「おい若人のお二人さんよ、そろそろあたしにも構ってくれねえと困るな?」
巴さんが茶化すように言いながら、いつの間にか、その手に自分の得物を入れている竹刀袋を握っていた。つい先ほどまでは手ぶらだったというのに、どこから取り出したのだろう。
「あ……すみません、巴様。準備はできましたので、いつでも潜れます」
海女露さんが申し訳なさそうに謝罪する姿が僕への対応とあまりにも乖離しすぎていて、同一人物なのか疑ってしまう。
多重人格かと信じてしまう方が僕の気が楽になりそうだが、そんな海女露さんは自分の口に指を突っ込んで、味が消えていそうな白いガムを取り出した。
口端を伝った唾液に妙な艶めかしさがあり、中学生ぐらいの外見年齢に似つかわしくない色気にどきりと心臓が跳ねる。
そう、例えるならロゼさんの魅了に近いような、得も言われぬ高鳴りが腹の底で湧き上がる。
しかしそのあと、彼女はさらに辺りの人間を漏れなく見蕩れさせる行動に出た。
歌。
夜の海に呼応するような、さざ波に乗る静かな歌声が、辺りを満たした。
思わず、それの出所が海女露さんである事実に気付くのが遅れるぐらい、心を奪い去るほどの、魅惑的で圧倒される聲だった。
ポップな音楽が好きそうな印象を受けたというのに、彼女の喉から、口から、心から放たれるリズムはどこまでも深く澄んだ音色だ。
オペラのようにも聞こえるし、ヴォカリーズといった、母音だけで紡がれる歌い方にも聞こえる。
どう言い表せばいいのか分からない唄い方。
僕たち人間の知らない言語で形成されているというか、もっと掘り下げて正確に例えるなら、「音」の形をうまく乗せるための音程と発声。
音楽としての原初に近い、喉から生まれ出る生粋の音色だけを意識して集約した、音の歌。
誰にもその中に込められた意味は理解できず、誰もがその中に込められた感情に共感できる音楽。
海女露さんの澄み渡るような深い声音に乗せられた歌が、酔いしれる音の魔力となって、じわりと胸に染み込んでくる。
そして、彼女は歌いながら手に持っていたガムを、チェーンで描いた地面のサークルに落とした。
それは、音もなく消えた。
口の中で噛める程度の大きさのガムが落下したところで、衝突音はないのかもしれない。海女露さんの歌声で僅かな落下音がかき消されたのかもしれない。
だが、そうではなかったのだ。
宙から落とされたガムは、サークルの中心、固い地面の砂地に、音も出さず沈み込んでいったのだ。
まるで底なし沼に沈み込むかのごとく、波紋を広げずにずぶりと。
落としたガムが完全に消えたあと、海女露さんは歌を止めて巴さんの方へ向き直った。
「七分です。それ以上は自己責任でお願いします」
「へえ? メロ、お前そんな長時間も『繋ぎ』ができるようになってたんだな? 成長してんじゃないか」
「ま、まあその……方舟のおかげです。私の実力ではどうにもできなかった部分を、あそこが作った道具のおかげで出来てるだけですから……」
「んな卑屈になるなよ。昔のメロ自身と比べたら実力が上がってるから、できてるんだよ」
「……ありがとうございます、巴様」
海女露さんは軽い会釈で照れ臭そうに、そして嬉しそうな声色で感謝を告げた。前髪で隠れた顔の端がほんのり赤くなっている。
待てよ、いま「方舟」の道具って言ってたな?
「あの、海女露さんはやっぱりうちの方舟ともそれなりに関係があるんですか?」
「それは、一応『錨』からすれば『方舟』は上位組織だし。なに、そんなことも知らないの?」
「ご、ごめんなさい……本当に数ヶ月前に入ったばかりで色々勉強中というか……」
呆れ果てられた。
本当は方舟内の情報に触れさせてもらえないというか、許可制であるため自由に調べられないというのが実情なのだが、それを言ったらまるで言い訳みたいに聞こえそうなので口をつぐむ。すると、意外にも巴さんの方が見かねたように口を開いた。
「メロ、お前は方舟内でみなとがどういう扱いされてるのか知ってるのか?」
「え、監視ですよね?」
「ちげえわ、軟禁だよ。もっとも、勢力争いの牽制用に自由に歩かせてるところもありはするが、こいつ自身が得られる情報を徹底的に閉じられてるんだよ。そうだな、例えるなら白人専用の施設や環境が溢れかえっていた時代で、みなとは黒人って感じか。自由に歩けはしても、すべては知り得ない。方舟のなかですら、みなとだけ腫れ物扱い、ってことだ」
「……そう、だったんですね」
萎縮しながら海女露さんがちらりと僕を見る。素直になりきれず、苦虫をかみつぶすような表情になりながらも、彼女はか細く呟いた。
「その……これからもう少し考えて口にするわ、ドMさん」
「確かに変態や童貞から比べたらずいぶんマイルドな言葉に進化してますけども、罵倒であることに変わりはないですねぇ!?」
きっと嫌悪感のレベルは変わっていないようだが、自分の無知を恥じて謝れるところから見ても、倫理観はしっかりしているのだろう。彼女は少しばかり毒舌で直球な女の子であるということにしよう。
いや、まあ差別扱いされるだけのことをしたという自覚はあるつもりだったが、どうやらこれまで話してきた人たちが予想以上に、僕に対して優しすぎたのだと気付かされた。
僕と同じような、怪異の立場でものを考えられる人が多かったというのも、理由の一つだろう。
普通は、海女露さんのような冷たい反応をされて当たり前なのだ。童貞扱いは真実であるが故に泣きそうになるが、全世界に童貞であることが露見しているというのは、どうしてなのか、逆に面白くなってくる。
悪名は無名に勝るとは、果たして誰の言葉なのだろう。生み出したやつに文句を言いたいと思いながらも、気負いを減らしてくれる格言だ。
そして、巴さんが葉巻を携帯灰皿にしまいながら、ウォッカの瓶をジャケットの裏側にしまう。
ちらりと見えた携帯灰皿が、昔僕のプレゼントしたものであることに少しばかり嬉しさを覚えたが、どうやら彼女はそこまで悠長にしている暇はないようで、竹刀袋を開けて中から何かを掴む。
右手の五本指に異なる色の結晶を持つ指輪のすべてが、煌々と輝き始める。
朱、蒼、碧、金、菫。
ワインレッド、コバルトブルー、エメラルドグリーン、ゴールド、ヴァイオレット。
宝石群が宿主の覇気に呼応するように、夜闇の無から光を生み出す。
色というのが己の能力と本質を露わにする根源色というのなら、彼女の立ち姿は「すべての色を統べた人間」のようだった。
すべての色が、本質が、性質が。
彼女に服従し、恭順している。
しかし見えない。本質を見抜く神眼でも、どんなものでも見透かす神様の目でも、彼女のそれだけは見透かせない。
巴さんの取り出した得物は、持ち方や刃渡りからそれとなく刀だと推察できても、一体どういった刀なのか、どういう性質を持っているのか、分からない。
理解できないものへの印象というのは、決まっているのではないかと思う。
息を忘れる不気味さ。奮い立たせられる鬼気。悪寒が皮を剥ぎにくる恐怖。未知が脳髄をこねくり回す気色悪さ。
僕が本気を出しても、ミズチに全身を明け渡しても、この世の者ではないものと取り引きしたとしても。
灰蝋巴に適うことはないと、分かりきってしまう。
「ええっとなんだっけかな、あいつの世界の合言葉……あんまり長くなかった気はするんだけどな……」
ぶつぶつ独り言を言いながら巴さんは手を下げて、海女露さんがガムを落とした鎖の円の中心に、ドアをノックするような素振りで剣尖らしき部位をこつこつと当てた。
「空と宇宙の狭間に、極彩色のまほろばを。されどその夢は雲の現世に。無色の常世に影と光の憐れみを」
瞬間、あたりの空気がざわついた。
風が吹いたわけでも、地震が起きたわけでも、天気が急転したわけでもないのに、何か根本的な、根源的な何かが変わり果てた。
世界の反転。理の逆転。
重力、概念、常識。
そういった普遍の存在たちが一瞬で塗り替えられたような、時が逆行したような錯覚に陥る。
頭の混乱が収まるより早く、おかしな現象が目の前で起こっていた。
海女露さんの作ったサークルの中、つまるところ本来はバスケットゴールの下にある砂地が、極彩色の雲に覆われていたのだ。
カラフルなわたあめのような雲海に敷き詰められた空間となっているそこへ、巴さんは迷いなく足を進めていた。
「と、巴さん!」
「んあ? なんだ?」
「え、もしかしてそこに入るの?」
「まあな、それがあたしの仕事だし。あ、お前はここでメロと一緒に居ろよ。あたしが帰ってくるまで動くんじゃねえぜ?」
ひらひらと手を振りながら、巴さんはその場で軽く二、三回ジャンプして、雲の中へ落下して姿を消した。
落ちるように見えたが、なぜか飛んでいくようにも見えた。飛び込んでいった先が本来なら空にある雲だから、というのもあるかもしれない。
だとしても、こんな異質な雲がこの世にあるわけないのだけれど。
「行っちゃった……」
呆然と呟いてしまった僕のそばで、海女露さんがゆっくり座る。
彼女の足首に巻いている鎖を動かしてはならないのか、その場であぐらになっていた。
正直に言うと、海女露さんと二人きりのこの状況、気まずい。
今日初対面で、しかも彼女の僕に対する評価と好感度は、きっと今まで出会ってきた人間の中で最低。
待つようにと言われたが、この場から離れたい願望と咲良を探しに行きたい使命感が大きかった。
「ねえ、君」
そんな風に一人で勝手に消えてしまった居心地を探していた中、海女露さんが話しかけてきた。
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