明かりのない深夜の山奥で、整備もされていない道なき道を手探りで登っていくのは、苦しい道のりだった。
それでも、辿り着いた先で戸牙子の姿を見ただけで、その苦しさは一瞬で安堵に塗り変わった。
「戸牙子!」
泥と砂まみれになったことも気にせず、杭の側で倒れている彼女のそばへ走った。
風呂場で攫われたから当然と言えば当然で、彼女は服を着ていない。
一糸まとわぬ全裸であり、色白で絹のようにきめ細かな柔肌は湿り気を帯びており、妙に艶めかしい。
僕と同い年だとして、女子高生らしく年相応に膨らんだ乳房は美しい曲線をえがいており、濡れている金髪も合わさり扇情的だ。
男であれば、生まれたままの姿で無防備に倒れている戸牙子を見るだけで股座がいきり立つだろうし、女であれば芸術作品にも思える美しい体つきに嫉妬を覚えるだろう。
完璧すぎる女体美。
だが、人形のように美しい身体にひとつだけ、歪な傷あとが目立った。
いや、目立ったどころではなく、僕の興味はそこにしか向いていなかった。
形の整った乳房より、触り心地の良さそうな絹肌より、男の本能をくすぐる女の秘部より。
彼女の右胸と鎖骨の間に、無理やり掴まれたような傷から湧き出ている紫色の血に。
僕はどうしようもなく興奮してしまっていた。
なんとか情欲を抑え込むために、ジャケットを脱いで彼女の上半身にかぶせる。
気休めではあるが、目に入る毒は少なからず抑えられるだろう。
「戸牙子! 起きて!」
座り込んで彼女の肩を揺すると、ゆっくりと目を開けてこちらを見据えたことにどうしようもないほど、安心した。
「あれ……みな、と?」
「そう! 神楽坂みなとだよ! マーキュリーコンビの、銀の殺し屋の弟の、なりそこないの神様のみなとだよ!」
「あたし……さっき、なにかに、襲われて……」
「だから、追ってきた! 助けに来たんだよ!」
まだ朦朧としている彼女の目を覚まさせるため、なるべく声を上げていたら少しずつ状況を把握できたのか、吸血鬼はゆるりと体を起こして、辺りを見回し始める。
「助けに……きて、くれたの……?」
「当たり前じゃないか!」
「覚えて……くれてたの……?」
「忘れないって約束したでしょ!」
焦燥のせいで僕が叫び、怒られたと勘違いしたのか、戸牙子は顔をぐしゃぐしゃに歪ませてぼろぼろと涙を流し始めた。
「ひっ、ひっ……ひぐゅっ……うえぇぇ……」
ぐりぐりと僕の胸板に頭を擦り付けながら、が細い嗚咽を漏らす。
そこでようやく、僕は戸牙子が恐怖から解放された安堵で泣いていることに気づかされた。
「大丈夫、大丈夫だよ戸牙子。いっぱい泣いて良いから」
彼女の背中に手を回してさすると、戸牙子の声にならない嗚咽は少しずつ大きくなっていき、泣き声になった。
赤ん坊のように、遠慮のない泣き声。
この山奥でなら、誰かに聞かれる心配はない。
と、思っていたのも束の間だった。
霧のような気配が、ゆらりゆらりと近寄ってきた。
「…………」
殺気とも違う。
これは、質が違う。
いや、ネガティブなものかと言われると、そうだと断定はしづらい。
怖いとも、恐ろしいとも言い難い。
もっと別の感情。
暗くもなく、黒くもなく。
けれどひとつだけ確かなことが言えるなら。
近寄ってくる気配が持っている雰囲気には、敵意はあっても、それ以上の憂慮が混ざっているように感じられた。
何かを、心配している?
「あ、あいつ……! あいつが、あたしをさらったの!」
戸牙子が僕の体に隠れるように密着して、近寄る存在から遠ざかろうとする。
それはおよそ2メートルはある巨躯で、誰でも分かるような特徴として、ツノがあった。
額からしなるような形で伸び上がる、2本の角。
まるで、鬼だ。
山暮らしを続けているのか、着ている和服はぼろぼろに朽ちてずんぐりと隆起した筋肉が露出している。
暗闇の中でゆらめく赤い眼光が、無言のままこちらを射抜く。
へたり込んでいる戸牙子の前に出て、威嚇程度に彼を睨み返す。
神力はもうほとんど残っていない。
神眼も薄れかけており、せいぜい夜目が効く程度まで落ちていて、相手の生命力、強さを見抜けない。
けれど、彼は明らかに人外であり、異形であり、そして戸牙子を攫えるだけの力量があることはたしかだ。
ミズチモードが切れかけている、人間である僕では、敵わない。
だから、どうした。
そうだったら、逃げるのか?
あり得ないだろう。
推しを守るのに、理由なんていらないんだよ。
「戸牙子、時間を稼ぐから君は逃げて」
「に、逃げるって……みなとは、どうするのよ!?」
「残念なことに、僕は神様モードが終わり際だからさ。逃げる隙を稼ぐぐらいしか、できない」
「わかってる、それはさっき聞いたもの! だからどうするのって聞いたのよ! あなたはもういま、ほとんど人間なんでしょ!? あんなやつ相手にしたら――」
「いいから」
猶予を稼ぐことはできる。
なぜなら、僕はちょっと頑丈な人間だから。
普通の人間より、長く耐えられる。
そのほんのちょっとでも、死にかけながらも耐えて、耐え忍んで、死に耐えて。
時間を生み出すことができれば、戸牙子は吸血鬼の翼で逃げ切れるだろう。
ポケットからスマホを取り出して戸牙子に差し出す。
「ロックかけてないから。電話履歴にせわしなく並んでる結奈に電話したら、きっと助けてくれる」
「いやよ!」
「戸牙子、頼む」
「あなたを置いてくなんて、絶対いやっ! なんでみんな、あたしを置いてどっかへ行っちゃうのよ!?」
こちらを睨んでいた赤い眼光が、弱まった。
……弱まった?
まるで、戸牙子の悲痛な叫びに同調したような。
いや、同情したのか?
それとも。
彼女の言葉が、叫びが。
敵意に満ちた鬼の心に、響いたのか?
「迎えに来たんでしょ!? じゃあちゃんと連れて帰りなさいよ!」
「……君がひとりで帰れる保証ぐらいはする」
「そんな保証いらない! 一緒に帰らないと許さない!」
駄々っ子のようにごねながら、差し出したスマホを受け取らず、僕の服の裾を離さない。
そうこうしているうちに、目の前の鬼が一歩一歩、着実に迫ってくる。
僕は、右手を胸のそばに引いて、左手を腰の高さまで落として、構えを取る。
姉さん直伝、得物なしの素手で人外を相手にするときの特殊な構え。
――白式・天人花繚乱――
この型自体は教えてくれた姉さんも、姉さんの師匠から口伝で教わったものらしいから、完全に再現できるわけではない。
それでも、ただの人間が人外を相手にするときには、とりあえずこれで良いぐらいには洗練された型式。
洗練、というか。
もっと有体に言えば、強すぎる型。
より実践向きで、より殺傷的で、より相手を選ばない。
どんな人外であっても通用して、どんな異形であっても殺せる、らしい。
これを使っていた姉さんの師匠は、そもそも虹羽さんと並ぶほどの強者だったらしいからあまり参考にならないし、姉さんは「銃の方が慣れてる」といってほとんど使わないし、しかもこの型は名前に「白式」と付いているだけあって、自分の色系統が白系の者が向いていて、さらに種族が『人間』でないと使えないのだ。
だからこそ、異形特効が入る。
人間にしか使えない業だからこそ、人間以外を殺すためにしかない業だからこそ、すべての人外に通じてしまう型式。
限定特効、とも言うらしい。
本来ならそれは、種族が生まれ、長く根付いて、その間に紡がれた歴史により、見えないところから縛られるような形でしか成立しない、特殊な因果なのだ。
限定特効のたとえをあげるなら、「吸血鬼は日光に弱い」がわかりやすい。
あれは限定特効の最たる例だ。
克服しようものなら、吸血鬼性を捨てるしかないほどの、強烈で絶大な因果。
その因果を、「白式」はその場限りとはいえ、即興で生み出してしまう。
「僕は、青と緑と紫だから……得意じゃないけど……」
僕が無意識に使う力は、ミズチの力だ。
神様の力を簡単に使ってはいけない今の状態では、姉さんから教えてもらった人間業の方が、まだ遠慮なく使える。
先手必勝、悠長に歩み寄る鬼の体躯に向かって突進し、撫でるように手刀を走らせる。
だが。
届かなかった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!