見た目や内装は西洋の屋敷であるこの場が、特殊な結界術のなかであることを見抜いた僕に対し、ロゼさんは今まで浮かべていた悲痛な顔色を崩した。
「……神楽坂くんのその察知力は、神様譲りなの?」
「空間認識力、みたいなものが結構強くなるんですよね。僕に付いている神様ってヘビに近いんで。まぁここが『異象結界』であることぐらいしかわからないんですが」
「そうですか……」
「ロゼさん、あなたは国一つを守れそうなほど大きな結界を作って、何をするつもりなんです?」
うつむいたまま、彼女は沈黙する。
煮え切らない態度を崩すために、こちらから詰め寄る
「ロゼさんが実際にこれをどうするつもりなのかは、あなたの口から直接聞きたいです。存在するだけで抑止力として機能する、核兵器とかありますし、これもそういう使わないつもりの術式なんですか?」
「……それなら、そもそも作らないし、作っても捨ててます」
「じゃあ、これからあなたは、何かを滅ぼすつもりでいるんですか?」
「それを聞いて、君はどうするの?」
覇気が宿る。
語調だけでなく、彼女のまとっている空気が冷たく、色濃く、変わる。
カルミーラ家のことは、人間怪異図書館であるシオリさんから追加で送られてきた吸血鬼の資料を流し読みしていたから、少しだけ覚えている。
青血で冷血のカルミーラ。
最古の王で、最後の王家。
血統も歴史も純粋な吸血鬼が向けてくる威圧は、姉さんの絶対零度といい勝負をしそうなほど、物々しい迫力だった。
「私がもし、人間を滅ぼすなんて言ったら、君は私を殺す?」
「……さあ、どうでしょう」
「へ?」
気の抜けた返答のせいか、ずいぶんと素っ頓狂な声を上げて、彼女は目を瞬かせる。
「今の僕って神様寄りなんで、思考回路がちょっとこう、イっちゃってるんです……。人間という種族主観じゃなくて、自分主観で考えてしまうんで、まあ滅ぼすつもりならお好きにどうぞって感じです。あっ、ちなみに僕の姉さんは外してくださいね、じゃないと今すぐ殺しますよ」
「え、ええ……?」
「そんなもんですよ、自分の手の届く範囲の人の幸せを願うっていうのは。知らない他人にまで気を回せる余裕があるんなら、近い人にもっと愛情を注ぐみたいな、僕はそういう人間です」
「け、結構ドライなんだね……」
「身内には甘くべたべたになりますよ。それはロゼさんも一緒じゃないです?」
「……うん、そうかもね」
まとっていた毒気、ならぬ殺気は静かに消え入る。
お互い、殺し合うのは本意ではないということだ。
あまりのすごみに少しばかり手合わせをしてみたいと期待を膨らませてしまったのは、多分神側に寄っているせいだと信じたい。
「ふう……すごいですね、神楽坂くん。神様というのは本当みたいです。ここまで長時間の魅了に耐えきって、なお気が緩まないなんて」
「いえいえ、ロゼさんも本気じゃなかったでしょ。カルミーラの血って、奴隷として使わせる能力に長けているって聞いていたんで、僕もいつの間にかやられていそうでヒヤヒヤしてましたよ」
「奴隷という言い方はちょっと大げさですね。信仰に近い感じですよ、敬虔な信者といった感じで」
「実質奴隷ですよね」
「うーん……否定はできないですね……」
ミズチに受肉をさせて神寄りになってしまったから、僕は彼女が放ち続けた魅了の術に耐えきれたのだろう。
六戸の血を吸ったことで霧の性質を取り込んで、意識外から魅了させる使い方をするなんて、凶悪すぎる。
世が世なら、この人の天下になってもおかしくない気はする。
「チャームがかかれば、私の言うことを素直に聞いてくれると企んでいたのですが……正気を保てているのですから、これは私の負けですね」
「負けを認めたってことは、話してくれる気になりました?」
「ええと、どういう話が聞きたいんですか?」
「実際問題、これからどうするのか具体的なことですよ。本当に戦争でもするんですか?」
「……まず初めに、戸牙子と六戸を傷つけたその老人を殺します。絶対に許すわけがありません」
柔らかい表情をしていた彼女が眉間にしわを寄せ、本気の怒りをにじませる。
それはまさしく、子を想う母親の顔だった。
「そのあとは?」
「二度と手出しできないように、組織自体をつぶします。猛者を一人一人相手にするのは無理でも、私の積み重ねた生命力を爆発させれば、組織の中心核を消すことぐらいはたやすいでしょう」
「えーと、ちなみにさっきから『組織組織』って言ってるそれの名前を聞き忘れていたんですけど、なんて言います?」
「黒橡の方舟、です」
「……へぇ」
僕の反応に、彼女は不思議そうに首をかしげる。
「ロゼさん、マーキュリーコンビって聞いたことありますか?」
「え? ええと、お恥ずかしながら世俗に疎いので……。たしか最近、こちら側で暴れまわった姉弟の通称だということぐらいしか。けどそれがどうしました?」
「神殺しの銀弾、神楽坂結奈のことは?」
「さすがにそれは有名ですよ。方舟の最終人間兵器である虹羽ヤノと正面からぶつかっても倒れないという、化け物のような人間です。もし攻め込むとしたら、まず神楽坂結奈から落とさないといけないぐらいには……」
ふと、ロゼさんは何かに気づいたようにはっとする。
「……神楽坂? いや、でも……弟を守るのが行動原理だと聞いたことはあっても……怪異の弟がいるなんてことは……」
「他人の空似なら、よかったんですけどね。僕も、聞かないフリをすることにできれば良かったんですけど。でもまぁ」
右腕に鱗をまとわせる。
肩先から右手の先まで蛇が這い進み、人ではない腕に変貌していく。
「家族を殺すつもりだ、なんて目の前で言われてなんにもしないほど、僕は甘い性格じゃないんで」
鱗に包まれた右腕は、僕のイメージ以上に巨大化する。
蛇に腕はない。
だからなんとなく、右腕に張り付くこれは蛇の鱗ではなく、竜の鱗であることに気づいてしまう。
一瞬で肥大化したスピードの勢いを乗せて、吸血鬼の喉元をわし掴む。
「がはっ……!?」
完全に戦意の消えているタイミングの不意打ち。ロゼさんの抵抗は間に合わなかった。
竜の腕は指先に向かうほど大きくなり、爪一本だけでルビーの目はつぶせるほどのサイズに成り果てていた。
「ロゼさん、その神楽坂結奈って、僕の姉さんなんです。さっき言いましたよね、姉さんを殺すのなら容赦はしないって」
赤子の手を握るような優しさで力を強めるだけで、握りつぶされた動物のように呻き声をあげた。
人間感覚で力を入れただけなのに、最古の吸血鬼すら苦しむ膂力。
これが、竜の力なのか。
「僕は一応、方舟にも所属していますからね。ロゼさんの決意は、直球の宣戦布告でもあると受け取ってしまえるんですよ」
「ぐっ……それでも、私はっ……!」
ルビーの宝眼が、ぎらぎらと輝きはじめる。
戸牙子にもやられた、宝石の弾丸が来る。
「ママ! みなと! やめて‼」
廊下につながる扉が勢いよく開き、アメジストの眼を持つ吸血鬼が入ってくる。
それを確認した僕は、竜鱗の右腕を首から剥がしてロゼさんの体を持ち、ゆっくりと椅子に座らせる。
「ごほっごほっ……戸牙子、なんであなたが……? あの傷でまだ起きていられるわけが……」
「ねえロゼさん。僕の相棒であるミズチがどうしてこの場にいないのか、わかります?」
「え……?」
「基本的に僕のそばにいるはずの彼女がいないのには、それ相応の理由があるんです。後出しになりましたけど、ここまで言えば理解しやすいんじゃないですかね?」
「まったくのう、お前さんはいつもわしに難役を押し付けるのう? 赤子のように暴れまわって抜け出そうとするこやつを押さえるのがどれだけ大変か……」
へとへとになったミズチが、戸牙子に遅れて扉の先からよろよろと千鳥足で現れる。
「もしかして……全部最初から……!?」
「そういうことです。ロゼさんの話を、戸牙子に全部聞かせてました。扉の先で」
「……私の異象結界の中なのに、どうして気づけなかったの……!? いや、まさかそんな……神楽坂くんが異象結界で上書きしていたの……?」
「僕では無理なんで、ミズチにやってもらったんです。まあ、気付かれる可能性もあったとは思うんですけど、だとしてもあとで僕が戸牙子に真実を言えば良いかなって目論んでいました」
「……入れ知恵があったとはいえ、食えない子ね……」
「ヘビはわりと食べれるらしいですよ」
びくっとミズチが跳ねる。
大丈夫、僕は共食いしないって。
「ママ……」
母を見据える戸牙子の顔には、複雑な感情が入り乱れている。
何を信じていいのか分からず、それでも目の前にいる母親の愛情が嘘ではないことだけはわかっているから、現実を受け入れづらいのだろう。
今まで信じ込んで、恨みこんできた親のことを今さらどんな目で見ればいいのかなんて、僕だってわからない。
「戸牙子、私をママなんて呼ばないで……」
「じゃあ……なんて呼んだらいいの? ロゼさん? 霞さん?」
「毒親の名前なんて、忘れなさい!」
「忘れるわけないでしょ!」
ぶつかり合う激昂が部屋を埋め、ロウソクの炎が揺らめく。
「ずっと恨んできた母親の名前なんて、忘れようと思って忘れられるわけないでしょ!?」
「なら、その恨みをいっそここで晴らして、殺してくれていいわ。あなたに合わせる顔なんて、私にはないのよ……」
「こっちを見てよ! あたしを見て! なんでずっと目を逸らすの!?」
剣幕のまま、直に目線を合わせようと歩み寄る。
けれど、ルビーの宝眼は娘を捉えず、たえず目線を逸らし続ける。
「娘なんでしょ! あなたの半身なんでしょ!? なんで見てくれないの! あたしを認めてくれないの!?」
「戸牙子、やめなさい。忘れた方がいいこともあるの」
「いやよ! さっき聞いた話が、本当なのか嘘なのか聞くまで、忘れない!」
「駄々はやめなさい。惚れた男の子の前で、みっともないわ」
「……は? はあッ!? 全然わかってないのね、ママは! あたしがこいつに惚れてるとか、解釈違いも甚だしいんだけど!?」
「……へ? か、かいしゃくちがい?」
うーむ。
雲行きが怪しくなってきたな。
脳内で僕の半身に語り掛ける。
『ミズチ、そろそろ六戸を起こしに行ってあげて。止め役が必要になりそうだ』
『神を顎で使いすぎじゃ、気を失っているやつを起こすのがどれだけ大変か知らんのか?』
『今度倍々チーズバーガーをサイドメニューフルコースでどう?』
『いってくるのじゃ!』
受肉させるよりファーストフードのメニューをおごらせる約束だけで取引成立するんじゃないのかな、この神様。
「よく聞いてよママ!? たしかにあたしはこいつに吸血させたけど、あたしがこいつに抱いてる感情はただの恋愛観とは質が違ってくるのよ!」
「え、そ、そうなの……?」
「あのね、恋愛観っていうのは時代毎に変わってくるのが常なの! 当然だけど、寿命がそれぞれ違う生き物なんだから、世代が変わるころには価値観も大きく変わっているのが当たり前で、一世紀前のものが通用しないことだってあるし、十世紀前のものが新たに再燃することだってあるの! 長生きしてるママならいろんなもの見てきたからわかってるでしょ!?」
「あ、そ、そうね……」
「異性恋愛が根底にありつつもタブーに触れるのはいつの時代だって張り詰めるような緊張感と好奇心が満たされるものなの! アブノーマルはノーマルがありえるからこそアブノーマルなの! そういう意味ではあたしみたいなアブノーマルの塊みたいな生き物がアブノーマルなみなとに抱く感情は古今東西どこをみても例をあげることのできない唯一無二の感情なのよ!?」
「あっ、えっ……ええと……戸牙子?」
「あたしの話を聞けぇ!」
「はいぃっ!?」
そうそう、これ。
戸牙子の情熱的な布教は、この「すがすがしいぐらいの押し付けがましさ」なのだ。
僕も一度、BLの布教の時に洗礼を浴びている。
とんでもなく早口でありながら、その圧力と熱に押されて頷くことしかできなくなるような、彼女の世界に勝手に惹き込まれてしまう自分語りの上手さは、もしかすると母娘相伝の魅了なのだろうか。
だとするなら、配信者としてなるべくしてなった、『姫』としての気質をもっているわけだ。
これが、才能ってやつか。
「ママ、そもそもからして異種恋愛っていうのは背徳領域がマックスまで到達したからこそ見えるエデンなのよ! その先にあるのは罪の楽園を新しく作り出すアダムとイブなのよ!」
「まって、わからない」
「男と女の差異がなかった世界に新しい概念を生み出した秘密の世界が、あたしのもつ感情なの! これが恋だとか愛だとかで片付けられるともう私は、言葉の限界に気付かされるのよ! なんて拙い、なんて情報不足! 多層的な感情を支配するためには言語にしばられてはいけないって気付くためにはやっぱり直接的なコミュニケーションが重要だと思うから、あたしは血を吸わせたのよ! これが恋だって言えるの!? ええっ!?」
「え、あれ、恋ってなんだっけ……」
「愛とは似ても似つかない感情よ! その場限りに見えて細く長い繋がりを失わない、好奇心だけをいたずらに刺激するような感情が恋なの! あたしがみなとにそんな感情をもっていたら、血を吸わせるんじゃなくて血を吸うわよ! けどそれはしなかったから違うって言いきれる! あたしはこいつに惚れてなんていない!」
「そうなの……? でもそれってもしかしてただの照れかく……」
「ママ」
「ひっ!?」
魂を震え上がらせるあのドス声は、古今東西どこを見ても彼女以上の猛者はいないだろうな。
母親ですらビビらせるんだから、怪異としても吸血鬼としても風格ありまくりだ。
「あたしね、分からない人には分からせるまでとことん突き詰めるの、諦めないの。だから、覚悟して」
「か、神楽坂くん! たすけてっ!?」
「ではでは、母娘お久しぶりの再会をお楽しみくださいね、僕はお邪魔なんで失礼しまーす」
廊下につながる扉を開けて、部屋から退散。
悲鳴を上げながら僕へ手を伸ばすロゼさんの眼から、ルビーの宝石がころころ落ちていた。
その後ろに、般若のような顔でロゼさんの肩を掴むアメジストの吸血鬼がいたのは、まぼろしではない。
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