薄暗く光る電灯に群がる羽虫の羽音だけが、無人駅のホームに響いていた。
冬の寒空のなか、冷たいコンクリートの床で膝を抱えて座り込む金髪紫眼の吸血鬼は、話しかけた僕にくすんだ眼差しを返してくる。
「ねえ、なんでみなとはあたしがここにいるってわかったの? あんた、実は善良なファンに見せかけたリストーカーだったの?」
「そう思ってくれていいよ。君を探した僕の行動は、包み隠さず言うのなら配信者の言動にたいしてあれこれ口をだす『小さな親切大きなお世話』な杞憂ファンに近いものさ。そんな僕を警戒して、今この場でぶっ飛ばしてくれてもいい」
突き放される覚悟でこの場に来たことも、嘘ではない。
むしろ今ここで、戸牙子から拒絶されたほうが清々しいまである。
逃げ出した彼女を追いかけたのは、ただのお節介だ。
心配しただとか、助けたいとか、そんな綺麗事は言いたくない。
言えるわけがない。
誰かを助けることなんて、生半可な覚悟でできることではない。
自分の全てを捧げたって、誰かを助けることも、誰かを守ることも、やりきれないことのほうが多い。
僕が「助けたい」と思うのはただの自己満足であり、どうやったって叶えきれない願いだ。
だから、そうであるからこそ。
僕は自分の自惚れを理解しているから、願いや信念を曲げることはしない。
いや、むしろ自惚れていたことを自覚したのは、虹羽さんの説教臭い助言のおかげとも言える。
『周りにいる人がいつも助けてくれるとは限らないけど、『助けて』って自分からお願いしなかったら、声にすら気づかないんだよ』
ならばこそ。
「助けてほしい」と相手が言いやすい状況を作るのも、また必要なのではないかと僕は思う。
最初の一歩どころか、もっともっと小さい、半歩だけ歩み寄ることが、僕にできる精一杯の善意だ。
そんな愚直な想いが功を奏したのか、それともただの気まぐれだったのか。
目の前でへたり込むハーフヴァンプは、僕に対する警戒の色を無くし、顔をあげて悪い感情を無理やりかき消すように笑う。
「ははは……みなと、あなたとはこれからも友達でいたいなぁ」
「それは嬉しい提案だけど、桔梗トバラの一ファンとしている方が、そっち的にもいいんじゃないかな?」
「なに、あんたもうちの家族みたいに、あたしをボッチにさせるつもりなの? あーあ、ひどい友達だなぁ」
「いやいや、スキャンダルが危ういとは思わないの?」
「別に、あたしの秘密も裸も見たようなやつが今更、なにを怖気付いているのよ」
吹っ切れたように言いながらも、戸牙子の表情はまだ暗かった。
「ねえみなと、どうしてあたしは忘れられるのに、トバラは生きてるんだろうね」
「……君が、桔梗トバラとして頑張っていたからだと思う」
「頑張っていた……ね。でもそれって山査子戸牙子じゃなくて、トバラのことよね」
まるで、自分ではない何者かが勝手に動いてることを自嘲するように、戸牙子は続ける。
「百万人近い人間があたしを見てくれてるけど、あの人たちが見てるのは『桔梗トバラ』なの。どれだけあたしの姿に似せたアバターを作っても、どれだけ吸血鬼あるあるを組み込んだ設定でキャラ作りしていても、結局どれも、むなしいの」
「……それは」
「ひどいって思う? 嘘をついてるように思う? もちろん、リスナーは大事よ。あたしだって、人らしい心を持って、ネットの世界で生きているのだもの。あの画面の先にいるのは、決して会うことはできないけれど、たしかにそこにいる人間であることがわかっているからこそ、尊重を忘れることはないわ」
けれどそれは、Vtuberで配信者である、「桔梗トバラ」として。
決して、ハーフヴァンプである「山査子戸牙子」としてではなく。
ため息混じりに、彼女は小さくぼやく。
「あんたなら、わかるんじゃない? 半神半人のあんたなら、自分の中にある感情が人側なのか神側なのか、しっかり判別付いてる?」
無言のまま、彼女の紫の宝眼から放たれる真をついた眼差しに耐えられず、不意に眼が逸れる。
ミズチモードになっている時の僕は、倫理観がおかしくなる。
おかしく、とは人間視点での話だ。
僕らが平気でハエや蚊を叩き潰すのと同様に、神様からすれば人間はそこらへんにいる虫同然だ。
それは、どんな怪異であっても一緒。
自分より下等の存在を愛らしくは思っても、対等には並べない。
おもちゃを愛しても、おもちゃと自分の価値が一緒になるわけではない。
半神半人である僕も、ハーフヴァンプである戸牙子も。
僕らの持つ倫理観は、人とも怪異とも言い切れない、歪なものだ。
「あたしは、身内がほしいの。あたしをあたしだってわかってくれる人がいてくれないと、生きてたってむなしいだけなの。だからここで待ってたっていうのにさ、よりにもよって、みなとが最初に来るなんてね。もしかして、あんたがあたしのパパだったの?」
自虐を込めて言いのける姿があまりにも痛々しくて、彼女の気を和らげる方便をついてしまいたいぐらいだったが。
僕は、さらりと告げられた彼女の目的を聞き返すことにした。
「お父さんを待ってたの?」
「………あんた達がパパのことを妄想だって言ってた話、実は心の中では否定しきれなかったの。もう十年も前の話だし。けど多分、『信じたくない』が正しいのかも。そんなわけないって、気が走っちゃって、いつの間にかここへ来ちゃってた」
親友や家族のことを「そんなやついないでしょ?」と言われたのなら、あまりにも不謹慎な冗談すぎて縁を切ることも視野にいれるべきだ。
たとえそれが、事実であったとしても。
「どうして、この無人駅なの?」
「……ここで、お父さんとお別れをしたの」
「え、でもたしか気を失ったって言ってなかった?」
「帰りの電車に乗ろうとしたら、ちょうど終電が目の前で扉を閉めたあとだったの……。そこで『じゃあどっか泊まる?』って言われた時に、こう、ぱりんって」
ガラスが割れるような音で別れを表現した。
独特なセンスではあるが、彼女がこれまで何度も体験してきた意識が消える時のサインなのかもしれない。
「ここだったら、ここで待ってたら、お父さんはあたしに気付いて来てくれるって信じてたんだけど。現実はそんなに甘くないわね。待ち人来ず、来るはリスナーって、笑えないわね。結局あたしじゃなくて、トバラ目当てなんだから」
「……帰ろう、戸牙子」
箱庭から飛び出た世界に悲観し、絶望し、投げやりになっている戸牙子がたどる末路は、きっと他の吸血鬼と同じだろう。
そもそも、なぜ人間以上の能力を持つ彼らが、ある日突然いなかったように蒸発するのか。
その疑問に、長年世俗を眺めていたミズチも、自分の血筋にヴァンパイアハンターがいる姉さんも、口を揃えてこう言った。
――ずっと生きているのが、むなしくなるから――
「帰るって、どこによ」
「君の家にだよ」
「帰ったら、またあの大鬼に襲われるっていうのに? みなとは、あたしに死んでほしいの?」
「それでも、帰らないとだめだ」
「……はあ? ふざけないでよ……あんな家、帰る意味なんてないっ……!」
ずっと座り込んでいた戸牙子は、剣幕と共にゆらりと立ち上がる。
「あたしを捨てた親が住んでた家なんて……! あたしを閉じ込める家なんてっ! あんなクソ親がいた場所に帰るぐらいなら、ここで消える方がマシよ!」
「……思い出のなかで死ぬ方が良いって言いたいの?」
「悪いっ!? 十年以上閉じ込められた経験なんてあんたにはないでしょ!? 一度だけの大切な思い出の方が、あたしにとっては重要なのよ!」
ころころと、アメジストの涙が溢れ落ちる。
「それでも、君は帰らないとだめだ。君が死んで悲しむ人が大勢いるのに、見捨てることはできない」
「リスナーを人質にするんじゃないわよ! あたしがいなくなったところで、『引退したんだ』で終わりよ! 桔梗トバラはすぐネットの海で溺れて、みんなの記憶からいなくなるに決まってるじゃない!」
「……僕は、まだVtuberに関しては一週間程度しか触れていないけど、それでもあのジャンルの真髄は、キャラのガワだけじゃなくて、その中に宿る魂の魅力だと思ってる。桔梗トバラの中にいる山査子戸牙子が素敵な人だから、あれだけのリスナーがいるんだよ」
山査子戸牙子なくして、桔梗トバラはありえないのだ。
たとえトバラのガワだけが一人歩きしていようが、そうなるに至ったのは戸牙子の努力があってこそだ。
「帰るべき故郷なんだよ、あの家は。あそこでなければ、桔梗トバラは生き続けられないし、戸牙子も消えてしまう。あの家が、君の存在を消えずに残し続けてくれる、最後の砦なんだよ」
「……は? え、みなと、なにを言ってるの……?」
ぽかんと、さっきまでの剣幕が嘘のように呆れ顔になる。
そんな彼女に、真剣に答える。
「戸牙子、吸血鬼は必ず何かとの繋がりがなければ生きていられないんだ。そしてそれは、普通なら人間なんだよ。パートナーとなる人間の血を吸い続けることが、吸血鬼の存在証明でもあり、依代でもある。でも君は、違う」
ハーフヴァンプである戸牙子は、必ずしも血が必要なわけではない。
むしろ彼女が持つ不死性の強大さは、食事すらもいらないレベルだろう。
しかし、吸血鬼性が半分でもあるのなら、他の要因が‟怪異として”の存在を維持し続けるものとなっている。
「あの家なんだ、君をこの世に結びつけているのは。僕の周りにいる人の助言と、ミズチの神眼でようやく分かったよ」
「で、でも……あの家に帰ったら鬼が……」
「お父さんに会えるのに、ここで消えてしまっても良いのかい?」
戸牙子の目の色が、変わった。
仄暗い宝石が、一瞬だけ磨かれて光を宿したように。
さあ、ここからは賭けだ。
どれだけ方便をうまく使って、どうにかして屁理屈を通して、もっともらしい真実に見せるか。
交渉人として、本気で仕事をやり遂げろ。
「お、お父さんと、会えるの……?」
「少なくとも、ここで待ってたら会える未来はないよ。なら、自分から会いに行くしかない」
「会いにって、どこにいるのかなんて分からないのに……?」
「僕が案内するよ」
「わ、わかるの!?」
「いや、正確に言うと僕は仲介役だけどね。でもまあ、なんというかさ」
僕は自分のジャケットを脱いで、戸牙子に羽織らせる。
「大好きな人に会いに行くのにその格好はまずいでしょ? お色直しした方がいいよ」
言われて、彼女はともすれば露出狂に間違えられてもおかしくないぐらい、自分の服がジャングルを駆け抜けてきた病人のような装いであることを自覚し、僕の上着をきゅっと掴みながらりんごのように赤面する。
包み隠さず表現するなら、いろんなところが擦り切れて、服の穴から見せてはいけない部分が覗いている、スーパーダメージデザインとなっていた。
「ミイラみたいでカッコいいって思うなら、このまま直行してもいいけど」
「か、帰ります……」
さすがの吸血鬼といえども、女の子としての恥じらいはあったことに、僕はこれ以上ないぐらい安心したのだった。
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