『まったくのう、危なっかしくて見ておれんよ』
頭の後ろに、透き通る水のような声が響いた。
振り返ってみると、犬もどきの針が空中で停滞していた。
水がはじけたような音は、僕の肉がえぐられた音などではなく。
僕の後ろで、針のような舌が水の中に飛び込んで、空中で制止した音だった。
『戦い方を知らんやつが出しゃばるものではないぞ? お前さんに任せるのは不安じゃ、わしに任せい』
……え?
『え、ではないぞ、我が主人よ。丁度いい犬がおるんじゃ、全力を出して暴れたいと思うのは性じゃろう?』
あれ、これ、頭の中に響いてるのか?
声は聞こえているが、下水路の壁に反響しているような音が聞こえない。
さらに、思考に返答してくるような口振りからしても、声を出さずとも脳内で会話ができるだろうか?
『えっと、もしかして、僕の中にいる神様ですか?』
『素っ頓狂なことを聞くのぉ。それ以外に何があるんじゃ。お前さんは契りを交わした初心な女の声すら忘れてしまうのか?』
『いや……その言い方、ちょっと語弊があると思うんだけど!』
『ありはせん、わしとお前さんは一心同体の一蓮托生じゃ。禁忌の誓いを反故にするなぞ、昨今の夫婦じゃないんだから、潔く受け入れるのじゃな』
『昨今の夫婦事情を知ってるとか、まあまあ世俗に浸ってる神様ですね……』
尊大な神様かと思ってたけど、わりと接しやすい……?
『夫婦漫才はこれぐらいにしようかの。それで、みなと、で合ってるかの?』
『あ、はい。神楽坂みなとです』
『やつは、わしらとは別の神を守る忠犬の、なりそこないじゃ。少なくとも、わしの力をちょっと奪った程度のお前さんでは、まず太刀打ちできん』
『それは、悔しいですが……わかります』
『じゃからな、わしの神格を前面に押し出しつつ、殺し方をお前さんの手に馴染ませよう。下手に意識せずとも、お前さんの体があやつを消すために自然と動いてくれる』
『……神様。それは、代償があるんじゃないんですか?』
『ほほう、さすがに痛い目を見て学んだか』
『さっきみたいに周りのものすべてを食い荒らそうとしてしまったら、取り返しがつかないです。だから……』
『心配するでないぞ。先ほど食った菓子が非常にうまかったから、わしは今機嫌がいいのじゃよ。何かを求めようなどとは思っておらん、むしろ戦いたい気分を邪魔するのなら、いじけてしまうぞ?』
いじけるって、まるで戦闘狂のような言い分だ。
けれど、菓子ってなんのことだろう。神様は「食った」と言っているが、僕がさっき食べたものなんて……。
『菓子って……ガラス瓶に入ってたわたあめみたいな雲のこと?』
『そうそう、いやはや美味かった。薬を打たれたように最高の気分なのじゃ』
『やばくないですかそれ、全身が痺れるような快感がありましたけど本当に麻薬だったりしません?』
『まぁわしにとってはそうかもしれんが、お前さんにとっては…………』
声が途絶えた。
というか、無言なだけ?
『……え、ちょっと! なんで黙るんですか! ねぇ! ほんとに大丈夫なんですよね!?』
『ま、まぁまぁまぁ! とりあえずな! 力を合わせてあのわんこを倒そう、な!?』
『ごまかされたっ! めっちゃ偉大で尊大な神様にはぐらかされたんですけど!? ……というか、そうですよ、忘れてました』
『ん? なんじゃ』
『神様、あなたの名前を教えてもらえませんか? 僕はあなたのこと、なんて呼べば良いでしょう?』
『……変わり者よのう。裏から見ていて不思議におもってたのだが、その名前を聞きたがる癖は昔からなのか?』
『まあそんな感じです。教えてもらったことが、ずっと残ってるんです』
『ミズチ』
あまりにもさらりと言われ、聞き逃しかけた。
『何度も言わん。わしらにとって名前は、さらされてよいものばかりではない。お前さんもそれを、重々理解しておくようにの』
『……分かりました、他言無用ですね。では、改めてお願いをします』
ゆっくり深呼吸し、恐怖を振り払って気を持ち直す。
『ミズチ。あいつを倒すために、僕に力を貸してください』
『ふふふふ、よい。我が主のために応えてやろう、このミズチがな』
神様の澄んだ声が、どろりとした液体で塗るように僕の意識を上書きする。
『神に歯向かった犬に、躾をしてやろう』
その口上と共に、僕の理性は消え去った。
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