「冥地……?」
霞さんの言った言葉が聞き慣れないものだったから、思わず私はオウム返しをしてしまう。
夜闇のなかで爛々と輝くルビーの瞳は、闘争心があふれ出るように赤く燃え盛っていた。
「そう、この神社は私の死地。ローゼラキスが黄泉路へ旅立つはずだった、最期の地。ここで私は、ローゼラキス・カルミーラ・ホーソーンは死んでいます」
「どういう意味ですか。あなたは、まだ生きていて……」
会話を続けながら、私はジャケットの内側にある愛銃に手をかける。
かちゃかちゃと金属がぶつかり合い、擦れる音が聞こえてきた。
それは、私の手が震えていて、銃の金具がぶつかりあう音だった。
無意識の条件反射で得物に手を伸ばしてしまうほどの殺気と威光が、目の前の霞さんから、あの赤く輝く眼から、放たれていた。
私は今、母親としての霞さんではなく、吸血鬼という怪異を相手にしている精神状態なのは、明白だった。
危機感を抱いて、恐怖したのか、歓喜したのか。
震え上がる自身の体をおさめたくて、安心できる物に触れたくなったのだ。
ジャケットの中で銃のグリップを握りしめる。手のひらにじとりと汗が滲むのを、無理矢理服の中で拭いてまた握る。
「生きていて、ね。そう、知らないふりをするのかしら、結奈さん? あなた、みなと君から私のことも、全部聞いてるんでしょ?」
見返りながら私を見据えて鼻を鳴らし、凄惨に笑う。
どこまでも見透かしたような、妙に澄んだ顔をしていて、しらばっくれるのが馬鹿らしくなってきた。
隠し事はできないのだろう、このお方には。
「……ローゼラキスだったころの話、でしょうか」
「そうよ。気にならない? 私がまだ母親ですらなくて、今よりもっととがっていた時期のこと」
「……今は、そんなことしている場合じゃ……」
「まあまあ、せっかくここに来れたのだし、思い出に浸らせてよ」
呑気なことを言う彼女の立ち振る舞いに、焦燥を抱く。
廃神社にみなとがいないのなら、また別の場所を探さないといけないことは彼女だって、分かっているはずなのに。
「懐かしいわ。私からすれば二十年なんて、一瞬の歳月であるはずなのに、もうずっと昔のことみたいで、不思議な気分よ」
老人の長話が始まりそうな前口上で、私は今すぐにでも話を終わらせたい気分になる。
彼女は、この神社が形をなくしている一番の要因である、崩れきった本殿まで歩きながら言う。
「この神社が、あの戦争の最終地。すべての終わりを見届けた、一人の女と吸血鬼が殺し合い続けた冥土であり、死に場所」
懐かしむような手つきで、彼女は潰れた本殿のそばに近寄り、突き刺さっている大木に優しく触れた。
「結奈さん、吸血鬼と人間の最終戦争は、まだ生まれていないかもしれないですが、聞いたことぐらいはあるでしょう?」
「……はい。『ヴァンプ・ト・テロス』は、有名な大戦争です」
「ふうむ、『吸血鬼の終焉』ね。勝者らしい名付け方だわ。まあ敗者である私たちが何かを言える立場なんてありませんが」
今から約二十年前に起きた、人間と吸血鬼の最終戦争。
吸血鬼の王が人間に宣戦布告をして、総力戦で攻めてきた大戦争。
怪異に関わる人間勢力が、必死に吸血鬼の進行を食い止めて、表側の人間たちに悟られぬよう尽力した半年間。
開戦から六ヶ月と十七日間、絶え間なく戦い続けて、最後に吸血鬼の王であり、霞さんの父親でもある「ヴァンデグリア・カルミーラ・デウス」が降伏したことで終わりを迎えた。
しかしあの戦争は結局のところ、民の意思であり、王の意思ではなかったことは、周知の事実でもある。
時代の流れで大量に生まれ出た新参の吸血鬼達が、己の力を過信して、この世にはびこる人間を統治して従わせようとした。
ニュービーヴァンパイアの思い上がりが、一族を滅亡へと追いやった、浅ましい吸血鬼の終焉。
若気の至りの果て。
だが、霞さんのように太陽や十字架すらもろともしない『本物で本当の吸血鬼達』は。
彼女と同じように、己の素性を隠して、いまだにひっそりと生きている。
「カルミーラは最古の王家、だなんて言うけれど、統治できない王なんて国としての力もないわ。個の力が強すぎるのは、本当に厄介なものよ」
自嘲の籠もった被虐的な笑みを浮かべて、彼女は目を細めた。
霞さんの雰囲気が、変わった。
いや、それは変わるどころではないというか、私が今まで聞いたことのないような声音だ。
変貌、変化、変幻。
しかし、これに対して「変わる」という表現を当てはめるのは、いささか的外れだ。
置き換わった、そう例えるのが適切だろう。
まるでそう、人格でも変わったかのように、先ほどまで話していた「山査子霞」の面影が、全くない。
母のような暖かさを持つ仁者としての側面も、年を重ねた賢人としての聡明さも、今の彼女にはかけらほど残っていない。
ここにいるのは。
目の前にいるのは。
凄惨で惨烈な笑顔を浮かべる、ヴァンパイアだった。
「ねえ結奈さん。私と、戸牙子に六戸。それに、玄六さんが狙われたあの件。山査子家を狙って、みなと君にまで手をかけようとした『怪異殺しの人間』が消えたことに関して、私たちに何も追求がないだなんて、ありえないわ。誰かがどこかで手を回したのは明白。あなたなのよね?」
「私に……そんな権限はありませんよ」
「ええ、そうね、あなたのような小娘に権限はない。だから取引を結んだ。名前も記憶も世界から抹消された『とある老人』に関する事件を、内密にする代わりに、あなたは生涯人間から利用される取引を」
「はは、憶測ですよそれは。第一、霞さんだってその『老人』の名前を思い出せないのでしょう? そもそも、放浪の身だったあなたをわざわざ追いかけてきた人間がいて、そいつに殺されかけて、逃げ回って、人間と鬼の親子に助けられたなんていうのが、実はただの妄想だった、なんて可能性はあるんじゃないですか?」
「家族を殺されかけたのが妄想だって?」
肌にびりびりとしたものが駆け巡り、危険を察知したように心臓の鼓動が早まる。
廃神社の潰れきった本殿を見ていた霞さんは振り返って、卑しいものを見るような視線で貫いてきた。
「貴様、言葉には気をつけなさい。その命を殺すも生かすも、この場の立ち振る舞いで決まるものと知りなさい」
「……この場は、カルミーラ式の儀礼だとでも?」
「神殺しの才を吸ったところで、私に利はない。口には気をつけろと言っているまで。もっとも、今の私では銀の殺し屋すら相手取るのも危ういけれど」
軽く嘆息した霞さんは、背中に黒い翼を顕現させた。
「吸性のカルミーラ」は有名な逸話だ。
存在を維持できない、滅びかけの怪異が最期にカルミーラのもとを訪れて、自身の実力を見せつける。
その才を認められた場合、カルミーラの庇護下におかれるが、もし見込みがないと判断されたら、取り込まれる。
存在も怪異性もすべて奪われて、元からこの世にいなかったように、消え去ってしまう。
命を吸収する一族のカルミーラは、それ故に古い血がずっと残り続けるという特殊な家系でもあった。
しかし、一瞬だけ吸血鬼の威厳が垣間見えた霞さんだったが、ハッとしたように顔色を変えて、自虐めいた溜め息をついた。
「……失礼いたしました、咄嗟に昔の癖が。この廃神社は私が全力を出して、巴嬢と戦った場でもあったから、こう、なんといいますか、血が騒いでいるんです」
「……どうして、ここに連れてきたんですか。私たちはいま、みなとを探しているんですよ?」
「ええ、そうですね」
「でもあなたの素振りを見れば、みなとを探すつもりなんてないことは分かります。どうしてなんですか。霞さんの目的が私には分かりません」
「嘘は良くないわ」
さらりと、彼女は何気なく言う。
私が質問しているというのに、まるで問いかけの答えが私にあるかのような言い回しだった。
「分かってるのよね、本当は。白銀霧氷の神殺し、神楽坂結奈。あなたの闘争本能を、この私が分からないとでも思っているの?」
霞さんの口調はいつもの丁寧語からかけ離れ、先ほどまでの優しい声音も消え去っている。
媚びへつらうことのない、明け透けで丸裸の彼女が、愉快な顔で微笑む。
「私を見て、怖れを抱いていたわね。最古の吸血鬼を目の当たりにして、あなたはどんな感情を私に向けていたか、自覚できてるのかしら?」
見え透いたことを言うその性格が妙に癪で、虹羽先輩みたいで会話をするのが難しい人だと思った。
それが、今抱いている感情。
「違う、そんなのは上っ面だわ。あなたの脳が、心が、本能が持つ感情こそが、私の大好物。あなたの大好きなところで、食べてしまいたいぐらいに愛おしい。あなたになら、私のすべてを捧げたいわ」
情熱的でうっとりした視線を送ってくる彼女の感情が、よく分からない。
いや、分かりたくない。自覚したくない。
「言ってる意味をはかりかねますが」
「まだ猫を被るのね、そんな子には――」
彼女の背にある漆黒の翼がばさりと大きく開く。
二枚の両翼は黒い霧のような粒子となって蠢き、増殖し、どんどん体積を広げていく。
そのまま、黒霧は廃神社全体を隠すような濃霧となり、夜の山奥を、黒に染まる闇の世界へと塗り替えていった。
「お仕置きが、必要ね」
恐怖しか感じない微笑みを浮かべる霞さんの前で、私は絶望した。
閉じ込められたことだってそうだし、みなとの捜索に協力してくれると信頼していたのを、裏切られたこともそうだったが。
それ以上に、ありえない現実を直視したことで精神が壊れそうだった。
私の左手首に付いている腕時計の、方位磁針が機能していない。
先ほどまでしっかりと機能していた針が、くるくると、北を見失ったように回り続けて、探している。
コンパスがこんな状態になっている時の状況は、ほとんど絞られる。
地球上にいるはずなのに、磁場が逆転したわけでもなく、世界を見失ってしまうのは、ただ一つ。
膝をついてしまいたかった。
ここで頭を垂れて介錯を任せてしまう方が、いっそ楽になるのではないかと思うぐらい。
だってこれは。この闇に包まれた世界は。
異象結界、だったのだから。
「な、なんで……異象結界を現実に引きずり込むなんて……!?」
「できないとでも思っていたのなら、勉強不足ね」
ありえない。
霞さんの持っている異象結界は、「ローゼン・ガルテン」のはずだ。
その結界内の風景は、私も直接伺ったことがあるから見ているが、中世ヨーロッパを思わせる城郭都市や建造物に、霞さんの暮らす洋館がある、一つの街のような世界。
こんな、すべてを飲み込んで消し去るような暗闇の世界であったわけがない。
「どういうこと……異象結界は一つしか持てないはず……!?」
「例外はいつの時代もあるものよ。ミズチだって、二つ以上持っているらしいわよ?」
「あれはッ……あれは『ふたついる』から二つあるだけで!」
「そう、なら私も似たようなものじゃない?」
霞さんはあっさりと言ってしまうが、イレギュラーが過ぎて混乱する。
なぜなら、『異象結界はひとりにひとつ』という決まり事が、この世には、この地球という星には存在するからだ。
二つ以上持つことは、許されない。もしそれに逆らうのなら、この地は母星であることを拒んで、はじきだす。
独占するのなら、ひとりで勝手にしろと。
そう言わんばかりに、つまみ出す。
だが、侮っていた。
ひとりにひとつというのなら、それは『個にひとつ』とも言い換えられるのだろう。
ミズチが自分と自身ではない者が持っている二つの異象結界を扱えるのなら、霞さんだって同じようなものなのだと、直感で理解した。
とても理解しがたい現実ではあるが、こうも目の前で見せつけられてしまうと、無理矢理つじつまを合わせるしかなかった。
この暗闇であたりを包む異象結界は、ローゼラキス・カルミーラ・ホーソーンのものではなく。
『山査子霞』のものだと。
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