いいアイデアというのは、お風呂で思い浮かぶものだ。
いや、別に誰かがいった格言やら名言というほどのものではない。
むしろ誰もがそう思っているからこそ、取り立てて明言する必要がないと言う方が適切だろう。
人体の構造からいうなれば、お風呂に入ると血流がめぐり、脳の回転もよくなり、しかも体を洗い終えるまではひとりの空間に閉じこもるため、考え事がしやすいのだろう。
だからこそ、考えに行き詰まったりしたときは適度な休息が必要だという教訓とも受け取れる。
それが人によっては運動であったり、読書だったり、ゲームだったりするだけであって。
僕の場合、じっくり考えるのに必要な手段は消去法でお風呂になっただけである。
気軽に外へ出てはいけないから。
しかも、夜になったら出歩くのはなお危険だ。
怪異やら異形やらは、夜行性が多い。
それは、夜が好きだからではなく、夜になると人の気配が静まるから。
だがまあ。
手早くシャワーで済ませず、わざわざ湯船にお湯をはり、じっくり熟考することになったのは、原因がある。
時間は、夜18時ぐらいまでさかのぼる。
日が落ちて空がほぼ夜となったころに、戸牙子は本調子を取り戻し、吸血鬼の翼を開くことができるまで回復した。
お昼から夜まで僕たちが何をしてたかといえば、BLの語り合いだった。
戸牙子は説明も上手で、しかも情熱がすさまじいため、圧の強さに押されるまま、僕は男同士の世界の良さをほんの数ミリ理解できたと思う、多分。
「ありがとう、みなとの言うとおり、今日は早く帰って体を休めるわ」と、忠告を素直に聞き入れてくれたぐらいには、僕たちの仲は初日より良くなったと言えるだろう。
しかし。
今、湯船に浸りながら悶々と考え込まないといけない出来事は、戸牙子が帰ったあと、僕が土足で汚してしまったリビングの床を掃除している時に、起きた。
「あれ、どうしてこんな靴で上がったみたいに汚いの?」
そういったのは、二階の自室から降りてきた姉さんだった。
「え、どうしてってまあ……僕が急いでたから」
「そんな急ぐことあったの? 土足で上がるぐらいに?」
「え? いや、あったじゃん。戸牙子が倒れたから、靴を脱ぐ暇すら惜しくて」
「とがこ? 誰?」
「…………」
僕の姉さん、神楽坂結奈は質の悪い冗談を言う人ではない。
場を和ます程度、もしくは僕と楽しく会話する程度の優しいジョークぐらいはこなせるが、人の存在自体をなかったことにみたいな、悪趣味な冗談を言う人ではないことは、僕が一番知っている。
だからこそ。
僕は、この時点で予感した。
直感的に、推測できてしまった。
『人の記憶に残らない』
『気付かれても、興味は持たれない』
『あたしをわかるのは、みなとだけ』
ハーフヴァンプの言葉が頭の中で蘇る。
それを聞いていた時、もやもやと抱いていた違和感と共に。
いつの間にか忘れられていて、認識の外にいる。
ふわふわと、そこにいなかった者として扱われ、消えている。
霧のように。
「……姉さん。たしか、仕事っていうのは最後まで責任を持つってことが、一番大事なんだよね?」
「ん? 急にどうしたの?」
「いや、虹羽さんから口酸っぱく言われたことを思い出してさ。『自分の受け持った仕事は、確実に最後までやり遂げたうえで、その後の責任もきっちり自分が持つ』って」
「そうね。仕事で特に大事なのは、事後処理の方だったりするわ。自分が周りに与えた影響を、きちんと管理して問題がないかどうかを調査する。私たちの組織では一番重要なことよ」
「……そっか」
なら、きっとこの件に関する事後処理は、僕がするべきことなのだろう。
昔は神社があったのだろうと推察できる田舎の山奥で、僕が杭を引き抜いた日と、戸牙子が外に出られるようになった日は一致する。
あの日、僕がとった行動によって、山査子戸牙子の身のまわりに影響を与えてしまった可能性は高いのだ。
それを調査するのも含めて、これは僕の仕事だ。
「……姉さん、ごはんは作っておくから、今日ちょっと出てくる」
「え、出ちゃうの……?」
「そんな寂しそうな顔しないでよ……心が痛いじゃん……」
ここ最近、僕と姉さんはほぼ毎日、同じベッドで寝ているのだ。
もちろん、やましいことはなく、ただの添い寝ではあるが。
「ちょっと、やらないといけないことがあってさ」
それだけで、姉さんは僕の覚悟を察して、嘆息をつきながら笑った。
そのあとは、床掃除を手伝ってもらい、晩御飯のチーズインハンバーグを作って、僕は身を清めるためにお風呂に入った。
柑橘系の入浴剤で黄色に染まっている湯船のなか、僕は考える。
考える人のポーズをとって、熟考する。
今回、戸牙子が外に出てこれるようになったのは、何が原因なのか。
そもそも、彼女はなぜあの地域に囚われているのか。
なぜ僕は彼女のことを忘れないのに、姉さんは忘れてしまったのか。
正直、答えに導けるだけの情報が少ない気はしている。
戸牙子の住んでいるあの一帯に足を運んで、判断材料になるものを集める方がいいとは思う。
けれど、現時点で分かっていることは一つある。
鬼桔梗と呼ばれる存在のことは、間違いなく戸牙子だ。
神社の名前や地域の名前ではなく、彼女本人が、『鬼桔梗』なのだ。
虹羽さんが言ってた、「鬼桔梗と呼ばれる領域」の話から特定の地域、あるいはエリアを考えていたわけだが。
あれはむしろ、戸牙子を中心としたエリアである――と考えるのが適切だろう。
だって、普通に考えてみれば僕より圧倒的に強い姉さんや、虹羽さんですら忘れてしまうような事柄なのだ。
それをなぜか僕だけは忘れていない。
つまり、何かしらの条件が成立している。
忘れない条件。
一寸先まで見えない濃霧を見分けられる、特殊な状態。
もちろん、刺さっていた杭を交換したのは僕だったわけだから、もしかするとそこも条件に含まれているのだろう。
けれど、ここはやはりというか、おかげというべきなのか。
僕の中にいて、力を貸してくれた神様である、彼女のおかげだ。
特殊な状態であるのは、むしろ僕の方だ。
霧の中でも心の目で視界が晴れ、毒の霧すらも全く効かない血清持ちの体。
神眼と、神血。
半神半人の力は、二日ほど続く。
今日は二日目の夜であり、明日の朝には残りかすともいえる力も、霞のように消えているだろう。
だから、『覚醒状態』という条件を変えずに現状を分析するタイムリミットは、今晩だ。
ちなみに、一応神様の尊厳も考えて僕は今の状態を、彼女の名前をお借りして『ミズチモード』と呼んでいる。
当の本人は、このネーミングに不服らしいが。
ざぶりと、勢いよく湯船から立ち上がる。
波打ったお湯が湯船からこぼれ、柑橘の香りが流れていく。
「ミズチ」
「なんじゃ」
呼びかけるとすぐさま、彼女は青く透明な精神体でふわりと現れる。
一糸まとわぬ姿で湯船から上がった、僕の裸体を気にすることもなく。
着物の上にケープを付けた姿は、まさに日本の神様といった感じだ。
頭に龍のような曲がりくねるツノが二本生えていること以外は。
「今から追加で姉さんの血を吸ったら、半神の力は延長される?」
「やめておけ、と言っておかなければ、わしは結奈にまた脅されるのぉ」
「あ、やっぱりだめなの?」
「ただでさえ力を使い過ぎなんじゃよ、お前さんは。使うたびにお前さんの体がわし寄りになってしまう危険というのを、まだ実感できておらんのか?」
僕の体は、かなりアンバランスな状態で成り立っている。
神様であるミズチが乗り移っているわけだが、その割合は常に半々というわけではない。
もちろん、ミズチモードになって神としての割合を高めれば、神力を行使することは容易いが、その分拒絶反応も起こりやすい。
僕の中に眠っている、小さな狂気の閃光。
言ってしまえば、他人の臓器を移植した時に起こる拒絶反応が、僕にとっては神力の暴走でもある。
そのラインを超えないように、覚醒状態になるのは計画的にしなければならない。
「ここでわしがお前さんをたぶらかして、『もっと血を吸え』とでも言ったことが結奈にばれたなら、想像もしたくないの……」
「そんなになの? ミズチって一応結構強い神様なんだよね?」
「わしは今お前さんの体にいるからな。どこまでいっても『結構強い』で止まるんじゃよ。全盛期のわしならまだしも、お前の姉は一騎当千天下無双じゃしな。今のわしが敵うわけないのじゃよ」
神はいつだって人間に殺されるものじゃ、とミズチは付け加えた。
「そうか……じゃあ神力の期限は、明け方までかな?」
「その程度じゃろうな。ま、節目になったらわしも教えよう」
「協力的で助かるよ」
「気にするな、わしはお前さんに惚れておるんじゃから」
ではの、といってミズチの体は元の形だった水へ還るように、湯船に消えた。
小手先の時間伸ばしは通じない。
なら、急がないと。
風呂から上がり、最低限の荷物だけ鞄に詰め込み、虹羽さんからもらったネックレスと姉さんから譲り受けた腕時計を忘れずに、夜の街を駆け抜けた。
忘れてはいけない、吸血鬼のために。
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