「ある日、玄六さんが傷だらけになって帰ってきました。いえ、いつもいざこざに巻き込まれやすい性格というか、体質ではあるのですが、特にその日はひどい傷でした。
「意識を保つのすら危ういほど重症の彼を介抱していると、そんな傷の痛みなんて感じていないような冷たさで、彼はさらりと言ってきたのです。
『六戸、霞。お前ら、そろそろこの家から出ていけ』
「あまりにも、悲しい宣告でした。数年近く、家族として一緒に暮らしてきた私たちには、死刑宣告にも等しいほど。
「けれど、意味は分かっていました。玄六さんが標的にされるのは、彼が人外に力を貸すという、疎まれやすい行動をしているからだけではなく、私たち鬼を匿っていることが知られているからです。
「家までは尾行されなくても、外に出てしまえば小突かれることが常でした。そんな彼とどうすれば一緒に暮らしていけるかを必死に考えました。
「そこでふっと思い浮かんだのが、六戸の性質でした。玄六さんが狙われるなら、彼も私たちと同じ霧の術式に包んでしまえばいいのではないかと。
「提案をしてみましたが、『俺は人間として死にたいんでね。人外もどきになるのはごめんだ』と、あっけなく却下されました。
「それからは何度も何度も、家族会議でしたよ。喋るのは私と玄六さんだけなんですけど、喋れない六戸も立ち会っていました。家族の話なんですから、当然ですけどね。
「良い線をいったのは、『三人で放浪生活』と『人間の組織を滅ぼすこと』でしたが、どちらも最終的に却下されました。いつまでも甘えている私たちを自立させたかったのかもしれないのでしょうけど、頑固な人でしたよ、本当に。
「口喧嘩に発展するほど話が平行線で進まなくて、しびれを切らした私は、行動に出てしまったんです。
「家を守っている霧の術式を、『個に付けられる結界』にすることを。
「霧術に長けているのは六戸ですが、吸血鬼の私も隠れることは得意分野ですからね。闇夜に消える帳の術と、霧に微睡む鬼の才を組み合わせることで、効果は狭くなる代わりに、非常に限定的でなおかつ特定の個人を認識から消してしまえる特殊な魔術ができるかもしれない。
「思いついてから、すぐ六戸に話しました。玄六さんと離れるのが嫌という気持ちは、一緒でしたからね。六戸は私の策に頷いてくれて、術式を完成させることに奔走しました。
「そして出来上がったのが、『夜霧の帳』という魔呪です。
「ですが、私と六戸の合わせ技が完成しても、それを玄六さんに付けるとなると難しいものでした。鬼と吸血鬼が己を隠す技は自分を守るためのものであって、人間の彼に植え付けることまではできませんでした。
「しかし、もしこれがとある何かを起点に、‟契約”として成立するものだとしたら?
「仮に、玄六さんが取引として承諾するのなら、契りとなってひものように繋がります。けれど、彼は人間としての道を踏み外すことはしたくないと言っている。
「幾度も家族会議をして、一向に折れない人は聞く耳も持たないだろうと、私たちは秘密裏にことを進めました。
「ところで、知ってますか神楽坂くん。吸血鬼にとっての吸血行為は、ただの栄養補充ではないことを。
「吸血は、“契り”の行為なんです。私たち吸血鬼が現世でふわふわと消えてしまわないために、何かと結びついて離れないようにするための、生命維持の口づけなんです。
「人はひとりでは生きていけないと言いますが、それは私たち怪異であっても同じなんですよ。ひとりやひとつで完結できるなら、多種多様な生命なんて必要ないですし、もともとそういった形の在り方である、神様よりも上位の存在なら、きっと今の世界にはいないでしょうし。
「……つまりですね、私は『夜霧の帳』を、無理やり玄六さんに植え付けるために、彼に吸い付いたんです。
「彼を抑えつけて、がぶりと。もちろん本気で抵抗されましたよ。私の体は、今寝ている六戸並みにぼろぼろにさせられました。やはり恐ろしいものです、人間というのは。白式があるだけで、本当に誰でも怪異を半殺しにできてしまうのですから。最悪の相性です。
「けれど、なんとか。本当に数秒ではありましたが、無理やり吸血をして玄六さんに『夜霧の帳』を植え付けました。結果だけで見るなら、成功しました。術式は完全に玄六さんを包み込み、彼の存在は霧に消えるように、曖昧なものへと成り代わりました。
「その代償に、戸牙子を産まれ落として。
「帳が誤作動を起こしたのです。いいえ、誤算と言う方が正しいです。私たち“怪異”は信仰や契約に基づいて自分の存在を保ちますが、物理的な肉体がある人間には、そんなもの必要ないのですから。
「私と六戸が作った『夜霧の帳』は、怪異用だったんです。人間用として考えて作れなかった。そこまで思考が及ばなかった理由が種族の違いだと言われるのなら、異種愛は夢のまた夢なのだと虚しくなります。
「人間だった玄六さんを、ヴァンパイアの私が吸血することは、種族の上書きです。『帳』だけを与えたかったのに、付与できなかった結果、玄六さんはその場から霧のように消えていなくなり、抜け殻のようにころりと、戸牙子が現れたのです。
「消えた彼を探しても、どこにも居ませんでした。そして、二度と出会うこともありませんでした。
「彼の存在を消してしまった。歪な子供を生まれさせてしまった。例えようのない絶望に打ちひしがれて、喋らない六戸と眠ったままの戸牙子の隣で、私は泣き続け、ずっとずっと泣いて、涙が枯れるまで一か月はかかりました。
「泣くことに飽きた頃、戸牙子はなぜか眠ったままだったことに気付いたんです。隣で私が大声で泣き喚いていたのに、ずっと眠っていたんですよ。
「それがおかしいことに気付いたから、泣き止んだのですけどもね。確かに戸牙子は見た目こそ十七歳ぐらいの姿で生まれるという、特殊な生い立ちをしてはいますが、生まれ落ちたのに目を覚まさないというのはおかしいです。
「だからこそ、何かしらのイレギュラーが発生している。異常事態であると同時に、彼女はどこか変だと。
「その時の私は、『寝ている戸牙子を起こせば、消えた玄六さんが帰ってくるんじゃないか』と仮説を建てたんです。ええ、ただの夢見がちな妄想でしたよ、それは。こうなってほしいという願望だけの仮説でした。
「けれど、戸牙子は全く起きなかったんです。それは当然ですけどね、私が傍で一か月近くわめき泣いているのに起きなかったんですから。叩いても揺すっても、ちっとも起きないお人形状態です。
「埒が明かなくて、一度外へ連れ出してみることにしたんです。ずっと家の中でしたから、外の空気でも吸わせてみれば何かしら変化があるのではないかと。
「落ち着きを取り戻してから改めて、眠っている戸牙子を抱えて外へ出ました。けれど、屋敷の周辺からさらに遠くへ行こうとすると、あの子の体だけが霧のように消えてしまい、いつの間にか家に戻って、すやすやと眠っていたのです。
「それを見て確信しました。戸牙子にも『夜霧の帳』がかかっていると。追っ手をはねのけて、元居た場所へ帰郷しようとする、私たちの願いを込めた術式が、皮肉にも正常に作動していました。
「可哀想で、しょうがなくなったんです。今さらだって思われるでしょうし、そんな母親じみた感情を抱くのが遅すぎるぐらいでしたが、それでも、娘のような子に、重い楔を抱えたまま生まれさせたことに、後悔してもしきれなくて。
「私は、戸牙子にかかっている術を解除するために、玄六さんを探す旅をすることに決めたのです。『夜霧の帳』は、肉体と精神の繋がりを使った術式でしたから、戸牙子にかかってるものを解いても、玄六さんが生きている限りまた再構築されてしまうので、意味がなかったんです。
「けれど、だからこそ。
戸牙子に帳がいまだにかかっているということは、玄六さんは確実にどこかで生きているとも言えたんです。
「一生をかけてでも、どうにかして戸牙子を外に出られるようにするために。すべての未練をなくすために、私はさらに自分の半身を戸牙子に分け与えました。眠ったままの彼女を起こすためだけに、私の不死性を捧げました。
「おかげで私は、全盛期の力も失いましたが、受ける罰としては軽すぎるぐらいです。六戸には、止められたんですけどね。そこまでしなくていいのではないかって。
「でもこれで、戸牙子はひとりでも生活できる。閉じ込められる生活であっても、生きていくことはできる。
「幸せな生活ではないでしょう。それでもいつか、彼女をあの霧の楼閣から連れ出すことができるのなら……。
「長くなってしまいましたが、これが戸牙子を捨てた非道の真実です。私は戸牙子に嫌われてでも、蒸発するようにあの家から出ないといけなかった。
「六戸は私が旅に向かう間、屋敷の裏山でひっそりと戸牙子を見守り続ける暮らしをしてくれました。彼女が何者かに襲われそうになったら、力づくでもさらって助ける覚悟だったようです。
「なぜ戸牙子を冷たくあしらったのか、ですか?
「……孤独であることは、慣れてしまえるものなんですよ。最初からひとりきりであれば、それが当たり前になって、孤独な生活にも耐えられる。普通だと思える。そうさせてしまった原因である私を恨んでも、その怒りが生きる活力にだってなるのですから。
「あの子には、どうにか解呪の手段を見つけるまで、生きてもらわないといけませんでした。苦痛で地獄のような日々であっても、生きていたら良いことはあるんだって思わせられる日が来るのなら、私が悪役になれば済む話です。
「これは、私が受けるべき罰で、償わなければならない罪なんです。
*
長い独白。
だが、聞く価値は十分あった。
いや、こうやって声にして、言わせる意味があったというべきか。
「神楽坂くん。もうここまで聞けば、私がどれだけひどい母親であったか、わかるでしょう?」
「……そんなこと、ありません」
彼女の懺悔を遮って、ここまで黙りこくっていたのを塗り替えるように、ずいと踏み入る。
「確かに、ロゼさんの起こした問題ではあるんでしょう。あなたが戸牙子を奇妙な呪いで束縛してしまったことも事実です。けどだからといって、どうして真実を伝えないんですか? 戸牙子だって、最初は困惑するかもしれないけど、でもきっと信じてくれます」
「………………」
「だんまり、なんてらしくないですね。さっきまで饒舌に自分語りをしていたのに」
「私には、母親の資格なんて無いの……」
「それはあなたが決めて良いことじゃない。良い母親であるかどうか以前に、あなたは戸牙子の母親であることは間違いない事実なんですよ?」
「だから、不甲斐ない母であったことだけ伝えてほしいのです……! 今さら、私が同情をもらう価値はないんです!」
「そうまで前準備をして、あなたは次に何をするつもりなんです?」
ローゼラキス・カルミーラ・ホーソーンに、問いかける。
必死に真実を隠し、嘘で塗り固めて、娘に嫌われ者として生き続ける覚悟を持つのは、なぜなのかを。
「……神楽坂くん、あなたはもしかして、わかるの……?」
「まあこれでも神様のなりそこないなんで、『場を整えている』異形を見ると、警戒しちゃうんです」
そもそも、僕がいまいるベッドやら、西洋の屋敷やらは明らかに人間界のものではない。
例えるなら、ノスリたち巨人族が暮らしている森の中のように、一種の異界じみた空間だ。
たしかに、王家の吸血鬼で千年以上生きているロゼさんなら、それなりの力は持っているのだろうが、それにしたって一個の吸血鬼が作り出す空間にしては、あまりにも出来すぎていて、広すぎる。
ひとつの国かと誤認するような、空気の広大さがあった。
「こんなとんでもない量と質を使った魔力空間、『異象結界』を作って、ロゼさんは戦争でもするつもりなんですか?」
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