霞さんは、哀れな子を想うような声色で、語りかけながら私のことを抱きしめる。
冷徹な血が流れている吸血鬼だとは思えないほど、愛情深く、温かく、頭と背中を撫でてきた。
みなとの寿命を、私の寿命で先延ばしにしていることを、心底悲しむように。
「……どうして、知っている……? 魅了術は、相手の話したいことが流れ込むだけで、そこまで私は言うつもりなんて……」
「『話せない』と、『話したくない』は違うのよ、結奈さん。あなたが話せないと思い込んでいても、心の底では吐き出したい本当の叫びはね、聞こえてくるの」
背中を撫でてくる手には、心地よい暖かさが宿っていた。
「彼のことを好きなのはわかる。心の支えとなってくれた彼を愛しているのもわかる。でも、だからといってすべてを差し出してまで、あの子を生かそうとする義務なんて、あってはならないの」
「ひ、人のこと言えるの? 霞さんだって、戸牙子ちゃんのことを……」
「私がそうして、後悔したから言っているのよ」
彼女は、視線を合わせてくる。
紅い目の奥で、涙が反射してきらめいていた。
「重すぎた。重すぎるものを背負わせてしまった。私が戸牙子に、娘に与えたものは、多すぎたのよ」
「どういう、意味?」
「カルミーラの力、不死の呪縛、王の血筋、根源色の宝石。どれも一人にあげるには、重すぎた。そのせいで苦労させてしまったし、これからもきっとあの子は苦労する。今でこそ、楽しそうにしているけれど、あと一年がきっと最後の平穏。みなと君にずっと背負わせてしまう十字架を、あなたは作ってしまっていいの?」
「十字架、ですって? 私がみなとの命を繋ぐのは、罪だって言いたいんですか?」
「あなたが作った罪が、みなと君にとっての罰になってしまいかねないのよ。私は、確かに結奈さんほどみなと君のことは知らない。一緒に過ごしてきた年数も、彼に費やした時間も、あなたの方がよっぽど上。それでも、いや、そうであるからこそ、思うの。あなたの献身的で病的な想いが、彼の中でしっかりと消化されずに残り続けてしまうだろうって」
一瞬、そうあってほしいと私は思ってしまった。
いつまでも彼の記憶の中に居続けられる自分がいるのなら、むしろ今は自分のすべてを捧げて、彼を支えられたらと。
「消化されずに残る意味を、分かっていないわ、結奈さん。それはね、理解されないまま癌のように住み続けることなのよ。あなたの真意を、本当に願っていた幸福を、彼は理解できず、苦しみ続ける。『どうしてあんなことをしたのか、なんであの時こうしていなかったのか、なぜ僕は、姉さんを助けられなかったのか』と、彼は思い続ける」
一生消化しきれない、闇雲のなかを彷徨う人生を歩んでしまうと。
そんな経験があったかのように、そういった過去を悲しむように、彼女の声色は消え入りそうなほどか細くなっていて、涙で喉を詰まらせていた。
「嫌じゃない? 愛する弟に誤解されたまま、死んでしまうなんて。あなたが捧げた寿命の分、彼は生き続ける。でもいつか、先に死んでしまったあなたの代わりに、みなと君が世界を恨むようになったら――」
「そんなこと、しません。あの子が、そんな小さい悩み……」
「ええ、今のあの子にはない。けれどあなたが植え付けてしまったら?」
「……喧嘩売ってますか?」
「自分の芯が甘いから、いちいち簡単に揺らぐのよ。みなと君が見ている背中を思い出しなさい、あの子はずっと、あなたを見ている。姉の背中だけを、見据え続けている。いつかきっと、あなたの横に並べるような立派な男になろうとして。じゃあ、あなたが見本になることをしないで、どうするっていうの?」
「私は、見本にされるような人間じゃ……」
ぱしんっ。
平手打ちをされた。
「甘えるなっ!」
敵の放った攻撃行動のはずなのに、私は避ける気がおきなかった。
「彼の保護者として居座り続けるつもりなら、その甘えた思考を締め直せ! 子供の見る世界も考えられないような大人が、保護者気取りで生きるな! あなたがそれを正さないのなら、みなと君は私の家で預かりますっ!」
「なにを……!」
「私が持ち出した取引は、誘拐だ! 不甲斐ない母親のもとにいる男の子を助け出したい、ただそれだけ!」
「嘘をつくな! 戸牙子ちゃんのため、なんてエゴのくせして!」
「あなたのもとに居るよりよっぽどましよ!」
彼女は転がっていた黒刀を思いっきり踏みつけて、その反動で宙に浮かせた。
二枚の翼が宙に舞う刀を掴んで構えた瞬間、赤々とした模様が黒翼に走った。
浸食するような血の脈が、真っ黒な翼を畏怖に染め上げる。
そんな彼女自身は、胸に空いた傷口に手を当てた。
青い血が流れ続ける穴に指を突っ込んで、引っ張り抜く。
傷口を青い血の結晶で塞ぎながら現れたのは――
明け方の空のように深く、澄んだ青色の刃をもつ、長刀だった。
巴叔母さんや、空木叔父さんの使う「灰朧」と同じぐらい、というよりほぼ同等で同形の大長刀。
前方から見ているだけでは、刃渡りを錯覚してしまうほど朧気な厚みの刀身。
極限までしなやかに伸びる弧は、三日月のように捉えがたい。
しかし、たったひとつの違い。
灰朧とは全く違うその姿。
見えているのだ。
彼女の持つ長刀の刀身と柄は、私の肉眼がはっきりと、捉えている。
灰朧はそれを許さない。本物の灰朧は、姿を見せることはできない。
構える。
彼女は姿勢を低くしながら足を組み替えて、長刀を水平に構えて剣尖をこちらに向ける。
『霞の構え』だ。
水平に切りつけて目を狙うことで視界を奪い、視覚をくらませることから「霞の構え」と言われるが。
実戦では防御行動としても優秀な霞の構えを、彼女はきっと攻め手に使うのではなく、翼で持つ黒刀を当てるためのブラフとして使うはず。
「戦いの中で、相手の技術を奪い取ったのか。叔母さんの灰朧を……」
「真似事を奪うと例えるのなら、ずいぶん器量が小さい」
「そうね、それは薄々どころか、重々承知しているつもり。私は視界が狭いし、経験も乏しいし、精神も未熟なんでしょう。だから、それを広げるために力を求めることが、そんなにいけない?」
「力を得れば自分が変われるなんて思っているから、あなたは未熟なのよ。変わった結果、己の体に付いてきてくれるのが『力』よ」
「そうか、力のあったものに力の無い立場のことは理解できないか」
「そんなんだから! みなと君は力を求めてしまったんでしょうが!」
「みなとは悪くない!」
「貴方の中に住まわせたいのは誰なのかハッキリしなさい! 飼い殺しにしたいのなら、結奈さんが自立できなくてどうする!?」
「あーもう、どこからどこまでも上から目線で苛立つ! 老人の時代を押しつけるなっ!」
だらりと垂れている左手にシルヴァ・デリを無理矢理持たせて、排莢、二発装填。
左腕にくっつく玉泉を盾のように顔前で構え、右手に.50 AE弾を二発握り込む。
これで四発は撃てる。
先に右手で握り込んでいる二発を消費しなければ、銃に込めた弾丸は使えないが、牽制には十分。
狙いは、あの長刀。
彼女が文字通り、心血から生み出した武器だ。それを破壊するだけでも、本体へのダメージは大きいはず。
動けなくなったところを、無理矢理契約で結びつけて使役すれば。
もしくは、あの青血の刀で私の心臓を貫けば。
私は晴れて、化け物の仲間入りだ。
「魅了の技がなくとも、考えていることは丸わかりよ、結奈さん。そんなことはさせない」
「勝ってから言え」
「無論」
お互いにじりじりと足を這わせながら、空いた間合いをゆっくり詰める。
最後のチャンス、一度仕掛けた攻撃は通じない。
彼女の思考の裏を取らなければ。
どこの間合いで仕掛けるか、どの攻撃が本命で、決定打にするかを識ることができなければ、負ける。
負けるわけにはいかない。
みなとを盗られるわけには、いかないのだ。
縦に凪ぐ剣閃、黒刀の衝撃波が空を走り、迫る。
一発目、右手の弾丸の後方を親指ではじき、白式発動。
第一波、間合いの中心で剣閃と弾丸がぶつかり合い、爆風が舞う。
吹き上がる風を視界の盾にしながら、リーチを活かした青血刀の片手突きが、眼前に迫る。
二発目、もう一度親指を撃鉄代わりにして、白式発動。発射された弾丸は刀身に直撃、突きの軌道を上に逸らす。
同時に、左手にある銃を右手に投げて、持ち変えようとする。
ルビーの両宝眼がきらめいた。宝眼がほぼ同時に、二発飛んでくる。
見据えた狙いは左から右に移る間際の、宙に浮いたシルヴァ・デリ。
左手に白式を纏わせて、手の甲で無防備な愛銃を守る。
宝眼の一発目は止めたが、二発目は一発目に追従するよう放たれてしまい、撃鉄のように一発目の後ろを押した二発目が、私の手の甲を直接的な物理の衝撃で襲う。
激痛で頭がおかしくなりそうだったところを、舌を噛みしごいて耐える。
重心が右に傾き、体勢を崩しながらも、無事に右手へ収まったシルヴァ・デリを、相手の眉間に構える。
黒翼が持つ黒刀の斜め切りが、頭から真っ二つへ一刀両断するように降りかかってくる。
私は眉間を狙っていた銃口を、右手側の地面へと変更する。
トリガーを引き、銃声が鳴り響き、衝撃で体幹を左へとずらして、黒刀の一閃を避けた。
そのまま彼女の眼前へ肉薄するが、左側から青血刀のなぎ払いが襲いかかる。
くんっ、と左腕が浮力で持ち上がり、玉泉が刃を止めた。
ぎりりり、と左耳の鼓膜まで響く鍔迫り合い。
脇をしめて、右手を構え直し、銃口をもう一度脳髄へ向ける。
山査子霞の左手は、まだ空いていた。
「がはっ!」
私は首を、彼女の生身の左手で絞め殺すように、掴まれた。
両翼の持つ黒刀は地面へ突き刺さった。
宝眼は両方とも撃たせたから、再使用まで数秒の猶予はあった。
青血刀は、彼女の右腕が振るっていた。
すべて捌ききって、懐まで入り込めたと思っていた。
だが、まだ左手が残っていた。
あんな規格外の長刀を、こいつは片手で扱えることに気づいていなかったなんて。
いや、最初は両手で握っていたから、そのまま来ると思っていたのが、大きな油断だった。
途中で両手から、片手振りに持ち替えていたのだ。
「もうやめなさい!」
「銃を狙わなかったな!」
彼女が人間程度の体をひねり潰すことなんて、造作も無いだろうに。
首を掴んだ手に力も込めずに、シルヴァ・デリを持つ右手も狙わずに、降伏をせまるなんて。
甘いんだよ、あんたは。笑ってしまうぐらい、「人間」にな。
撃鉄を起こす。トリガーに手をかける。胸下から脳髄まで貫通する軌道で、撃ち込む。
白銀の銃声が、明瞭の夜闇で鳴り響いた。
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