姉さんとの押し問答に時間を取られてしまい、僕は飛び出ていった咲良を完全に見失ってしまった。
それもそのはず、咲良は結構運動ができる。運動系の部活に入っているわけではないらしいが、逃げ足の速さやフットワークの軽さが彼女の武器と言って過言ではない。
その運動神経を活かしてあっという間に消えてしまったことで、面倒な問題に二つほどぶち当たってしまった。
まず一つ目が、咲良はコンビニに行くとは言っていたが、神楽坂家近辺にはコンビニが三つもある。しかも、その三店舗すべてがほぼ同じの距離間にあるという、捜索を最初から諦めたくなるような面倒さ。
二つ目が、時間の問題。
現在時刻は午後七時三十二分であり、とっくの前に日は落ちていて、星がよく見える晴天であることぐらいしか良さのない、夜中である。
咲良の根性や精神はたくましいのだが、だからといってこんな時間に、女の子を外で一時間もふらつかせたくはない。早めに見つけなければならないわけだ。
どうしたものかと、思惑しながら僕は走る。
しらみつぶしにはなるが、動かないよりはましだと考えて、十分ほどで一つ目のコンビニへ到着。
外から見るだけでも、店内にいる人の数は多い。時間帯的にこれから家に帰るであろう人たちで賑わっていたが、咲良の姿はなかった。
退店の際に開いた自動ドアの機械音が、無駄足となったむなしい現実を押し付けてくるようだった。このままでは埒があかないと、電話をかけようとしてポケットをまさぐったが、携帯を家に置いてきてしまったことに今更気付いた。
というか思い返せば、咲良は姉さんの着替えを取って戻ってきた足でそのまま玄関に向かって手ぶらで家を飛び出たのだ。
彼女が携帯を持っているとは限らない。むしろ持っていない可能性の方が高い。
少し冷静に考えればわかることだったからこそ、わけもなく焦っている自分の不甲斐なさが嫌になる。
「はあ……どうしよ……」
今から残り二つのコンビニへ走ったとしても、なんとなく入れ違いになりそうな予感がした。焦りと絶望感がふつふつと胸中を埋め始め、足取りが重くなり、コンビニの駐車場の隅でしゃがみこんでしまった。
連絡手段のない時代はこんな苦労があったのだろうかと、意味のないノスタルジーに浸ってさらに気分が沈む。
「ミズチぃ……」
つい相棒に頼りたくなって小声で呼びかけてみたが、悲しいことに返答がなかった。ミズチは不機嫌な時、呼びかけても応答しないことがあるのだが、その時でも何かしらのリアクションを身体で感じることはできる。
お互いの身体がリンクしているから、僕の呼びかけが聞こえた時にミズチはとりあえず耳を傾けてくる。その時自分の体内でわずかに生じる波紋のような感覚で、彼女が起きているかどうかわかるのだが。
残念ながら、呼びかけたというのに全くの反応も波紋もないことから、きっと今は寝ているのだろう。
ミズチが完全な休眠状態になる時間は、約半日。この時間は、空いてしまった心臓の機能を肩代わりして、神血の毒素を取り除いて害をなくしている最中でもある。絶対安静というか、麻酔を打たれたように寝入っている間は、彼女の力には頼れない。
しかし、本当なら困ったことがあるたびにミズチに頼ってしまうのは、良くない癖だ。
文字通り、ただの神頼みになってしまう。何の見返りも求めない人形のような扱いをしてしまっては、神社や天にいる神様に願うのと一緒だ。
ちゃんと意思を持って行動している彼らを尊重するのなら、それ相応の対価を差し出さねばならない。
まあ別に、こういう心構えは意思疎通できる者に対しての正当で対等な向き合い方だから、神様に限った話ではない。そんなことを前に言ったら、ミズチが「気にしすぎ」と一蹴してけたけた笑ってきたことを、細かいかもしれないが今でも僕は根に持っている。
けれどあれは、「友達感覚で接して欲しい」という本心の照れ隠しであることは、言わなくとも分かるぐらいの仲であったりもする。
ほんの数ヶ月一緒に暮らしたミズチですら、それぐらいの以心伝心ができるのだから、僕は数年単位で付き合いのある幼馴染みがどこに行ったのかを勘で察することぐらい簡単だと踏んでいたが。
「……幼馴染みを名乗るの、おこがましいのかな……」
僕らしか知らない約束の地で待っているといったような、ロマンチックな行動を果たして彼女は取るのだろうか。
と言っても、咲良との思い出が詰まった特別な場所があるかと言われたら、あまりないように思う。
なんせ彼女は中学生の時点で寮暮らしを始めてしまったものだから、僕らの住む地域で思い出の場所を強いてあげるとすれば、よく一緒に遊んだ、今は立ち入り禁止になっている公園ぐらいしかないのである。
あとはせいぜい、夏祭りに行ったお寺だろうか。しかし、そのお寺までは歩きだと結構な距離があるから、きっとそこまで遠くには行っていないはず。
考えれば考えるほど、咲良の行動を読めない自分に気づいてしまい、彼女を理解しているつもりだっただけの事実に打ちひしがれて、うなだれる。咲良は僕のことを、よく分かってくれているというのに。
そんな風に駐車場の隅でうずくまってしゃがみこんでいたら、足音が近寄ってくる。
「ねえ」
トーンのない声が、静かに響いた。
うずくまっている人間を心配してくれているようには思えないような、神妙で波のない、女の人の声だった。
「君、今ミズチって言った?」
呼吸が止まった。肝を力強く掴んで絞りあげられる感覚に陥り、背筋に冷たい汗が流れる。
顔を上げずに、アスファルトに視線を落としたまま、次の言葉を絞り出すために脳内をフル回転させる。
迂闊だった。自覚の薄い自分を戒めたくなった。
「ミズチ」というのは、現代の裏社会で知らない人はいないほど、ネームバリューのあるワードだ。
口走った暁には、怪異の関係者であることを悟られてしまうほどである。だがしかし、もっと別の問題として、僕に話しかけてきた女の人が「ミズチ」について聞いてきたというのは、危険な状況だ。
彼女がどういう身分であるかは分からない。方舟の関係者なのか、もしくはもっと別の組織の者なのか。いずれにしても、僕を関係者だと知って接触を図ってきたということは、何かしらの算段があることになる。
相手の目的も思想も意図も読めないなか、なんとか顔を上げて冷静を装い、声を捻り出した。
「え、ミズチを知ってるんですか? 僕のやってるソシャゲに出てくるマイナーキャラなんですけども」
はったりを言いながら、声の主の方へ視線を向けた。
そこに居たのは、女の人というより、女の子だった。
ぐにぐにとガムを噛みながら、けだるげにこちらを見据える、無気力な半目。
オーバーサイズの黒いパーカーに、黒いキャップ。すらりと伸びる生足が、しゃがんでいた僕の眼前に広がっていて一瞬びっくりしたが、どうやら下を穿いていないわけではなく、裾の長いパーカーで隠すようにショートパンツを着こなしているみたいだ。
黒いスニーカーには翡翠のようなアクセントカラーが入っており、両足首には黒いチェーンを巻いている。たしかこういうアクセサリーの名前は、アンクレット、だったかな。
仄暗いアッシュのウルフヘアに、毛先とインナーにライトグリーンの差し色が入っていて、カジュアルで今時なファッションだ。
ストリートファッション、というのだろうか。ポップな音楽が好きそうな人に見える。偏見かな。
さまになっている着こなしについ見惚れてしまったが、今はそんな悠長なことを考えている場合ではなかった。
「なんだか知っている人がいるってだけで嬉しいですね、あんまりこのソシャゲやってる人いないんで」
「ゲームの話?」
「はい、そうですが?」
いけそうだ。
彼女は雰囲気こそ女子中学生のようなあどけなさが残るが、その目とその声に宿る覇気は、紛れもなく『本物』だった。
非道も道理も理屈も屈辱も知る、裏社会の人間が持つ気迫が、無気力な瞳の奥に垣間見えた。だからこそ、手早くこの場から立ち去りたかったのだが。
「じゃあ、そのゲーム教えて」
ぴしゃりと、迷いがないのに無気力な声で、彼女は告げた。
「……ええっと」
「君、そのゲームやってるんでしょ。なんていうアプリ? 教えてよ、あたしもやってみたいから」
いけそうにない。
彼女の警戒心が、僕の目論見を突破してきたが、まだいけると諦めずに抵抗する。
「あれ、やってなかったんですか? てっきり知ってるものだと思ってたんですけどね? あなたみたいにおしゃれな女の子がこういうゲームに興味を示すなんて、びっくりしたぐらいなんですけども」
苦し紛れになるが、どうにか褒め言葉と世間話で時間を稼いで、話を逸らそうと考えていたわけだが。
「生足を見て目を泳がせるような男が言う褒め言葉は、当てにならない」
話している内容と関係のない方向からとんでもない言葉のナイフが刺さった。
しんと静まりかえる永久凍土の地に響くような罵倒で、僕の思考回路が混乱で硬直する。
初対面ですよね、僕ら?
しかし、こういうときの対処法を僕は知っているぞ。
警戒心の高い人ほど、こちらの心情や本音を吐露する方が、心を開いてくれるものだと聞いたことがあるのだ!
「あ、あはは……ええっと、いやごめんなさい、言い訳しない方がいいですね。一瞬穿いてないように見えたもので、ドキッとしちゃったんですよ」
「何それ、思ってることをつまびらかにしたら、気を許すとでも思ってるの? 女舐めすぎ」
いけそうになかった、もう何も信じられない!
僕にこのアドバイスをくれた相手はちゃんと女の人なんだぞ!
まあその人は少し男勝りでストレートで粗暴なところがある、家族の身内なんだけどさ!
「おおい! 生え際後退おっさん! こんな幼気な女がタバコ一本くれって言ってるのに、何出し渋ってんだよオラァン!」
突如、コンビニの敷地内に女性の怒号が響き渡った。
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