青く光っていた小さな『何か』は、ざらりと爬虫類の鱗に似た感触をしていた。
それと同時に、ぬるりと浸食する触手のような声が脳に響き渡ってくる。
僕の中に入り込んできた声は、この世のものとは思えない不気味さと不穏さ、そして気持ち悪さを併せ持っていた。
電話越しどころか、ボイスチェンジャーを通したようにくすぶっているその音が、女の声だと判断することができたのが不思議なほど、不明瞭で不確かな感覚が僕の体に入り込み、異物感に吐き気を催した。
「うっ……!」
頭の中がグニャグニャと粘土を揉むようにねりまがり、一瞬で船酔いしたかのようにふらついて、青く光る『それ』を手で掴んだまま、膝をついてしまう。
今のは、なんだ?
いや、まず落ち着け。
とりあえず深呼吸して、気持ち悪さを落ち着かせてから……。
状況を整理するために四秒間息を吸い、八秒間吐く、ありふれてはいるがかなり効果的な精神統一法を試みる。
しかし、そんな対処法を行使する間もなく、突然張り裂ける爆音が部屋の中を襲った。
耳をつんざく、ガラスの割れる音が暗闇の室内に響き渡る。
「……!? な、なに!?」
朦朧としながらも新たな異常事態に引っ張られるように、音の発生源である寝室の窓へ目を向ける。
そこには、男がいた。男だと判断できたのは、日本人ではまずありえないような長身によるものであって、決して顔つきや体つきから窺い知れたわけではない。
なぜなら、その男は全身をすっぽり包む真っ黒なフードつきのマントに、ピエロの覆面を被っていたから。
「待ちわびたぞ、神楽坂結奈」
深く、暗く、憎悪に満ちた低い声に肝が震えて、冷や汗が背中をつたっていく。
男だと判断できたところで、緊急事態であることに変わりはない。
何かを盗みにきた強盗どころではない。
悪意と殺意を持つ、害をもたらす存在であることは、直感的に理解できてしまえた。
男は、ベッドで寝ている姉さんを視界に捉えている。
……寝ている?
一般人であれば、ガラスが甲高い音を立てて割れると「何があった」と自然に振り向いてしまうだろうし、なんなら飛び起きてもおかしくないはずなのに。
なぜ、姉さんは起きないんだ?
まさか。
睡眠を通り越して、気絶しているのか……?
「ふうむ、同胞がかけた呪いはなかなか強力だ。まさかあの銀の殺し屋をここまで弱らせるとはな」
髭を撫でるようにピエロ面の底に手を当てて、感心した風に言う。
同胞。呪い。銀の殺し屋。
聞き慣れない単語ではあるが、今はそれを気にしている場合ではなかった。
「……あんた、姉さんの彼氏って感じじゃないな。姉さんは間違っても窓を割って入ってくるようなヤンデレ男を選ぶタイプじゃないよ」
膝を付いていた状態から震える足を無理やり手で抑え、何とか立ち上がり、恐怖を打ち消すためにわざと威勢よく話しかけた。
喧嘩するとき、ビビってることを悟られないようにするのは鉄則だ。
今、眠っている姉さんをこの強盗らしき男から守れるのは、僕しかいないのだから。
「お前は?」
話しかけたことで、どうにか興味と敵意を逸らすことができた。
だが、次はどうする……。
警察に通報? それともここで一度気絶させるか?
いや、軽く世間話をふってみて何が目的か聞き出すか……?
「弟だよ」
「ほう……? なら、お前を殺せば神楽坂結奈は絶望に苦しみ、泣き叫ぶということだな?」
嗤っていた。
楽しんでいて、なのにどこか狂っているような声色だけで確信する。
頭がイカれたやつだと。
そいつはずいぶん大袈裟な啖呵を言い終わる前に、全身を覆う黒いマントから手らしきものを、外界に晒した。
その手が黒布から這い出た時には、すでに僕の心臓はえぐられていた。
「が、あああぁぁっ!?」
胸のあたりに一瞬走った激痛に手を押さえる。
しかし、そこに触れられる皮膚はなかった。
背中まで奇麗に貫通している空洞があり、真っ暗な部屋に血しぶきを散らした。
痛覚が仕事を忘れるような痛みに、先ほどまで朦朧としていた意識が今度は真っ白になりかける。
「みなとっ!?」
ガラスの割れる音でも起きなかった姉さんが、飛び起きた。
彼女の悲痛な叫び声のおかげで、ギリギリ飛びかけていた意識を引きずり戻される。
直後、暗闇の部屋にぎらりと銀色の火花が散った。
「おまえ、ころす」
それは姉さんの声ではあったが、僕のやんちゃを叱る時よりずっと重く、黒く、どす暗い声だった。
かちんと銃の撃鉄を引いたような音が鳴り、照明のついてない闇のなかで銀色の閃光が何度もきらめく。
「ころす、ころす、ころす……! 撃って、しばって、切り刻んで、血液を抜いて、心臓と肝臓と腎臓と眼球と歯を抜き取って、骨をこの手ですりつぶして、灰を誰にも悟られない宇宙へ撒いて、お前の存在を消してやる!」
怨念のこもった呪詛と共に、銀色の火花が何度も光り、銃声が部屋を埋め尽くす。
それなのに、直撃をもらっているはずの男はその場から微動だにせず、立ち尽くしていた。
目の前で、不自然な現象が起きている。
激しく何度も弾丸が撃ち込まれているはずなのに、着弾音がなかった。
防弾チョッキなどではなく、スライムのような流動する粘膜で衝撃を吸収して受け止めるかのように、部屋には銃の発射音しか鳴り響いていなかったのだ。
「どうした銀の殺し屋? 疲れで腕がなまってるのか?」
そういって、男はマントの中から手を這い出した。
僕の心臓をえぐったのと同じ動作と共に、がきんっと硬質なもので受け止めたような衝撃音が鳴り響き、姉さんの体は壁にすっ飛んだ。
「く、はっ……」
肺から空気を搾りだしたような声を上げ、どすりと鈍い音を立て、か細い体が床に倒れる。
「ねえ、さん……」
気を失ったのか、彼女は僕の呼びかけに応じなかった。
そんな僕らを交互に見下げて、男はまた嗤う。
「美しくつよい姉弟愛だ。だからこそ、壊しがいがあるというもの」
ピエロの男は嘲笑しながらこちらに歩み寄り、しゃがみこむ。
「なるほど、姉弟とは聞いていたが血の繋がりはないのか」
僕の顎先をくいと持ち上げる男の手は、血が通っていないような冷たさをしていた。
「……あんたは……なんなんだ……」
「俺か? 俺は化け物だ」
化け物。
冗談を言った風でも、遠回しに比喩を言った風でもなく、至極真面目な語調で男は言い切る。
「なにが……したかったんだ……」
「お前の姉、神楽坂結奈を殺しに来たんだよ。しかし、こいつには愛する弟がいることを思い出してな、憂さ晴らしだ」
憂さ晴らし?
僕を、痛めつけることが?
「なんで……ねえさんをころしにきたんだよ……」
「決まっている、こいつが俺たちの仲間を殺したからだ」
姉さんが……こいつの仲間を、殺した?
信じられない事実。しかし驚く僕をよそに、ピエロ男は呆れたように嘆息した。
「なんだ、何も知らんのか? なら知っておけ。お前の姉は暗殺者だ。俺たち化け物に手をかけ、金を稼ぐみじめで汚らしい女だ」
「そんな……わけ……」
「ないと言い切れるのか? 先ほど、お前は間近で姉の所業を見ただろう? 俺に呪詛を吐き散らしながら撃っていたあれは、銃だ。ただの一般人がこの平和ボケした日本で、銃なぞ持っているわけがないだろう」
それは、その通りだろう。
だが、それでも信じたくなかった。
自分の姉が、そんな裏稼業で金を稼いでいるという真実を。
だが、今明かされた衝撃の真実がまるで世間話であったかのように、男は語調を先ほどの憎悪から切り替えて、どこか興味深そうに僕に語りかけてくる。
「……ふうむ、なにやらお前は俺ら化け物と近いな、神楽坂結奈の弟よ。俺に手を貸すのなら、その空いた心臓の代わりを用意してやろう」
「な、なんで……」
「俺たちは今、仲間が不足してる。共に戦う同士とならんか? お前が仲間となるなら、身内に手を出すわけにはいかん。姉を守れるぞ?」
そう言って、息がかかるほど男の顔、ならぬピエロの面が迫る。
ピエロ面の穴から覗く男の目は、ゆらゆらと紅く妖しい輝きを放っている。
宝石のように輝く美しさに、じわりと浸食される感覚に陥る。
この勧誘は遠回しな脅しであり、なおかつ単純明快な二択だ。
こいつに付いていけば、姉さんは見逃してくれる。
その選択をしなかったら、僕はこのまま死んで、姉さんも殺される。
「……あんたについていったら……ねえさんは……」
「ああそうだ、手はかけない。今後一切かかわらないことも約束してやろう」
そうか。
それなら……。
『それなら?』
ふと頭の片すみで、どろりと絡みつく不明瞭な女の声が聞こえてきた。
それは、僕がさっき青く光る何かに触れようとして、急に入り込んできた声と一緒の色をしていた。
『だったら、おぬしはどうするんじゃ。こいつの言うことを信じてしまうのか?』
それは。
『ただの人間であるおぬしを、ためらうことなく手にかけるこいつの言葉に、信ずるものがあるのか?』
それは。
『お前の姉君に手をかけたこいつに、付いていってしまうのか?』
だったら。
君なら、どうするんだ?
『わしか? わしなら、愛するものを守るためなら、禁忌にも手をだすだろうな』
……そうか。
はは、それは、良いな。
家族を守るためにタブーにも手を出すとか。
かっこいいじゃん。
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