やりあえる。
空木さんは左手に灰朧を顕現させ、構えてそう言った。言いのけた。
白金の刃を持つ長刀を、刃先が背を向く、逆手持ちで。
あんな長刀を逆手持ちして扱いきれるのだろうかと、刀どころか竹刀すら持ったことのない僕は思ってしまう。
僕の周りには力量のおかしい人間が多いせいで、感覚や常識が麻痺しがちだが、刀というのはただ握って振るうだけでも、一苦労する代物のはずだ。
外国人並みに背の高い空木さんと並ぶほどの長刀「灰朧」は、その重さだって尋常ではないはず。
というより、逆手持ちで扱うのはもっぱら刀身の短いナイフであり、この技法を使うメリットは「大きな力を入れられる」からだと聞いたことがある。
ナイフの場合、順手持ちでは握り方の問題で切っ先のパワーが落ちやすい。
だから、持ち手をぐっと握りしめられる逆手持ちにすることで、リーチの短さによるパワーの低さを補うのだ。
だが、これが長物になると話は違う。
刀や剣、レイピアやランスというのは持ち前のリーチがあるため、そもそも大きな力で振るわなければいけない。
これはある意味、「武器のパワーを小手先で補う必要がない」とも言える。
逆手持ちにすることによるメリットは「至近距離戦のリーチとパワーを補うこと」
しかし、それをわざわざ長刀でするメリットなどはない。
ないはずだと、思っていた。
灰朧のような長刀をわざわざ逆手持ちなんてする必要があるのかと考えたのは、僕の杞憂で、思い過ごしだと、彼の佇まいで思い知らされた。
勘違いしていた。思い違いをしていた。
彼が、灰蝋空木が逆手持ちをするのは、近距離戦でのメリットを考えていたわけでも、手加減をするためにわざとデメリットを課したわけでも、もっと単純な「右手が使えない」状態だからでもない。
切り替えだ。
構えで自身の意識を転換し、スイッチでオンとオフを入れ替える。
「関西弁で気前の良いナイスミドル」から、「化け物殺しの男」へと。
空木さんの周りに纏う気迫は、右手で得物を握りしめていたときより、物恐ろしい。
灰色の眼の奥、ギラリと輝く光が、白金の灰朧と月の光を鈍く映す。
その眼光が射貫いているのは、木に触れて立ちすくんでいる咲良である。
ありえない殺気だった。人間が纏う気迫じゃない。
例えるなら。
銀の殺し屋と、灰刀の巴嬢に並ぶどころか、それ以上。
すぐそばであふれ出す異様で危険な空気が、ビリビリと肌を伝う。
似ている。
僕はこのような「無慈悲の殺気」を真正面から浴びたことがあるから、なおさら恐怖した。
目の前にいるものが何者であったとしても、自分たちに害をなす異端者だと決めつけて、容赦なく殺しきろうとする覚悟を。
方舟の上位組織、おかみに所属していた老人。
黒座に就いていた、今はもう亡き人。僕の目の前で、僕の宿敵に殺された人間。
「篠桐宗治」に勝るとも劣らない、荘厳さだった。
人間以上の化け物を相手にしなければならないからこそ、決めなければならなかった覚悟。
人としての道を踏み外し、人が持つことのできない鬼神の心魂を獲得した豪傑。
灰蝋空木に、『怪異殺し』の魂が宿っていた。
「空木さん」
「下がってなみなと君、生身丸腰の君には荷が重いやろ。俺に任せておけ」
「いけません」
咄嗟にというより、ほとんど条件反射で口から出てきた返事に、呆れる。自分自身が、呆れはてる。
僕は何を言っているのだろうな、と。
理解はしている。これ以上無いぐらいに、分かっている。咲良をあのままにしておくことは危険だと。
暴走状態となった怪異を止めるためには、殺すしかない。
いや、殺す方が手っ取り早いのだ。
意思疎通の取れないものに対して、わざわざ身を投げ打つ必要があるのだろうか。
それが人間を殺してしまうような、毒を持つ生物だったとしたら、容赦も思慮もする間もなく、駆除するのが当たり前だ。
ジャングルの中に生息している毒蛇が、今まさに森の奥から飛び出ようとしている。
たとえそれが「意思を持つ怪異」であったのだとしても、一般人からすれば「化け物」であることに変わりない。
あの子が、僕の幼馴染みで大切な友人であることなんて、誰が気にするのだ。
触れた者をやけどさせて、燃えたあとの灰を被った他の木は強制的に染井吉野に成り果ててしまう。
そんな異質な存在を、僕の友達であるからといって、世間は見逃してくれるのか?
許してくれるのか?
保護してくれるのか?
そんなわけがない。
誰が、発射された銃の弾丸にまで温情をかけるというのだ。
「意思持つ怪異」であるとしても、「咲良の意思は消え去っている」ことに違いはない。
上書きされているのか、乗っ取られているのか。
それとも、もうあそこに咲良の自意識は残っていないのか。
どんな事情があったとしても、暴走状態の彼女はすべての人間にとって、「ただの殺戮兵器」と同義なのだ。
「空木さん、すみません」
彼が灰朧を握っている左手に、僕は触れた。
イメージ、花の鏡。
作用、麻薬。
眠れ。
「おま……みなと、くん……」
「少し、眠ってください。傷は自己回復力で治す方が良いですよ」
睡蓮鏡を浴びて、睡眠薬を盛られたようにふらりと倒れ込んだ空木さんを無視して、僕は立ち上がり、咲良に向かって走った。
咲良まであと数歩のところ、陽炎のようにゆらゆらとした空気が視界に映りこんできた。
それは、炎が燃えている近くや、太陽の照りつける場に現れる、透明な靄のようだった。
その瞬間、僕の右腕だけがひどく熱く感じた。
砂漠の日照りを浴びたように、じりじりと肌を撫でる熱さが、右腕だけに襲いかかる。
だがそれは、ティンダロスの猟犬がまとう黒い体液による酸化でも、白式の刺すような痛みでも、黒式による黒い星屑によって潰されるような痛みでもない。
人の皮膚では感じ得ないような、言葉で表すことも五感で示すこともできない、燃焼だった。
まるで、ここにはない魂が泣き叫ぶような痛みが、右肩から指先だけに襲いかかってくる。他の部位は、なんともない。
だが止まらない、止まるわけにはいかなかった。
「咲良、目を覚ませっ!」
叫んで呼びかけた。森の奥まで届く声量で。
なのに遠い。すぐ目の前にいるはずの彼女が反応を見せない。果てしない山頂で待っているように思える遠さだ。
物理的ではない、精神的な距離の壁にぶち当たった。
まるでそれは、どうあっても繋がれない地獄と天国のようにも、現世と常世のようでもあった。
咲良との間にある、透明に揺れている蜃気楼を前にして、頭の中で嫌な波音が響き渡る。
ざざぁ、ざざぁと。
その音の本質を僕は知っているし、理解している。
告げている、第六感が。
警鐘を鳴らしている、本能が。
それ以上近づくな。燃える、と。
「ぐっ、ああぁあ!」
指の爪先からぺりぺりと剥がされるように、少しずつ、熱が広がっていく。
痛みが増してきて、本能がこれ以上進むのを、咲良に近づくのを拒否している。
だから、なんだっていうんだ。
ふざけるなよ。
この僕が、こんな近くで発されているSOSまで見落とすわけないだろう。
危険だから行くな?
燃え死ぬからここで止まれ?
咲良が僕を燃やし尽くそうとしているから、諦めろ?
馬鹿にするなよ。
誰だよ、僕の中でわんわん泣くやつは。
笑わせるなよ。
危険を察知したら、理性的に動くやつだと思ってたのかよ。
舐めるなよ。
神楽坂みなとを、侮ったな。
僕は、幼馴染みの声に気づかないふりができない、阿呆なんだぜ。
「咲良、戻ってこい!」
燃え盛る右腕。
竜の腕ともなり、ミズチと完全に混ざり合っている究極の部位だけが、痛みを訴え続ける。
それ以外の部位はなんともない。
だからこそ、右腕だけに集中する痛みがはっきりと感じられるせいで、いっそここでぶちりと、もいでしまいたくなる。
使えない右腕だ。
信じられるのは、結局人間の部位かよ。
悪態をつきながら、愚痴を自分の中で消化しながら、咲良が触れている木の近くまで必死に駆け寄る。
そして、呆然とした立ち姿で触れ続けている、彼女の手に狙いを定める。
右腕は痛みで使えない。
鎮静術も連続で使用しすぎているし、そもそもここまで精神が揺れ動いてる今の僕では、機能しない。
左腕しか、使えない。
けれどそれで十分。
間違いなく、あの木から彼女の手を離させることができれば、状況は変わる。何かしら、変化は起こる。
半ば殴りかかる勢いで、走り抜けながら僕は咲良の細い手首を掴んだ。
じゅっ。
「ぐ、うっ…………!?」
右腕で、嫌な音が鳴る。
溶ける熱さ、などというレベルではない。
いや、むしろ痛みの頂点に達すると、冷たい汗が全身をかけめぐり、炎に焼かれて熱いはずなのに凍えたように身震いしてしまう。
腕の感覚が、咲良に触れた途端、一瞬で溶け果てた。
左手で触ったのにも関わらず、だ。
だが、なんとか力ずくで咲良の手元を木から剥がすことは成功する。
先ほどまで、意識こそないが目は開いていた咲良が、支えていた軸を失ったように倒れ込む。
僕は右腕以外の全身を使って咲良を抱きしめ、転倒の衝撃を吸収する。
小石やむき出しの木の根で刺々しい山道に僕の体がめり込む受け身となったが、気絶した人が頭でも打ったら最悪命に関わってくる、これぐらいどうってことない。
ふわふわとあたりを舞っていた桜色の灰も、主の庇護下から解かれたように地面へと落ちて、木の近くまで吸い込まれていった。
次の瞬間。
咲良の触れていた木が、灰になった。
活き活きとしていた木の葉が真っ黒の炭へと変貌し、木の幹から枝先が数秒もしないうちに枯れ果て、朽ち果て、微粒子の残りかすとなった。
あとに残ったのは、先ほどまで宙を舞っていた桜色の灰と黒ずんだ炭の二つだ。
だがその灰と炭は、示し合わせたように木が朽ち果てた場所で混ざり合った。
するとなぜか、それは「桜色の灰」から「赤色の灰」になっていた。
「こ、これが赤い灰……?」
今回の件で実際に目にしたことがある、赤い灰。
あれの本質は、「怪異を知っている者が見ると赤色に見える」であるはずで、本来なら普通の白色の灰だと空木さんは言っていたが。
いや、違う。
むしろこれは、僕の目の前で出来上がったこの灰は。
空木さんと公園で一緒に見たものよりかは、戸牙子が山の中で見つけて、ファーストフード店で譲り受けたものと非常に近い。
これは、この件は一体。
何と何が絡んでいるせいで、こうも複雑になっているんだ?
抱きかかえて胸の中に収まる咲良の吐息が聞こえてきて、理性がほんの少しだけ戻ってくる。
咲良は、生きていた。
それだけで、たったその事実だけで、僕の呼吸は落ち着いてくる。
だが興奮状態が収まってくると、今度は痛覚がゆっくりと這い出てくる。
改めて直視するのは怖かったが、先ほどから痛みが鈍く続いている部位をちらりと確認。
僕の右腕は、空木さんの右手と同じような状態になっていた。
黒い煤がびっしりとまとわりついて、その奥に赤黒い皮膚が覗いている。
ありがたいことに、脳があまりのショックに興奮しすぎているおかげで、痛みや熱さは微弱だ。
これは、もしかすると神経がやられたのかもしれないが、気にするだけ無駄か。
「咲良、咲良おい。おきろ、起きろ!」
ぺしぺしと女の子特有の柔肌な頬を、往復ビンタする。
片手しか使えないとなると、なるほどどうして往復ビンタというのは効率がいい。
一往復で二回叩けるのだから。
しかし、彼女は全く起きない。
呼吸はしているが、目覚める気配を見せなかった。
まずい、僕の意識の方がもうろうとしてきた。
さすがに血が足りない。
再生するための原料が。栄養剤が。
いいや違う、だめだ、再生はしたらいけない。
ミズチがいないのに、心臓に頼るのはまずい。
ストッパー役がいないのに、僕の意思で再生を促してはいけない。
「くそ、せめて森の外まで咲良を……!」
咲良の右肩に手を通して、左肩と左腕で意識のない咲良を引っ張るように無理矢理担ぐ。
お姫様だっこは両腕が使えないとできない。
地面にずるずると引きずる形になるが、許してくれよ、起きなかった咲良が悪い。
「ミズチ、君の居ない世界はハードモードだな……」
神様よ、懺悔しよう。
僕の中からいなくなって清々しい気分になったことは認める。
だが謝りはしない。久しぶりのひとりに高揚感を覚えたのは事実なのだから。
だから、次会ったときは、感謝させてくれよ。
「神秘術、もっと聞いとけば良かった」
暗闇に、落ちる。
それが森の闇なのか、意識の闇なのかを判別するだけの気力は、もう燃え朽ちていた。
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