くなったのかもしれない。濡れたままじゃまずいし、体を拭いて布団に寝かせよう」
「その、髪の毛が水を吸ってるから、乾かしてあげないと……」
「そうだな、咲良はドライヤーを持ってきてくれるか? よいしょっと」
僕は姉さんの体を抱いて持ち上げて、バスタオルを数枚ほど口の噛みつきで棚から取り出し、一階の部屋に運ぶ間に姉さんの全身に巻き付ける。
真っ白な裸体へあっという間にバスタオルをくるりと巻き付けられたのは、なんでだろう、今日丁度ロールキャベツで巻きの作業をしていたおかげだろうか。
リビングの隣にある部屋に結奈姉バスタオル巻きをゆっくりと寝かせ、すぐ布団を広げたあと、もう一度彼女を抱きかかえて布団へ移動させた。後ろから、咲良がドライヤーとハンドタオルを持って現れる。
「やっぱり、男の子だね」
「ん? なんだい、悪いか? これでも異性の裸を見るときにはできる限り心を虚無にする訓練を積んでいるのだけど、感情を読み取る力が強い咲良には興奮しているのを見破られたか」
「もうほんと口で損してるよ!? 私は『女の子を抱えられるほど力持ちなのは男の子だね、かっこいいね』って言いたかっただけなの! なんで自分から全部話しちゃうの!?」
「ああすまない、悪いことをしたときにはすべて白状させられる遺伝子洗脳をされてるんだ」
「誰に!?」
「この人に」
バスタオルに巻かれている、水もしたたるいい女を指さす。
今回に限っては悪いことというか、罪悪感に包まれたからだが。
「……苦労してるね」
「それほどでも」
「好きな人の裸を触った感想は?」
「やわらか……言わせんなッ!」
咲良がなぜ姉さんの風呂に付き合ったことをわざわざ自慢したのか、分かった気がする。
スタイルが締まっていて、なのに女性らしい柔らかさがあるのに、肌が真っ白で綺麗なあの美しい裸体は。
うん、自慢したくなるというか、共有したくなるな。精密な彫刻のようで、生きた芸術品のようで、お互いの感想を言いたくなってしまう。
僕が姉さんの裸を見たのは実に、五年ぶりであった。
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