「た、ただいまー……」
仕事を完遂し、その帰りに壊滅的な出会いをした吸血鬼から服を借りて、家に到着したのは空が深い青に変わり始めた頃だった。
リビングに繋がるドアから光が漏れてることからも、僕の家族が起きていることは明らかだったため、僕の気分は奥さんを待たせて朝帰りする男のように憂鬱だった。
「おかえり、みなと」
「あっ、まだ起きてたんだね……姉さん……」
「ええ、予定の時間に帰ってこない弟が心配で仕方なくて、お酒で気を紛らわしていたわ」
彼女の手元には、琥珀色の蒸留酒が入った瓶とショットグラスがあった。
軽い冗談ではあるのだろうけれど、心配していたのは本当だろう。
「まったくもう、連絡くらい入れなさいよ」
姉さんはむすっと顔をしかめながら、そばに近づいた僕の頭を撫でてきた。
義理の姉、といってもかれこれ10年近く一緒に暮らしてきたのだから、家族といっても過言ではない。
そんな姉から向けられる愛情が、じわりと心に染み入る。
「ありがとう」
「そこは、ごめんなさいじゃないの?」
「いや、謝るより、感謝したくて」
「そ、悪い気はしないから良いけれど。とりあえず私はもう寝るつもりだから、はい」
そういうと、姉さんはチョーカーに手をかけて、首肌を晒す。
一点だけほんのりと赤く腫れたような部位があらわになる。
「吸って良いわよ」
白くきめ細かい肌に浮き上がる、キスマーク。
それを見るだけで、僕の情欲と本能が刺激された。
しかし、このたぎる情欲は異性に向けるそれではない。
これは、半神部分の本能だ。
お許しをもらい、彼女の首元にあむりと、かぶりつく。
「……んっ……」
姉さんは艶かしい声を上げ、痛みに耐える。
蓋を開けたように湧き出てきた血を、こくこくと喉を鳴らして口に含む。
「あっ……んんっ……」
僕の背中に回した左手で服を掴み、右手で子供をなだめるように頭を撫でられる。
まるで赤ん坊を相手にしている母親のようだ。
あらかた血を吸って満足したら、透き通るような色白の肌から離れる。
透明なよだれと浮き出た血のしずくが混ざり合う。
白い肌とのコントラストで、一周回って美しいと感じるサイコパス的な考えは、半神部分が強く出ているせいだと思いたい。
「今日は、多く吸ったわね?」
ティッシュでこぼれる血を拭きながら、姉さんから小言ほどではない、率直な疑問をぶつけられる。
「あーごめん、ちょっと、ミズチが欲しがったというか……」
「暴走は、しなかった?」
「うん、今回は順調にいったよ。最初の準備もそうだし、帰ってきてからもう一度吸うっていう契約のおかげで、ミズチも起きていられたみたい」
「まあ、だとしても油断はしないようにね? また何週間も暴れ続けられるのはさすがに勘弁してほしいから」
そう、僕にはこれ以上ないぐらい前科がある。
ほぼ意識のない状態で、けれど暴れまわったことだけはなんとなく覚えている、危ない前科。
結局その事件自体は、姉さんが僕を必死に止めてくれたから、大事に至らなかったのだが。
だとしても、二週間近く一睡もできずに動き回ったことはさすがの姉さんでも堪えたようで、「二度とこんなことが起きないように徹底していくわよ」と、凄まれたものだ。
「……ところで、その和服はどうしたの?」
「あー、えっとそのぉ……」
出発した時と帰宅した時の服装が違うことに、ようやくつっこまれた。
そして急に、彼女はすんすんと訝しげに鼻を和服に近づける。
「……嗅いだことのない女の匂いがする……」
嘘でしょ、あの吸血鬼と話した時間なんてほんの数分なんだけど。
いや、この和服についている匂いなのか?
女って、他の女の匂いを嗅ぎ分けられるのか……?
だとしても、これはたしか父親の服だと言ってたはずだけども……。
「……はあ、そうですか、義理の姉にはもう飽きちゃったってことね」
「ご、誤解だって! べつにやましい事をしてきたわけでは無いよ!」
「やましいことはしてないけど、女とは何かあったのね」
「うぐっ」
なんともまあ、先回りされた。してやられた。
じとーっと疑念のこもった視線が刺さる。
もう言い訳が通じるような雰囲気ではなかった。
「……えっと、実はね」
帰りに起きた事件の説明をしようとしたら、「眠いから膝枕して」と言われた。
仕方なく、僕は姉さんのベッドまで同行し、子守唄代わりに吸血鬼Vtoberとの出会いを説明ならぬ、弁明。
血を吸って疲れてしまったせいなのか、それともお酒が回っていたからなのか、話の途中で眠ってしまった姉の寝顔を拝めたのは、なかなか役得だった。
*
「買い物行ってくるけど食べたいものある?」
「みなとのご飯は美味しいからなんでも――」
「なんでもはだめ」
「うっ……じゃあ……ハンバーグ……」
「おっけー」
「ち、チーズインだと、嬉しい……」
「りょーかい」
姉さんはもじもじと恥ずかしそうに視線を泳がせていた。
意外と子供っぽいメニューが好きなことがコンプレックスらしく、「僕相手なら気にする必要ないのに」と言ったことがあるが、「みなとだからこそよ」と返されたのは、今でも謎ではある。
「いってきまーす」
先日の杭を交換する仕事が終わり、土曜日を迎えた。
僕は半神の力を呼び起こすと、最低でも二日ほど、ミズチの持つ神性が残り続ける。
搾りかす、残りかすとも言えるそれは、筋力や体力にも影響を及ぼす。
ペンを握るような、ちょっとした力みだけで物をぶっ壊したり、あとは周りのものを自分の意思でぷかぷかと浮かせたり。
僕に宿っている神様が『水系の神様』だからというのが大きいのだが、まあコントロール自体は少しずつ、手馴れてきてはいる。
最初の頃は寝て起きたら、いつの間にか体が宙に浮いていたこともあったのだが、最近は減ってきた。
今日は半神の力を使って二日目だから、神力もかすかに残っている。
なので食料品の買い出しに行く際も、それなりに注意はしないといけない。
神力、あるいは神性というのは、何もしなくてもあたりに静かな波を起こしてしまう。
やはりそこは腐っても、人間の体に縛られていようが、神様だ。
生物よりもさらに上の存在として祀られる神様たちは、もちろん注目の的になりやすい。
しかも、僕がそこにいるだけで“気の流れ”みたいなものが、波打ってしまうのだ。
だから、害のないものも、良くないものも、誘蛾灯にひかれる虫のようにふわふわと引寄せてしまう。
できる限り目立たないように、そして迷惑をかけないようにというのが、人外たちの鉄の掟であり、暗黙のルールだ。
半神半人である僕の場合、下手にまわりを刺激しないように目的地へまっすぐ行って、まっすぐ帰る。
寄り道厳禁。
前だけ見て進め。
が、人外がするべき最低限のマナーなんだけども。
それは別に、僕だけに限った話じゃなくて、他の人外や異形であってもそうだ。
今の世の中は、一応人間の天下なのであって。
影に潜んでいる僕たちみたいな怪異は、人間様のお邪魔にならないように細々と暮らすべきであって、目立ってはいけないのだ。
だから。
休日で真昼間の、子供やお母さんが一緒になって遊んでいる公園のベンチで、膝を地べたにつけて顔面をベンチにこすりつけるように乗せてうなだれている、色白で金髪の女の子がいるのは、あまりにも異質な光景だった。
もしあと二日後、いやせめて明日にでもこの光景に出会っていたのなら、僕は気付かずにスルーしていただろうし、気づいていても知らないフリをしてこの場を通り過ぎていただろう。
神力の余りかすが残っている今の僕は、眼や認識能力も強化されていたから。
死んだようにベンチでうなだれている彼女が、仕事をした帰りの夜、僕を襲ってきた吸血鬼Vtoberであることを、見抜いてしまったのだ。
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