駆け込んだ風呂場に戸牙子の姿はなかった。
かといって荒らされた痕跡は感じられず、シャンプーやボディソープの入ったボトルや風呂桶が整然と佇んでいる。
しかし、そんな自然な空間で、ふたつほど不自然なものがあった。
ひとつは、木の床にころりと転がっているアメジストの宝石。
もうひとつは、切り傷を受けて血飛沫のように飛び散っている、紫色の液体。
前者の宝石は実際に僕も何回か見たことがあるし、なんなら脳天でくらったこともあるから見慣れている。
しかし後者は、本来なら紫色の液体だなんて毒か何かかと警戒しそうなものだが、ぼくが半神であるがゆえに、その本質を一目で理解できてしまった。
それは、毒なんかではない。
一目瞭然だった理由は、毒だからなどではない。
僕の神眼ではなく、僕の本能が見抜いてしまった。
異性のことを、小奇麗な見た目ではなく、奥底に秘されている濃密な甘い香りでかぎ分けるように。
だってそれは。
その紫色の液体は、僕の目にはあまりにも。
おいしそうに見えてしまうものであったのだから。
見るだけで情欲が刺激されるもの。
こんな邪な感情を抱いた時点で、僕はいまも処女を守りぬいて、その血を捧げてくれている姉さんに「浮気してごめんなさい」と土下座して謝るだろう。
なのに、そんな理性の枷をこわして、床に這いつくばって舐めてしまいたいぐらいの大好物。
戸牙子の鮮血。
パープルブラッドだった。
「ほぉ……紫色の血か。やはりあの娘、新吸血鬼なんじゃろうな」
背後霊のように付いてきたミズチが血を見て勝手に納得している。
その飛び散った鮮血に今にも飛びつきたくなる本能を、僕は必死に押しとどめているというのに。
「というか……戸牙子は!?」
「気配が見えんのぉ、まるで目眩しでもされたようじゃ」
彼女の気配が見当たらない。
そもそも、僕の神眼があれば気配すらも追えるはずなのに、なぜか全く機能していない。
ベンチで項垂れていた女の子を吸血鬼だと見抜けたのも、それが戸牙子だと分かったのも、この神眼が『ものにやどる生命力』を見分けられるからだ。
個体がもつ特性や、大まかな力量を知る力に加え、痕跡や残り香すらも追跡できてしまうこの目が、今この時ばかりは通用していない。
戸牙子の痕跡が、この風呂場で途絶えているのだ。
考えろ。
どうすれば良い?
何をしたら、戸牙子を見つけられる?
残りかすしかない神力をフルに解放させて、この辺り一体を索敵してしまうか……?
でもそんなことをしたら僕の理性が、もたない。
僕の狂気が、力に呼応して呼び起こされ、暴れ回る。
それは、これまでの件で重々理解している。
神様の力は、人間には過ぎたる物だ。
扱おうとしたところで、リミッターとストッパー役が同時にいてくれなければならない。
独断で使うのはだめだ。
ここにいるのはリミッター役のミズチだけだ。
片方だけでは心許ないし、ここにくる前ミズチにも「力を使い過ぎだ」と忠告されたばかり。
だからといって姉さんを呼びに行く暇なんてない。
戸牙子は何者かに攫われた。
その事実が分かりきっているからこそ、僕は焦っている。
抵抗しようとしたのかそれとも無意識だったのか、彼女は宝眼を放ったが、戸牙子は怪我をして血を流し、叫び声も上げずあっという間に消えてしまった。
「……どうにかして戸牙子の痕跡を追えないかな?」
「なくはない、これは目眩しの術式じゃからな」
「どうすれば突破できる?」
「ふたつある。目眩しの術を完全に霧散させる方法と――」
ミズチは指を折りながら、不敵に微笑んで続ける。
ふたつ目が本命と言わんばかりに。
「そしてもうひとつは、より強い繋がりで目眩しを乗り越える方法じゃ」
より強い繋がり。
僕と戸牙子、ハーフゴッドとハーフヴァンプが強く結ばれる契り。
ミズチが不敵に微笑んだのを、僕は遅れて理解した。
なんせこいつは、男女間の色情や色恋が大好きで、処女の血を求めるような変態神様なのだ。
契り。
それは、『血の義理』を交わす盟約ともいうらしい。
お互いの血を捧げ、切っても切れないどころか、切っても再生する縁を作ってしまうのが、契りなのだ。
だからこそ、その制約は誓約として意味を持ち、意義を生み出し、意志すら縛りつける。
とどのつまり、ここで僕が飛び散っている紫色の血を舐めれば、手っ取り早く、そして効率よく、戸牙子との契りが結べる。
ありていに言えば、戸牙子と精神的にリンクできるのだ。
もちろん、あくまで一時的だ。
けれど、それで十分。
体に巡っている血を直接吸うわけではなく、一度地面に落ちたものだから、鮮度が落ちている。
ミズチが好む、血が持つ神性というのは、外界に出てしまっているため残っていない。
だからこそ、僕の神力が暴走する可能性もほぼないと考えて良いだろう。
「のぉみなと、こういうことを言うのは無粋であるかもしれんと、承知の上で言うのじゃがな」
突然、ミズチはバツが悪そうに、僕の肩に頭を乗せながら言う。
ふわりと香る女の甘さと、透き通る空色の髪が首筋にはらりとかかる。
「……何さ、ミズチのくせにもったいぶって」
「お前さんは、あの紫の姫が生きていると信じているのだろうが、そうでなかった時はどうする?」
「そうでなかった時って、どんな時さ?」
「もうすでに、この風呂場で消し炭にされていたら、ということじゃ」
「そいつをぶん殴る」
心臓が、どくんどくんと熱り猛った。
ミズチの仮定を想像して、一瞬で頭に血がのぼり、冷静さが消え失せる。
「僕の友達を殺したやつを、許すわけがないでしょ」
ありえない。
信じたくない。
戸牙子が、簡単に死ぬわけがない。
僕が彼女を見つけて、彼女の存在を証明する。
感情の昂りが、理性を殺してしまい、僕は風呂場の中で比較的、渇ききっていない戸牙子の血を指の先でなぞる。
そのまま躊躇なく、口の中に放り込んで舐めた。
落雷が落ちたような、弾けるような電流が脳内を駆け巡る。
無差別に広がっていく雷光は、ある一点から集約しはじめ、一番星のように一粒の光へとなった。
これが、戸牙子と僕の縁であり、繋がりだ。
圧倒的な情報量と衝撃に目眩がおきそうだったが、ふらつきを根性で抑える。
見えた。
戸牙子の位置が、神の眼ではなく、勘で察知できた。
「あそこだ……僕が杭を交換した場所……そこに、戸牙子がいる!」
生きている。
まだ彼女は、僕と繋がっている。
一時的な契りが成立するのは、戸牙子が存命している証拠だ。
この世にいない者と、契約は結べない。
死人に口なし。
それは、周知の事実だ。
「……みなと」
「話してるひまないよ! 急がないと!」
「ちがう、みなと……ねむい……」
肩に乗っているミズチの頭が、ずんと重くなる。
「……は!? え、もう!? 明け方まで耐えられないの!?」
「むりじゃ……もう、おきておられん……」
ミズチは、リミッターである。
それはつまり、神様の力を使うときは、ミズチ自身が起きていないといけないということでもある。
僕の力は、彼女が起きているときは問題なく扱えるが、それ以外の時に使おうものなら、あっけなく理性をもぎ取られる。
ミズチが抑えてくれているから、ぎりぎり扱えているのであって。
そもそも、彼女は僕の心臓を肩代わりしているせいで、普段は猫のように一日何時間も眠っていないといけない体質になってしまっている。
その眠気を覚まし、無理やり起きたままとしてくれる興奮剤になるものが、処女の血であるわけで。
だから、彼女が「眠い」と言ったなら、それが神力の終わり際なのだ。
ミズチが眠ってしまえば、僕はちょっと頑丈な人間にとどまってしまう。
それでも、ここで誰かの助けを待つ時間なんて、無い。
助けを呼んでも、きっと意味はない。
何故なら、戸牙子を覚えていられるのは。
僕しかいないのだから。
「……僕はいくよ」
「ああ、そう言うと、おもっておった……だから、わしは……おまえさんに、惚れておるのじゃから……」
体の形を保っていたミズチは、あっけなくただの水へと変化し、風呂場の床を流れていく。
完全に眠ってしまったようだ。
「おやすみ、ミズチ」
湿り気を帯びた空間に反響した独り言を皮切りに、覚悟と決意を固めた。
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