六戸が何者かに襲われている。
虫の知らせならぬ、神の知らせ。
神の警告ならぬ、神の啓示。
ミズチは冗談も言うし、酔狂な神様ではあるけれど、普段の薄っぺらい雰囲気とは違う、真に迫る物言いに、僕はどうしようもなく不安を覚えた。
警告の真意を確かめる間も作らずに、僕は六戸のもとへ全力で飛んだ。
たとえ心のどこかで助けを求めていても、「助けて」と言わなければ、周りは気づけない。
そうなのだとしたら、失語症の人は?
言葉を発することができない人たちが助けを求めるためには、周りが気づくしかない。
叫び声もあげられない人を助けるためには、半歩どころか、一歩踏み出さないといけない。
たとえそれが、余計なお節介であったとしても。
だからミズチは「褒美」と言ったのだろう。
神からの施しを受け取るのも受け取らないのも、お前の自由だと。
六戸がピンチである情報だけ教えて、あとは好きにしろと。
ミズチはきっと、僕がどうするかなんてとうにわかりきっているはずなのに。
それでも、選択する権利を与えた。
人外である六戸のもとへ駆けつけるのか、知らないふりをするのか。
決まっている。
友達のお兄さんを、見殺しになんかできるか。
「六戸!」
朝焼けが空に広がり始めているなか、複数の敵に滅多斬りにでもされたような切り傷が、六戸の全身に走っていた。
もとからぼろぼろだった和服は、もはや服としての機能もないほど擦り切れている。
よろよろと、ふらついた足取りで何かから逃げるように、白い霧を撒き散らしながら歩いていた彼は、僕の呼ぶ声すら聞こえていないようだった。
「六戸っ! 僕だ! みなとだよ!」
彼の露出した上半身に触れると、殺気が目の前を切る。
間一髪、危なかった。一瞬でも引くのが遅れていたら、僕の脳天は霜に覆われた地面に転がっていた。
六戸の抜いた手刀は空気を切り裂き、あたりに爆音が広がる。
攻撃が届かなかった驚きか、彼はようやく僕を視認し、赤く鋭い目と見合う。
「だ、大丈夫! 当たってない、避けたから! というよりどうしたのさ! 誰にやられたの!?」
「落ち着けみなと、わしが通訳してやる」
そういってミズチが六戸の目元に近寄り、見つめ合う。
彼は一体誰に襲われたのか、どういった攻撃を受けたのか。
鋭利な刃物で切ったようにも見える切り傷だが、それにしたって傷の数が多すぎる。
そもそも、六戸は隠れることに長けているはずなのに、傷の数が異常に多い。
もし戦闘状態になったとしても、彼は分が悪いのなら霧のなかへ逃げることもできるはずなのだ。
ということは、たった一撃で、全身にこびりつくような大量の斬撃を受けたということなのか?
鬼であり、強靭な肉体をもつ六戸にそんなダメージを与えられる技が、あるのだろうか。
いや、それができる技は、ひとつしかない。
一瞬で、一秒もかからずに、対象を半殺しにできてしまうような、怪異特化の、怪異殺しの業。
「全く、えらく時間をかけさせよって。よもや半神半人が目印になるなど、思いもよらんかったなあ」
男の老人の、かすれ声。
なのに、朝を迎えて寝起きの人間が放った声にしては、あまりにも重い殺気をまとっていた。
戦場帰りの旧兵のような、厳かさ。
突然、ポツンと現れたブラックホールのような重さへ目をやる。
そこには、背中を曲げて杖をついた和装の喪服に身を包んだ老人が、鋭い眼光でこちらを見据えていた。
「鬼というのは、どこまでも厄介だ。勝負好きと言いながら奇襲で殺し、一騎打ちと言いながら勝てるときしか手を出さない。どこでもどこでも人間の後ろにくっつきまわる、汚らしい影者が。見つけるのに苦労したぞ」
「……あなたは、誰です?」
尋ねながら、老人の視線を遮るように僕は六戸の前へ出る。
「お前のことは知っておる、半神半人。虹小僧と白座に可愛がられている、人間もどきだとな」
「……虹羽さんと、姉さんの上司、ですか……?」
「ワシはもう船なんぞにおらん。古巣にまで顔を出すほど、暇ではない」
「方舟に、いたことがあるんですか?」
「何十年も前じゃ、お前の気にするところではない」
冷淡な返答と共に、かつんかつんと杖をつきながら近寄ってくる。
それにあわせ、僕も一歩踏み出す。
「……なんじゃ、小僧」
「あなたが何をするつもりか、お聞きしたく思いまして」
「そこに倒れている鬼を、退治する」
「それは、なぜ?」
「なぜもなにもない、鬼は退治してしかるべき者だからだ。ワシら人間にとっての仇であり、野放しにするべきでない者共を殺すのは、当然であろう?」
まるで、意志のない機械のような口ぶりに、理解のできない恐怖を覚えた。
「……鬼が比較的、怪異の中では退治対象になりやすいことは、僕も船のメンバーなので知ってます。彼らは自由奔放で、他人へ迷惑をかけてもすぐ逃げて、ふらふらと生き続ける者が多いということも」
「ならば」
「けれど、多いというだけです。九割の鬼がそうであっても、残り一割の鬼までそうであるとは限りません。少なくとも、僕はこの鬼のことをそれなりに知っていて、悪い鬼ではないと思っています」
「だから?」
老人は杖で僕を、正確には後ろで倒れる六戸をさし、軽蔑するように眉をひそめる。
「お前はある毒蛇が森の中にいて、しかしその中でただ一匹だけ『噛まない』という性質を持っていたとしても、見かけたら迷わず殺すだろう?」
「……野放しにすればいいと思います。蛇は臆病な生き物ですから」
「それを何度も繰り返して、噛んでしまう蛇まで野放しにし続け、お前の命が危険に晒されるとしてもか?」
「……彼は、違います」
「その違いが誰にわかる?」
非情な現実を突き詰めるように、老人は続ける。
「お前しかわからない違いを、誰が正しいと思う? どこぞの赤の他人が放つ主観な物言いと、学術的に証明されている大多数の『毒蛇』である事実の差を埋めることができるのか?」
「……訴え続けます、彼は恐ろしい存在ではないと」
「ばからしい、お前がそもそも人間ではないから、化け物の肩をもつのだ。欠陥まみれのできそこないを、それも人外を入れるなど。方舟も若いのがやるようになってから堕ちたものだ」
見下すようなため息をつく。
僕のことを受け入れてくれている、方舟のメンバーを蔑む言い回しに、ふつふつと怒りがたぎる。
「……あなたの時代と、今は違います」
「お前らのやり方が甘いだけだ。融和主義だか平和主義だか、気の抜けたことばかり。戦争を知らん奴がままごとをしているだけで、仕事をした気になっている」
「化け物と話し合うことは、あなたたちにはできなかったことです。昔の方舟は、ずいぶん頭の回転が悪かったみたいですね」
「……喧嘩を売っているのか?」
「失礼、名乗りを忘れていましたね。僕の名前は神楽坂みなとです。あなたの名前は、そうですか、篠桐宗治さん」
「……お前、神通力でワシの名前を。はっ、小僧が神の力に溺れているだけか」
「今回の件は、僕が受け持った仕事です、なのに後処理まで他人のあなたにお任せすることはできません。六戸……この鬼に関することは、僕に任せていただけませんか?」
「よく言う。お前の評価は聞いている。人外らに情を持つ、神のなりそこないめ。方舟はこんなやつを入れて、何をしようとしているのか、若造の考えることは分からん」
「篠桐さん、今回あなたが六戸を狙った目的、口外しないという契約でいかがですか?」
「……なにをいう」
神通力で読んだ篠桐の思惑を後ろ盾にすると、目に見えて動揺し始めた。
「残念ながら、人間風情には先を見通す力も過去を改める気概もないように思います。『異形を匿う人間を殺そうとした、抹消したい黒歴史』は、人間のなりそこないである僕が受け持つという契約は、いかがなものでしょう?」
「お前……誰にものをもちかけている?」
「答えろよ。人間と神の取引をしてやるって言ってんだよ」
きん、と居合切りでもしたような、硬質な金属が跳ねる音が響く。
老人は刀なんて持っていないはずなのに、それは杖から放たれた。
仕込み杖、か。
一見するとただの杖だが、その中にある刃から空気を切り裂く衝撃波が顔の横を通り抜けていった。
通り抜けた一閃で大樹が斬れ味の鋭い包丁で切った果物のように、あっさりと崩れ落ちる。
ただの威嚇にしては、あまりの威力だった。
この老人は、本気だ。
本気で、迷いなく、六戸を殺そうとしている。
「一歩も引く気はない、と受け取っていいのか、小僧?」
「交渉決裂だと受け取ることになるけど、いいのかな、老害?」
「……ふっ、ははは! ああ、もともと目障りだった半神半人も始末できるいい機会だ!」
まったく、やっぱりそれが目的だったか。
篠桐宗治の狙いは最初から、六戸を殺すことだけでなく、ついでに目障りな僕も始末できるだけの「理由」を欲しがっていた。
「杭を交換する」という依頼自体はおかみから引き受けたものだ。
きっと、これは篠桐が出した依頼であり、方舟の保護も監視もついている状態でおこなった依頼だったから、危険はなかった。
だが「六戸を守る」という行為は、鬼と神が起こす「人外同士の馴れ合い」になってしまうのだ。
つまり、僕の身勝手な行動を守る義理も意味も、方舟にはない。
いや、むしろあってはならないのだ。
方舟は「人間を守る組織」であり、僕を守る組織ではない。
鬼が人間の脅威となるなら、それを助けようとする半神半人もまた、人間にとっての敵となる。
だから。
これは、僕の個人的な問題。
『神様としての神楽坂みなと』として、立ち向かうべき壁だ。
「え、ちょっと、なによこれ……どういうことよ!?」
甲高い声が、空に響き渡る。
ばさりと、蝙蝠の翼を広げて浮いている彼女へ、視線が集まる。
それは、傷だらけになった六戸を見て、動揺を隠しきれなかった戸牙子の叫びだった。
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