リビングに戻り、コーヒー豆を戸棚から取り出し、手挽きミルに入れる。
こりこりこりと、リビングに豆の挽く音だけが響く。無心になりながら音を楽しむ時間は、思考の安らぎも与えてくれる。
二人はテーブルに座って、静かに待っている。険悪な空気こそ消えてはいるが、居心地は悪そうだ。
そんな二人を見ながら、先ほどの問答を思い返す。
巴さんの言ったことは至極真っ当だった。
僕がミズチと取引をした時点で、まともな人間にはもう戻れないようなものであり、真っ当な人生を送ることは難しい。
だがそれでも、神と取引をするにあたって、全く覚悟をしていなかったわけでない。
沸騰した電気ケトルのお湯を三つのカップに注ぎ、温めている間に、挽いた豆をペーパーフィルターにさらさらと入れる。
サーバーとドリッパーの準備が完了したら、優しくお湯を注いで蒸らしていく。
挽きたての豆から、芳醇で深みのある香りが部屋の中へ広がっていき、巴さんが反応を見せる。
「あ、それもしかして」
「うん、巴さんの好きな銘柄だよ」
「そっか。まだ置いといてくれたのか」
「姉さんがよく飲んでるんだよ」
コーヒーは鮮度の劣化が早く、さすがに五年も持ちはしない。
だから、巴さんの飲んでいた銘柄が残っているのは、今も買っている人がこの家にいるからだ。
「結奈、お前コーヒー嫌いって言ってなかったか?」
「……好みなんて、数年経てば変わるわ」
と、姉さんは強がっているが。
ある意味、このコーヒーは姉さんにとって叔母との思い出でもあったのだろう。
実際、姉さんはコーヒーが昔は嫌いだった。
昔というのは、三人で暮らしていた頃であり、姉さんが中学三年生の時だ。
まあ、もしかすると反抗期の側面もあったのだろう。
保護者である巴さんの好きな『コーヒー』に、理由なしに反発したくなる時期だったのかもしれない。
だがそれでも、家から出て行った巴さんが残したコーヒー豆をそのままゴミ箱へ捨てるというのも忍びなかったのか、僕と一緒にミルの使い方や、丁度いいお湯の温度や注ぎ方を勉強して、それなりに美味しく淹れられるようになった。
その勉強の過程で面白さを見出し、コーヒーを淹れる作業は気分が落ち着くこともわかってから飲むようになったと言ってはいたが。
今でも、姉さんがコーヒー豆を挽いて淹れる時の表情は、何かを懐かしむように安らいでいる。
まあ今日に限っては、その役を僕が務めることになってしまって、申し訳なさを覚えたりもするのだが。
淹れたての湯気が立つコーヒーを二人の前に差し出すと、銀髪色白の彼女らの目は輝く。
表情こそ変わらず、冷静を装っているように見えるが、今にも飛びつきたそうにしているのが家族である僕はわかる。
こういう小さな共通点は、血の繋がりが感じられるなあ。
いただきます、とほぼ同じタイミングで言い放った二人は、同時にカップを手に取る。
というか、お茶請けを忘れていた。
本当ならお菓子はお茶の前に出すのがマナーらしいが、来客自体が久しぶりですっかり失念していた。だが。
「ああ、そうだった。二人ってお茶請けはいらないんだよね」
「そう、飲み物だけでいい」
巴さんがいつもの男らしい口調より、ずっと柔らかい声色で言う。
かなりリラックスしている。というか、自分の好きな銘柄を飲めて喜んでいるみたいだ。
僕は四人掛けのテーブルで巴さんの隣に座り、カップに手をつけてこくりと飲む。うん、姉さんほどではないが僕も腕は落ちていない。
「帰ってきて、よかったな。このコーヒーを飲めただけでも、うん」
「そんな、今生の別れみたいな重々しいセリフで飲むことある?」
「はは、職業柄いつ死んでもおかしくないからな。その日その日を大切に生きるんだよ」
「……まあ、それに関しては激しく同意だけど」
いつ死んでもおかしくない。
巴さんの言う物騒な心構えは僕にとって、あまりにも心当たりがあるというか、心の臓に当たったというか。
実際に心臓を貫かれて死にかけた僕からすると、そんな戒めを今更考えられることが奇跡であるぐらいには、大事な心構えだ。
「しかしさあみなと、ミズチと取り引きなんてお前よくやったなぁ?」
「まあ……あの時はあれしか手段がなかったから」
「結奈を守ったのは偉いというか、あたしも褒めたいぐらいだけどさ。逆によく応じてくれたよな。お前何をしたんだよ?」
ん?
取引に応じてくれた?
まるでそれは、取引の席に立つこと、交渉の席に持ち込むことすら難しいような言い方にも聞こえるが。
「ええっと、なんか、姉さんを守りたいって思ったら、協力してくれたっていうか……」
「そんな陳腐な理由でか? あのミズチが?」
「まるで巴さんはミズチを知ってるみたいに聞こえるんだけど」
「もちろん知ってるぜ、なんせあいつの鱗は戦争の――」
「叔母さん」
「誰がおばさんじゃこら」
姉さんの横槍にワンコンマの遅れもなく反応する巴さん。
周りがこの人を止める時には「おばさん」と言えばいいと理解できるぐらい、鉄板ネタだ。
こすりすぎて、多分摩擦熱で少しぐらい歪んでいそうな鉄板だろう。
「それ以上は、やめましょう。まだ時期じゃない」
「……まーそうだな。これはあたしが悪かった、というか止めてくれてありがとうな」
「いいえ」
二人は、大人の事情で話している。
本当なら聞きだしたいが、このタイミングで団結してしまった二人を突き崩すのは、氷山を突き壊すのと同じぐらい厄介だろう。
「……二人に隠し事をされたのは寂しいけど、でもそれが僕を思ってのことだったのなら、それは仕方ないんだろうね」
「……違うの、私のはそんな殊勝なものじゃなくて……あなたをこれ以上巻き込みたくないから、隠しているだけなの」
「僕は人としての道を踏み外したことを、後悔はしてないよ。いや、ミズチの戯言を相手にするのが面倒だとか、そういう細かい鬱陶しさが全くないわけでもないけれど……。でも僕は、姉さんを守るためにこの力を得たんだし、そこらへん、取引をした時に人生が転がる覚悟は決めていたからさ」
「……私のせいで人外になってしまったのに、あなたはそう言ってくれるのね……」
「言ったじゃないか、姉さんと離れる方が辛いって。僕はむしろ、あちら側になれたことでもっと姉さんとの距離が縮まって、嬉しいぐらいだよ?」
それに巴さんも、と言ったら、隣で聞いていた本人は鼻で笑った。ひどい人だ。
「家族の二人が今まで秘密にしていたことを知れて、まあ不謹慎かもしれないけど、僕はちょっと嬉しいよ」
「それは不謹慎じゃねえよ、頭おかしいっていうんだ」
「はは、巴さんは相変わらずストレートだなあ」
まあ、三人で暮らしていた頃も姉さんが普段は甘やかしてくれていたから、巴さんの厳しさは父親のようで、バランスのとれた飴と鞭でもあった。
僕にとって、彼女らは第二の母と父みたいな人で大切な家族だ。いや、母に関しては第三、むしろ第四か……?
「はあ、しかしまぁ、変わっていなくて安心したぜ。あたしはみなとが少しでもあちら側に寄っていたのなら、殺すのも仕方ないとか思ってたんだがな」
巴さんは、物騒なことを言いながら結った髪の先をくるくるといじる。
「巴さん、あなたも変わっていないようで何よりだよ。嘘をつく時に髪を触る癖は、変わっていないね」
「チッ……観察力だけはいっちょまえになりやがって……」
腰まである長い銀髪をポニーテールにしているのがデフォルトの巴さんだが、嘘をついている時、手持ち無沙汰を紛らわすように触る癖がある。
昔、ふとした時に発見した癖だったが、それは彼女が「本音を嘘で隠している」時にする癖なのだと、姉さんから教えてもらったのだ。
今も変わっていないところを見るに、巴さんも根っこは昔のままだ。
そんな事実に、嬉しくもなる。怪異と関わっている秘密を知った上でも、人柄が変わるわけではないのだから。
「まあそうだな、あんまり長居するのもよくねえし、コーヒーの礼ぐらいはしなくちゃあな」
そう言って、巴さんはおもむろに竹刀袋へ手を伸ばした。
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