「なんじゃ、お前さんも気付いたのか」
脳内でミズチが語り掛けてくる。
「これなのか? 昨日言ってた匂いってのは」
「ああ。じゃがお前さんが気付くほどとは、よほど強まっているのじゃろうな」
「しまった、ごめんミズチ。この件を姉さんに聞くの忘れてた」
「バタバタしておったしな、仕方あるまいて」
怪異であり、水の神様であるミズチならともかく、怪異もどきな僕が気付いてしまうのはそれこそ本格的にまずいというか。
……煤?
いや待て、確か巴さんは「赤い灰」を追っていると言っていたような。
灰というのは、燃焼した物体の残りかすだ。
ならば、煤の匂いが近くにあるということは。
赤い灰も、近くにある可能性が高い。
「……連絡する方がいいかもね」
「じゃがお前さん、結奈はたしか遠出すると言っておらんかったか?」
「やべ、そうだった……」
姉さんは急遽出張が入ったとかで、明日まで帰ってこない。
「朝八時までは電話に出られないからね」と報告してきたあたり、携帯の電源をオフにするほどの激務なのだろう。
となると、この件を今すぐ調査するのは無理そうか。
「僕の独断で動いたら、さすがに怒られるよな……。方舟に持ち帰るか」
「おいおいみなと、それはいかがなものかと思うぞ?」
「え、なんでさ」
「赤い灰の件を知っているのは、わしらだけじゃ。結奈と、灰朧の巴と、お前さんだけ。もちろん方舟も扱っている件かもしれんが、確証がない情報を渡してしまうのはまずいじゃろ」
ふうむ、なるほど。
目くらましをかけてまで巴さんが渡してきた情報なわけだし、秘匿性の高いものを僕の独断で扱うのはまずいかもな。
姉さんと相談して、二人でどうするか決めた方が良い。
そうする方が良いのは、分かっているが。
「……匂いだけ辿ってみていい? ボヤが起きてたらまずいでしょ」
「場所だけ特定したいと、そういうことかの?」
「うん。協力してもらってもいい?」
「いや、多分いらんぞ。わしに匂いを辿ってほしいんじゃろうが、お前さんの鼻が捉えた時点でことはすでに動いておるようなもんじゃ、自分一人で探せるじゃろ」
噛み殺すような長い欠伸が、脳内で聞こえてきて、移りそうになる。
「くあぁ……わし今日は眠いんじゃ。先におねむさせてもらうぞ」
「あ、そうですか……」
悠々自適、というか多分この眠そうな感じは。
僕の心臓を肩代わりしている分だろう。
ちなみに、右腕を受肉してからミズチは眠っている時間が、前より数時間短くなった。
受肉以前は一日十八時間近く眠っていたが、今は半日程度である。
それでも長いことに変わりないが、タイミングが良好なら呼べば起きてくれたりする。
が、実は寝ぼけが酷い時も多い。
この前なんか、「ミズチー」と呼んだら体が浮いた時もあったからな。
呼ばれたから体を起こそうとして、間違えて僕まで浮遊させるというとんでもないことをやらかした。
家の中だったから良かったが、あれが外だったらまず間違いなくバレる。怪異であることが怪異側の者にバレまくる。
実は一般人なら「大道芸です」とか「タネも仕掛けもございません」で乗り切れたりするのだが、怪異側には誤魔化しが効かない。
「ああ、こっち側か」と、一瞬で看破される。
とまあ、現在の身体状況を振り返りはしたが、つまるところミズチには何もない時はできるだけ寝ていて欲しいわけで。
「起こすんじゃないぞぉ。また寝ぼけでやらかして、結奈にこっぴどく叱られるのは嫌じゃ。おやすみ」
「はいはい、おやすみ」
就寝の挨拶を適当に済ませ、僕は一度自分の家へ戻り、ミズチの鱗が付いたネックレスだけ首にかけて外へ出かけた。
異物の炎が燃える、煤の匂いを辿って歩く。
歩いて、歩いて、歩いた先。
匂いの発生源は、公園だった。
僕がグロウと戦闘をして、遊具や地面がぼろぼろになった公園。
まだ完全に修復はされておらず、「改装中」の看板と公園の出入り口に気休めのテーピングがされており、立ち入り禁止になっている。
その公園にある一つの木が。
燃え朽ちていた。
完全に燃えたあとだ、燃え終わっている。
いや、並んでいる木の一本が無くなっているだけで、そう判断するのは早計かもしれないが。
その木の下には、赤色の灰の山があったのだ。
火の色よりは薄いが、桜色よりは濃い。
朱色、とでも例えるのがいいだろうか。
しかしもう一つ不自然な存在が居た。
立ち入り禁止にされている公園で、赤い灰を訝しんで見ている人。
白色のジャケットと黒のパンツを着こなす、中年らしき男性が灰のそばで座り込んで、首を傾げていた。
子供ならまだしも、ただの知的好奇心で立ち入り禁止区域にされているところまで入り込む、大の大人がいるだろうか。
となると、あれは間違いなく、あの灰について何か知っている人間だ。
彼を人間だと断定できるのは、ミズチ譲りの「神眼」があるからだ。
受肉してからというもの、平常時でも神眼がわずかに機能していたりする。
人の姿をしている怪異はいくらでもいる。だが、その身に宿る本質まで騙せはしない。
……どうしたものか。
灰がある場所の特定はできたけれど、もしあの男性が怪異側に関係しているのであれば、そのまま放置する可能性は低いだろう。
痕跡や証拠を隠滅するのは、僕たち方舟のような怪異側に寄り添う人間の仕事でもあるからだ。
だからといって、写真だけ撮ってこの場を退散しても、灰が無くなっていたらそれなりに問題かもしれない。
まあ、知らないふりするのが苦手なんだろうな、僕。
やぶ蛇かもしれないが、一般人のふりをして聞き出せそうなことだけ、聞いてみようか?
そろりそろりと近づいて、声をかける。
「こんにちはー……」
「うおびっくりしたっ!」
できるだけ驚かさないように、細心の注意をはらいながら小声で話しかけたが、かなり驚かれた。
「ほわービビった、なんや兄ちゃん、今ここは立ち入り禁止やで?」
「あ、そうですね……」
その立ち入り禁止区域にいるあなたはどうなんでしょう。
というかここを立ち入り禁止になるまでぼろぼろにしてしまったのが僕なんですけどね。
「好奇心は猫をも殺すなんて言うやろ。カタギはあんまり面倒事に首突っ込んまん方がええで?」
「お、お兄さんはそういう人なんです……?」
「似たようなもんやな、まあ安心せいよ、取って食ったりはせんから」
関西弁で銀髪の彼はにかっと笑う。
爽やかな笑みで、見ているだけで心地良い。
豪胆無比、そんな言葉が似合いそうだ。
「君も、この灰が気になるんか?」
「ええっと、まあそうですね。なんか煤くさくて来てみたら、いつもあった木が無くなっているのが見えて、気になったんで」
「ああ、ここら辺に住んでるんか。まあちっと前からここら一体、不思議なことばっかり起きてるもんな」
「そうですね、公園もこんなにぼろぼろになってるし、何か事件があったんじゃないかって気になって。でもニュースとかでは報道されてませんし、不安と言いますか……」
「あーせやろな。しかも『何かあった』って疑わしき公園に、こんなおじさんが居るんやもんな、そりゃ気になるわな」
「い、いえいえおじさんなんて歳に見えませんよ? お兄さんですよ」
「ほう、嬉しいこと言ってくれるやん! やっぱ髭剃ったら若う見られるもんやな!」
彼は屈託のない笑みを浮かべて豪胆に笑う。竹を割ったような人柄だ。
「その、刑事さんか探偵さんですか……?」
「せやな、似たようなもんや」
「この赤い灰について、知ってたりすることってありますか? ある程度、安心できるだけの判断材料が欲しいと言いますか」
「……なんやて?」
突然、彼の声色が変わる。
三十後半を思わせる男の凄みが、顔色にも現れ始め、先ほどまでの清らかさが一瞬で冷酷さに成り果てる。
「兄ちゃん、お前この灰が、赤色に見えるんか?」
……しまった。
見える、見えている。この灰が赤色であると。
だがそれは見えるというより、見抜いていると言う方が正しい。
物に宿っている神性、生命力、もっと有り体に言うならエネルギーを。
人間の眼ではなく。神眼で。
真を見抜く眼で、ただの灰に宿っている赤の性質を、僕は無意識に見据えてしまっていた。
「なにだまっとんねん、はよ答えな」
「……見えます」
「ほうか、いやはやどうにも食いつきが早いとは思ったんや。俺以外で追ってるやつがいるわけないしなぁ。お前、怪異か?」
走る、走る、殺気が走る。
走る、走る、冷汗が走る。
「沈黙はイエスってことになるんやけどなぁ」
「……あなたは?」
「なんや、俺の名前でも聞きたいんか?」
「はい、そうです」
「なら自分から言えや。それとも怪異には人間の礼儀ってもんがわからんのか?」
「神楽坂みなと、です」
「ほうか、神楽坂……神楽坂みなと……かぐらざか……」
ぴたりと、僕の名前を復唱していたと思ったら、全ての動が止まった。
固まったまま、静寂が公園内を数秒駆け巡る。
「はあっ!?」
彼の驚嘆で時間の静止が解き放たれ、公園中に響き渡り、留まっていた小鳥たちが一斉にどこかへ飛んでいった。
「あ、お、おまえかあ……!」
「……こっちの業界だと名が知られているんで、あまり言いたくはなかったんですけどね」
「あ、いやまあそうやな……そうかぁ……」
「それで、あなたのお名前は?」
「いや待て! 取引って言ったがマジでこれは俺が悪かった、謝る! だから一瞬だけ見逃してくれ!」
「え、ええ? どういうことです?」
「必ず、俺の名前はいつかちゃんと教える! 借金の踏み倒しみたいな真似はせん! だから今だけは知らないフリしてもらえんかな、みなと君!」
めちゃくちゃ必死である。
その場で綺麗な土下座まで始めたぞ、外なのに額を地面に擦り付けられるって、誠意を感じる。
なんだろう、もしかして指名手配でもされているのかな?
「あー、良いですよ全然。僕が名前を聞くのは癖みたいなものなんで。どちらかというと僕が聞きたかったのは、『ここであなたは何をしていたのか』なんで……」
「そ、そうなんか! いやはやマジですまんな! これはおじさんの早とちりだったわ! みなと君の厚意に感謝するで!」
僕は別に、ここまで畏まられるほどの人間じゃないんだけどな。
彼は自分のことをおじさんとは言うけれど、間違っても虹羽さんみたいな胡散臭いタイプじゃなくて、イケおじって雰囲気だ。
先程の冷然とした殺気は、さすがに肝が冷えたが。
そうして、銀色に近い灰髪を逆立てたイケおじは、姿勢を土下座からあぐらに戻して、僕に状況説明を始めた。
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