「姉さん!」
灰みたいにボロボロな有様となっていた僕の心は、生き血を吸ったように色づいて形を取り戻す。
本当なら今すぐにでも、姉さんの背中に飛びついて、全身の力を使って抱きしめたい。
ここが外であるかなど関係無しに、誰の目も気にせず、ただ温もりを感じたかった。
「みなとは、正気ね。咲良ちゃんは……ふむ」
姉さんがちらりと咲良の方へ目をやる。咲良は突如現れた姉さんに興味があるのか、虚ろな目で見据えてはいるが、まだ正気を取り戻していないようだった。
「みなと、咲良ちゃんをそのベンチから、私の後ろまで連れてきなさい」
姉さんの指示は、正直なところ躊躇してしまう内容だった。
「そ、それは……」
「できないの?」
「その……僕が今の咲良に触れたら、僕は燃えて、桜火が燃料にするかもしれないから……」
桜火は発現している。
そうなると、咲良の体に触れるものすべてがことごとく魂の薪となってしまい、炎の威力をさらに大きくしてしまいかねない。
それは、ただの人間だけでなく、僕のような半神半人であっても例外ではない。
むしろ魂の具現化でもある“怪異”を取り込む方が、燃料としては十分どころか、十二分で良質な原料となってしまう。
「なら、食いなさい」
しかし、そんな僕の思慮が些末なことであるかのようにさらりと告げた姉さんの目には、冷然とした覚悟が宿っていた。
僕がミズチモードになることをいつも一番嫌うこの人が、ためらいなく言いのけたことに、僕は彼女の心にある本気と決意を垣間見る。
「桜火が出てきたのなら、それすらも食ってあなたが燃料にしなさい」
「……いいの?」
「できると見て良いってことかしら?」
「失敗するかも……しれないよ」
「私はあなたを信じてる、みなとならできるって」
優しい声音だった。下がった眉尻に暖かさがこもっている。
最大の信頼と期待を込められて、俄然やる気がわいてきた。
許しを得たから、というのもあるのだろう。後ろ盾があるなしでは、こうも意識が変わってくるものなのか。
今の僕なら、咲良を助ける覚悟がある。
それは「咲良を助けられる自信」とは別の感情であり、全く関係のないどころか、なんの根拠にもつながらない意志であるわけだが、それこそが今の僕に一番必要だったものでもある。
踏ん切りがついたのだ。
姉さんはきっと分かった上で、そう言った。言いのけて、僕の覚悟を後押ししてくれた。
「任せて」
僕は姉さん達に背中を向けて咲良の方へ歩み寄る。
彼女は立っているベンチのそばから動こうとせず、直立不動のままぼうっとこちらを見据えている。
目の奥にはゆらゆらと、桜色の炎が燃え盛っている。彼女の瞳に映りこむ公園の景色と僕の姿が、蜃気楼のようにぼやけて揺らめいている。
意識が朦朧としているようにも見えるし、標本のような魂の抜け殻がただそこに在るだけにも見える。
雅火咲良は僕の目の前で立っているというのに、僕の知っている幼馴染みがそこにいる感覚が全くない。
もし僕が桜火を食うことに失敗すれば、以前のように半神半人の右腕だけが大やけどを負う。
いや、もしかすると僕の精神まで燃やされて、魂を失った廃人になるかもしれない。目の前の咲良のように。
だが、所詮その程度。
もとより僕は死んでしかるべき命であり、諸悪の根源でもある僕が唯一、役に立てることなのであれば。
やる価値は、十分にあるじゃないか。
「咲良」
呼びかけに応答はなし。しかし、彼女は一歩、僕へ歩みを進めてきた。
まるで従順な犬のように応じた彼女に、少々面食らう。
本当なら、飛びかかられてもおかしくないと、危機感で身構えていたからだ。
だが、意識はなくとも反応を示すというのは、前に森の中で出会ったときと比べたら比較的ましなように思える。
いや、もしかすると逆に、咲良の体組織にまで働きかけることができるぐらい、桜火が知性を浸食しているという可能性もあるかもしれないが。
どちらにせよ、「前回とは違う」ことが分かったのは、次にするべき行動を決める決定的な要素になり得る。
警戒しながら僕も進み、一歩ずつ咲良と距離が縮まる。たった数歩、早歩きすれば一瞬の間合いを数秒かけて狭める。
どくどくと心臓の脈が脳天の方にまでのぼってくる。緊張のせいで鋭敏になった感覚が、踏み込む足の裏についた砂粒ひとつひとつの擦り音を明瞭に聞き取ってしまう。
右腕を餌にする。
半神半人の腕を盾に掲げて、一番食いつきやすいように見せびらかしながら、語りかけた。
「咲良、遠慮なく食え。僕も、遠慮しない」
一歩、また一歩。お互いの体が触れあう直前の間合い。
体を前のめりにするだけで触れる距離間で、咲良はぴたっと立ち止まった。
右腕だけが妙に痛い。ちりちりとした焦げ臭さを間近で感じて、肌全体に脱水感が広がっていく。
まさにいま、目の前で食われている感触。燃やして焼いて燻らせて、灰燼に帰させられるような悪寒。
だが、もっとだ。
もっと出てこい、もっと前のめりになってこい。
もっと欲しろ、もっと僕を燃やそうとしろ。
際限なく、止め処なく、欲望のままに蜿蜒と。
大好物は目の前だ。出てこなくていいのか?
ふわりと、桜の香りが舞った。
それがこいつの、桜火が出現する瞬間かと思って身構えたが。
「みなと君」
僕の名前を呟いたのは、目の前にいる怪異。
怪異に呑み込まれている人間が、幼馴染みが、ゆっくり目を閉じながらささやいた。
「大丈夫、ごめんね。嫌いなんて言ってごめん」
のったりとまぶたを開いた咲良の目には、光が灯っていた。
それは炎でもなく、陽炎でもなく、蜃気楼でもなく。ましてや桜の花でも火でもなく。
生気を宿した眼で、僕の掲げた右腕越しに目線を合わせてきた。
「お、お前……自分で戻れるのか……?」
「分からない。でも、なんとなく、みなと君に呼ばれた気がして」
彼女はゆっくりと僕の右腕に、人差し指の先をぴたりとつける。
半神半人の腕は、燃えなかった。
火を間近で浴びていたような熱さもいつの間にか消えていて、焦げ臭さも桜の匂いも風にのってどこかへ消えていた。
桜火は、もういなかった。
「うん、よかった」
安堵したように言ったと思ったら、咲良は僕の右腕を抱え込むように抱きついてきた。
何も危険なことはない、と自分の全身で表現するように、証明するように。
「大丈夫、大丈夫だよ。私は、みなと君を燃やさない」
僕のことを心配するように言う咲良の声は、か弱く震えていた。
大丈夫。その言葉が意味するところが、僕への慰めではなく、自身への暗示であることに僕は気付く。
桜火を一番怖がっていたのは、僕でも姉さんでも巴さんでもなく、咲良自身であったのだろう。
化け物に取り憑かれていたとはいえ、幼馴染みに大火傷を負わせてしまったことを、悔いていた。そして畏れていた。
夢遊病状態がいつ再発するかなんて彼女には分からない。知りようがない。
だから、そうであったからこそ、彼女は自分を律することができた。
自分の中に眠る怪異を、己の意志で、ただ己の精神力だけで。
未知の者、化け物に本来抱くべき感情である「恐怖」を忘れていないから、咲良は桜火を抑え込めた。
それは、咲良と僕の違いを示す、当たり前の事実だった。
僕の腕にかかる力が増した。
膝が震えて、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に拒んで、どうにか立ち続けようとしている咲良。
嫌ってもおかしくない男の体にすがってでも、絶対に座ってはならないという意志の現れだった。
怪異に取り憑かれていた状態から、自力で正気に戻れるなんて、咲良はかなり規格外な人間のようにも思う。
それでも、彼女はやはり人間であり、恐怖を無視できる精神までは持ち合わせていなかった。だから、安心した。
「やっぱすげえよ、咲良は」
腕に力を入れて、彼女の腰に手を回し、もたれかかる咲良の姿勢を安定させる。
彼女はいま、人の手を借りなければ立てない。そういう言い方をすると、僕がまだ人間であると思い込むだけの、都合の良い解釈に使ってしまっているようで忍びないが。
「仕事を減らしてくれてどうも。だけどお前さんの罪までどうこうなるわけねえがな」
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