巴さんは、竹刀袋の封を開けて中身を取り出そうとして、取り出さなかった。
いや、むしろ何もなかったから取り出せなかった、と言い表す方がいいのだろうか。
得物が入っていてもおかしくないほど、袋はしっかりと形を保っていたのにだ。
空の袋を床に捨てたと思うと、彼女の手元に違和感が生まれていた。
巴さんの左手が、確実に何かを握っていた。
彼女の手には、透明の何かがあった。
「灰朧」
巴さんがぼそりと名前らしきものを唱えたら、右手にある五本の指輪のうち、コバルトブルーの結晶がついた指輪が青く、煌々と光り始める。
そして、右手を左手と同じ高さにまであげて平行に並べると、がしっと空を握った。
びゅうと、深海の色を持つ指輪を中心点に風が舞い始め、持っていた何かが姿を見せる。
それは、刀だった。巴さんの身長並みの刃渡りをもつ、長刀。
まるで、透明な鞘から引き抜いたように右手から現れ、露わになった。
しかし、露わになったはずの刀は刃渡りすら、おぼろげだった。
空気中のチリを気流の渦で集めて、無理矢理刀の形に整えているようにも見えるし、巻き上がった灰が陰影を作り出し、それが透明な剣を影絵のごとく映し出しているようにも見える。
存在も見え方もおぼろげな刀。
僕が幻を見ているのではないかと、錯覚してしまうほどだった。
彼女は、引き抜いた刀の柄を右手だけで握り、左手は白刃へ添えるように構える。
居合切りのようなポーズで、姿勢を正して待つ。
姿も形も不安定な相棒の準備が整うまで、気を静めて待つ、厳かな佇まいだった。
「空塵――凩――」
技名の詠唱と共に、長刀を振り抜いた。
本来なら、壁や天井に当たってもおかしくない長さのそれは、すべての物体をすり抜けた。
椅子やテーブル、コーヒーカップに傷ひとつすら残さず、刀は空を切った。
しかし、物に何も残さなかった剣閃は、代わりにあたりの空気を切り裂き、まるで台風が訪れたような豪風が吹き荒れる。
瞬間風速はわからないが、鳥肌が立つほどの冷たい風が室内を襲った。
「さっぶ!?」
「巴おばさん、もう少しましなやり方ないの?」
「だーかーらーおばさんって言うなー! 確かに生まれた頃から逆算したらもう四十超えてるけどさ! 寝ていた期間は含めないでくれってんだよ!」
至って冷静にコーヒーをすする姉さんに構わず、僕は聞いてしまう。
「巴さん、これ何したの!?」
「目くらまし」
……目くらまし。
ああ、なんかわかったぞ。これがわかってしまう僕も大概怪異に毒されているなって、思わなくないけれどさ。
秘密の話をしようしているのだ、巴さんは。
「みなとってどれくらい知識叩き込まれてるんだ? 結界術はわかるか?」
「あーうん、有名どころの『異象結界』ぐらいしか知らないけど」
「それそれ、これあたしの異象結界」
……あれ、異象結界ってめちゃめちゃ強い怪異とか人外しか持てないって聞いていたのだけれど。
僕の周り、パワーインフレ起こしすぎてないか?
しかし、よくよく考えてみればというか、先ほどの姉さんと巴さんの会話をしっかり思い返してみれば、姉さんの師匠が巴さんであって、この巴さんはあの虹羽さんとタメを張れるぐらい強いらしいし。
なら、まあおかしくないか。
うん、諦めよう。悩みすぎることを諦めよう。
「さぁて、こっから話すことはオフレコだ。コーヒー一杯の礼だ」
「こ、コーヒーが冷える前に終わる……?」
「だいじょーぶ、手短に終わるさ。今回あたしが帰ってきたのは、寝起き早々『とある怪奇現象』の調査を任されたからだ。その怪奇現象は暫定で『赤い灰』と呼ばれている」
「あかい、はい……?」
「突然、一晩のうちに燃えた木の下に積まれている灰が、赤色なんだよ。鬼火や不知火みたいな、炎関係の怪異が関わっているんだろうけど、足跡が掴めない」
椅子に腰かけたまま、何事も無いようにコーヒーを一口含んだ姉さんが問いかける。
「場所の傾向は?」
「まばらだ。住処が分からないというより、移動しているという方が近いんだろうな。確実に『意思を持つ』怪異だ」
「その赤い灰、人への影響は?」
「人体にはない……が、木にはある。その灰がかかると、どんな木であっても花を咲かせる」
花を咲かせる、灰。
まるで日本民話の「花咲か爺さん」に出てくる灰のようだ。
「それは、なるほど……。『庭園』が欲しがりそうな灰ね」
「そういうこった。ま、あたしは庭園に戻るつもりないから今回の件、無視を決めこむつもりなんだがな」
「はっ!? え、どういうこと!?」
「あたしもあたしでやること、じゃねえな、そういう言い方は語弊がある。やりたいことがあるんだよ。だから庭園には戻らん」
「それだと……パワーバランスはどうするの? 巴さんの開いた穴は誰が埋めるの?」
「空木にやらせるさ、あいつもそろそろあたしを超えるだろ」
「……まあ、空木叔父さんなら確かに心配はいらないかもしれないけど……」
二人がしている会話の内容を、僕はほとんど理解できていない。
いや、知らない情報が多いせいで分からないのだ。
庭園とか、やりたいことだとか、空木叔父さんとか。
まあでも、こういう情報を頭に入れておいて、理解のできるタイミングまで待つのもまた生き方の一つだと学んだだけ、玄六さんの教訓はありがたかった。
そして、秘密の話の終わりを告げるように、吹き荒れる突風がおさまりはじめる。
冷風こそ和らいだが、真冬並みの気温に下がっている室温に耐えられず暖房のリモコンをとった。
「さ、さむいっ! なんで二人は平気なのさ!」
「ああん? なんだみなと、異象結界の対策法は学んでねえのか」
「え、あるの? 上書き以外で」
「それは抜け出す時だな。結界内で耐える方法があるんだが、まあ詳しいことはこれから特訓してくれる師匠にでも聞けよ」
と言って、巴さんはまた左手で空中にある何かを掴み、「灰朧」という刀が先端からすうと消えていく。
かちゃん、と綺麗に収まる鉄の音が鳴り響くのをみるに、どうやら透明な鞘にしまったようだ。
冷風は完全に消え去って、リビングに渡る風はエアコンの温風だけになった。
「んじゃ、あたしはこれで」
「え、もう行くの?」
「コーヒーももらったし、咲良とも会えたしな。お前らが元気そうで良かったって感じだ、この満足感で今日は寝たい」
「それならというか巴さん、泊まっていきなよ。部屋は残ってるし、ベッドも準備するよ?」
「いや、いい」
竹刀袋を背中にかけながら、彼女はへらへらという。
「男女の営みを邪魔するほど、あたしも無粋じゃねえよ」
「「おばさん」」
「だからおばさんって言うなぁ!? いい加減泣くぞっ! 泣いちゃうぞ!?」
「私は処女」「僕は童貞」
「お前ら……そんな真顔で誇って言うことじゃねえだろ……おばさんいよいよ老婆心で悲しくなってくるぞ……? あれか、ミズチが見てるから恥ずかしくてやれないのか……?」
本気で心配されているが、巴さんこそ僕たちをなんだと思っているのか。
一応家族なんですけど、義理の姉弟なんですけれども。
「いやいや、年ごろの男女がひとつ屋根の下だぞ。なんで何もないんだよ」
「何かあったらそれこそまずいでしょ! みだらな生活になってしまうじゃないか!」
「男の癖にそれは……あ、そうか。お前、人生苦労するだろうけど、応援してるぜ」
「待て待て! 巴さん僕をアブノーマルなタイプだと勘違いしてない!?」
「なんだ違うのか。ミズチの件もあるしてっきりロリコンだと」
「普通です、ニュートラルです!」
「ならばこそというか、なんで結奈と何もないんだよ、てっきりあたしは次に目が覚めるころには、お前らの子供でも見れると思ってたんだけどな」
つまびらかというか、歯に衣着せぬというか。
ここまでドストレートだと、もう呆れるしかない。呆れて失笑する。
「巴さんが僕たちにそうなってほしい願望があるのはよくわかったよ……」
「おう、楽しみにしてるぜ」
「身内からの外堀ってどうしようもできない圧力なんだね、思い知ったよ」
当の本人というか、この話題のもう片方である姉さんに至っては、無表情のまま顔を真っ赤にしている。
きっと頭の中で想像してしまったけど、どうにかそれを表に出さないために沈黙を決め込んでいるんだろうが、顔に出ている時点で負けだな。
僕たちの完敗である。伊達に神楽坂家の保護者を名乗ってはいない。
そんな巴さんは、本当に未練のかけらもない雰囲気で、荷物を持って出て行こうとしていた。
「あ、ちょっと待ってて!」
急いでキッチンにある戸棚から保温の効く水筒を取り出し、先ほど淹れたばかりの新鮮なコーヒーを注いで蓋を閉め、巴さんに渡す。
「良かったら持って行って」
「気が利くなあお前、ありがとな」
と言い、彼女は頬にキスしてくる。
触れる程度の軽いキスだったが、隣から鋭い視線が刺さっている気がするのは気のせいだろうか、いや当たっているな。
「ほら、結奈も」
巴さんは座っている姉さんの下へ近づいて、頬にキスをし、銀色の艶やかな髪を優しく撫でていた。
「また会えたら、酒でも飲もうな」
巴さんの顔は優しい笑みで満ちていた。
それは誰よりも姪っ子を慈しむ、叔母の表情だった。
水筒を持った手を軽く振り上げたあと、巴さんはその場で灰のような塵に包まれ、消えた。
虹羽さんだったりグロウだったり、強キャラは瞬間移動で消えがちだが、何かポリシーでもあったりするのだろうか……?
「……相変わらず台風みたいな人だね、巴さん」
「木枯らしよ、あれは。ところでみなと」
「うん?」
コーヒーを飲み終えてカップから手を離した姉さんは、居住まいを正してまっすぐ僕を見据えた。
「子供はすき?」
「…………………………………………」
「あら、嫌い?」
「す、すきだよ?」
「じゃあ次の質問」
「まって、まだあるの?」
「結婚したら母親と妻、どっちの味方?」
「え、ええっと……」
「どっち?」
「妻……」
「そう、なら次に――」
「待って待って、いくつあるのさ!?」
「いいじゃない、夜は長いのだしコーヒータイムを楽しみましょう。おかわりはあるかしら?」
この日、僕は姉さんから絶対にどうやっても選択ミスのできない質問攻めにあい、気の休まらないコーヒーブレークで一日を終えたのだった。
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