「地獄耳っていうのはさ、悪い予感が当たる感覚と似てるんだよな。腹の底が煮えくり返る不愉快さが、どこからともなく現れてささやくんだ。みなとよぉ、あたしは忠告したよな? 『動くな』って」
「あ、巴さん……」
「お前、なんだよその目は」
「……め?」
「なんで青色になってんだよ、誰の血を吸ったんだ?」
目。瞳の色が、青色になっている?
それは、僕自身はすぐ確認できない。鏡に映して見なければならない部位であるせいで、瞬時に自覚できない。
すぐ隣にいる咲良に目配せしたら、彼女はこくこくと素早く頷いた。巴さんの言葉に嘘はないことを伝えてくる。
けれど、ミズチモードになった覚えなど、今の僕にはない。
「吸って、ない」
「じゃあ食ったな?」
「……何も、していない」
「何も知らないの間違いだろうがよぉ。ったく、言いつけを破るガキの面倒は見ねえって言ったよな?」
「……ごめん。けど僕は何もしてない」
「だからしたんだよ、お前は。あたしが『待ってろよ』って言ったのに動いた。約束を、契約を反故にしたんだよ。処女の血ならぬ、処女の魂を食って覚醒しちまった」
「処女の、魂……?」
「咲良の炎を食ったんだろ? いや、吸ったんだろうな。お前の性質は紛れもなく『吸精』だ。殺さず生かし続けたまま精力を食い続けて、自分の養分にするんだろ」
「いや、僕は血を吸わないと取り込めない……!」
「吸血なら、そうだろうさ。けどお前はヴァンパイアとは違う。周りにいる者のエネルギーを際限なく吸い続けて、糧にできる。触れたやつから吸い取るだけでなく、人身御供みたいに捧げられる。神様だから当然だな」
「そんな、意図してやったことじゃないよ……!」
触れただけで桜火が静まったことに、疑問がなかったわけじゃない。
けれどそれが、「自分が吸ったから」だなんて。
それに、食べるために言いつけを破ったわけじゃない。
ただ単純に、桜火の発現を止めなければならなかったから。あれに気付けるのは僕だけだから。
「関係ねえよ、なんであたしが警告したのかを思慮せずに、自分最優先で動いた結果がそれなんだよ」
「……待ってよ巴さん、自分優先なんていうのは違う。咲良が不良に絡まれてて、しかも桜火まで出かけていたんだ。あれを放置したら……」
「自業自得だ」
さらりと、片手で抱えていた海女露さんを解放しながら、もう片方の手にある白い刀を肩にかけて、興味のないものを淡々と語るように続ける。
「赤信号、みんなで渡れば全滅だ。運も頭も足りなかった野次馬根性の不良がたどる道なんぞ、焼死がお似合いってこった」
「……本気で言ってる?」
「あたしが嘘をつくと思うか?」
「そうだね、巴さんはつかない。だからこそ聞いてる、そんなこと本気で思ってるのかって」
「思ってる」
煮えくり返る感情の渦を、こぼれでないように腹の底で押さえ込む。神経を疑う物言いに、怒気が沸き立つ。
「咲良がもし彼らを燃やして殺していたら、この事件が表沙汰になってしまう。一般人を巻き込んだことになって、ただじゃ済まなくなる」
「だから?」
「……だからってなに」
「その不良数人の命で、裏社会の事情が明るみに出るわけねえだろ。そいつらの価値なんざ、みなと、お前の一挙一動より軽いんだよ」
「言って良いことと、悪いことがある」
「それはお前の価値観だ」
「違う、人間のだ。巴さんのそれは、化け物の価値観だ」
「だろうな。お前が言うから説得力がある」
嘆息。深呼吸して、はち切れそうになった堪忍袋の熱を冷やし、もう一度だけ対話を試みる。
「間違ったことはしていない」
「だが過ちは犯した」
「何も知らない人たちの命が助かったのなら、犯した価値はある」
「ならその犯した罪はお前の命と等価交換だ、ミナトミヅチ。初めてのご対面だなぁ? 竜にならねえのか?」
殺気が舞う。海女露さんは吹き飛ばされたように離れて巴さんに向かって首を垂れ、咲良は腰をぬかしてベンチからずり落ちた。
鋼鉄のように重く、研ぎ終えた刃のように鋭利な殺意。
僕自身、立っているのがやっとだ。巴さんの目を直視することができないほど、真に迫る眼光だった。
「巴さん、ミナトミヅチっていうのは?」
「聞きたいか?」
「教えてくれるの?」
「お前に覚悟があるならな」
「それは、すごく舐められてるね」
「当然だな。お前がロゼ並みに強かったなら、こんな情けをかける暇もねえからな」
「僕が、完全なミズチモードになったとしても?」
「残念ながら、この世はチートでどうこうなるわけねえんだ。用意された世界に存在するプログラムなんざ、中身を壊せばいくらでも穴はある。みなと、所詮お前は世界の力に頼る凡人なんだよ」
「そんな凡人相手に、巴さんはどうしてここまで親身になるのかな。普通なら、覚醒状態になった僕を放置しないはずでしょ?」
「遺言を聞いておく流儀なんでな」
「そうか、そうかぁ。プロの殺し屋だけあって、ポリシーが明確だね。姉さんとは真逆だけど」
「結奈は、なんだっけか。殺すなら手早くだっけか?」
「苦しめずにだよ。その点、巴さんは脅しが過ぎて、たちが悪い」
「言われる筋合いはねえな。ま、顧客アンケートとして受け取っておくわ」
「ははっ……思わず笑ったよ。参考にされるときが来るのかどうか」
「いつかは来るんじゃね? 物覚えが悪いあたしでも、身内を殺すのはさすがに心を痛めるからな」
ケラケラと笑った。
飄々と何も思っていないように、世間話のように言うその姿があまりにも、おかしい。
この世の者ではない、別の何かと会話している気分だった。
「昔から、そうだ」
「ん?」
「巴さん、あなたはいつもそうだった。自分本位で、自分が絶対で、自分がすべて。ノーマンに容赦せず、隷属するまで懲らしめて、ただただ恐怖で従わせる。その在り方が輝かしくて、まぶしかった。僕には絶対できないことで、賛同できないことだけど、尊重はしていたし、尊敬もしていた。けれど今だけは、違う」
数歩進んで真正面から向かい合う。
「今だけ、本当に今だけ。この一瞬だけは、あなたが嫌いだ、巴さん」
「あたしはお前が好きだ」
「知ってる」
~~~~~~~
第六感が鳴らす警鐘、嵐に揉まれるようなうるさい波音。脳の水が浮き沈みする感覚で酔いそうになる。
本能はこの場からの逃避を望んでいるが、逃げ出したところで、どうにかなるわけがない。
プロの暗殺者から、姉さんの師匠から、この僕が逃げ切れるはずがない。
なるべくしてなったことだと。
先延ばしにしていた死期がやってきただけだと。
仕方ないことだと。
僕の本能は恐れに包まれていても、理性はどこか安らかに現状を把握していた。
断頭台へと進むよう、歩みを進める。
処刑人のもとへ、母親代わりとなってくれた人のもとへ。
「最後の最後に巴さんを裏切ってしまったことを、謝るよ」
「ずっと従順でいられるのも困るしな、子供は独り立ちしてなんぼだ。けどケジメっつーのは、親代わりのあたしがつけてやる」
雪のような結晶に包まれる、白く輝く刀を肩から下ろした。
刃渡りが見える刀で介錯してくれるのは、せめてもの温情なのだろうか。
「ま、待ってよ!」
咄嗟に放たれた幼馴染みの声は、喉奥からひりだすような切羽詰まったものだった。
「二人とも、今から何をしようとしてるの!」
「処刑だ」
巴さんが僕の代わりに答え、咲良の声はさらにうわずる。
「しょ、処刑って……! 巴さん、どうしてそんなことができるの!? みなと君は家族なんでしょ!」
「家族だからだ。こいつを裁いてやれるのはあたしぐらいだ」
「裁くって、みなと君が何かしたって言うの!? 私を助けに来てくれただけなんだよ!」
「咲良、お前の悪い癖は『知らないフリして良い子ちゃんぶる』ことだと、あたしは前々から思ってる。お前みたいに察しの良いやつがそうやって無知を使った責め方をするのは、確かに賢いんだろうけどよ? だからってな、無知を言い訳に罪を許すことなんてできるわけねえだろ?」
「……それは!」
「そうだ、それだけだったら反論したくなる気持ちもわかる。けど違うんだよ。ただの無知で犯した罪だったんなら、情状酌量の余地もあったんだろうさ」
巴さんが一歩ずつ、歩み寄ってくる。肩から下ろした白刀の切っ先で指さすように僕へ向ける。
「けどこいつは、ミナトミヅチっていうのは、『自らの意思で大罪を犯した』からやばいんだよ。その時の記憶もすべてなかったことにして、罰を逃れ続けている。だからあたしは、あたし達はずっと待っていた。こいつが神楽坂みなとではなく、ミナトミヅチへ戻る瞬間っていうのをな」
「……戻る? それってどういう意味なの、私はそんなこと、みなと君から聞いていないよ?」
「そりゃあお前、犯罪者本人がすべてをつまびらかに話すと思うか? 罪を逃れるためにいくらでも言い訳するだろうが? 咲良、お前はみなとが本当にすべて話したと思ってるのかよ。幼馴染みだからって、家族みたいに大切な人だからって、言えないことのひとつやふたつあるもんだろうが。家族と不和なお前に、思い当たらねえとは言わせねえぞ」
夜風と葉擦れの音が空虚に流れていく。
振り返ることはできなかった。咲良がどんな表情をしているのかを確認することができず、ただひたすらに沈黙が続く。
「……みなと君」
数分にも感じられる静寂を破ったのは、疑心の詰まったか細い声だった。
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