セミロングの髪が、ベッドで放射状に広がっている。
淡い桜色の髪が白のシーツを染める様は、まるで春を寝室に敷き詰めたようだ。
「おーい咲良」
「ぐもご」
「ベッドに顔埋めたままだと何言ってるかわからないって。早く起きなよ」
「もぐもご」
「ちょっと待って、なんかシーツもぐもぐしてない!? ペッしなさいぺっ!」
僕は正月ぶりに帰省した雅火咲良を自宅へ招き、お茶の用意をしていた。
しかしいつの間にか、ほんの少し目を離した隙に、彼女は僕の部屋に侵入してベッドに顔を埋めていた。
そんな咲良の肩を掴み、ひっぺがす。
ここは外じゃないけど、既視感があった。戸牙子が日中にベンチでうなだれていた時と同じポーズだ。なんだ、女子の間では今これが流行っているのか?
「ぷは、補給完了したよ」
「なんのだよ」
「みなと君成分」
「冗談でも気持ち悪いからやめて」
「はは、ごめん。いたずら気分でちょっと部屋にお邪魔したら、気持ち良さそうなベッドがあって、ふらふらとね」
「ふらふらって、大丈夫なのそれ。もしかして寝不足?」
「うーん、最近慢性的に眠いの。帰りの電車でもうとうとしてたんだけど」
「じゃあ早く家に帰ってゆっくり寝たら……あっ」
と、ここで僕は地雷を忘れていたことに気づき、口をつぐむ。
家というのは、帰るべき故郷であるはずだが、咲良にとってはそうだと言いづらいのだから。
「大丈夫だよ、そんなに気にしなくて」
「いや、僕が悪かった。いくらでも使ってくれ。なんだったらこの家のベッド全て使ってくれていいぜ。姉さんのも巴さんのも来客用の布団も全部、咲良のために存在してる」
「えっ嬉しい、じゃあ結奈姉さんのベッド使いたいなぁ」
「任せろ、最近マットレス変えたばっかりだから姉さんのベッドは最高の寝心地だぜ」
不意にこちらを見ながら、咲良は首を傾げた。
「なんで、結奈姉さんのベッドの寝心地を、みなと君が知ってるの?」
……おっとこれは迂闊。
最近一緒に寝てるから、一人用のではなく頑丈で寝心地の良いものに変えたとか言えない。
どう言い訳しようか悩んでいたら、咲良は頬を染めてぶんぶんと手を振る。
「……あ、そ、そっか! わかった、ごめんね! 私がやぶ蛇だったね!」
「おい違うから! 咲良、何を勘違いしちゃる!?」
「そうだよね、みなと君も男の子だし、もう高校生だもんね……そうだよね、仕方ないよ!」
「だめだろ!? 長い付き合いだし咲良が何を考えてるか想像がつくからこそ言うが、『仕方ない』とかで片付くような問題じゃないだろ!」
「ちゃんと責任取らないとだめだよ? 結奈姉さんを幸せにしてあげてね?」
「もうわかった! このカミングアウトで僕の潔白が証明されるのなら言ってやる! 僕は童貞だよ!」
ここが外じゃなくてよかった。危うく僕は不審者だ。
春休みの終わり間際、実家に帰省してきた咲良を家に歓迎したタイミングで本当によかったと思っているよ。
「……そ、そっか……」
「おうなんでそこで恥ずかしがるんだよ、そこはもう少しいじり倒してくれよ、『まだチェリーなの?』とかさ」
「みなと君、君は異性に対して『まだ処女なの?』って聞く?」
「僕が悪かった」
全面的にこれは僕が悪いね、反省しよう。
むしろ咲良の健全な精神性に感謝するべきだな。僕の半身であるどっかの誰かさんのせいで、貞操観念が地の底まで落ちている気がするよ。
あれ、でもこの話題を最初に持ち出したのって、咲良だった気が。
「それでみなと君、話は変わるんだけどね?」
「無理やり変えて自分の罪をなかったことにしやがったな」
「んー、はたしてなんのことやら、やら」
眉間に人差し指をあてるポーズをとる咲良は、どこぞの特徴的なテーマで始まる刑事ドラマの主人公みたいだ。
「僕はどちらかというと右京さんが好きだな」
「みなと君には古畑任三郎全シーズンをみないといけない条例が出されました」
「いつ国の許可を得たんだ!?」
「私の家にコンプリートボックスあるから、見ようね。寝かさないよ」
「睡眠不足で殺す気か!?」
完全犯罪ならぬ絶対犯罪になってしまうじゃないか。
あれシーズン3まであるし、しかも合間合間にスペシャル版もあったはず。合計時間は人の活動限界をゆうに越えるぞ。
「"不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであっても、それが真実となる"だよ、みなと君。不可能はない」
「それ違う! 有名なホームズの謳い文句だけど、それは消去法的な思考ロジックであって、不可能を可能にするためにあるものじゃない!」
「みなと君が全シーズンを見終えた時、それがこの世の真理になる。君は相棒よりもっと古ちゃんを好きになる」
「かの刑事ドラマの御大を古ちゃん呼ばわりするな! それなら僕も右ちゃんって呼ばないとバランスが崩れる!」
「『古』って字はともすれば『右』とも読めるよね」
「んなわけないわ! 乱筆な人でも『古』の縦線を左下に伸ばすわけないだろ!」
「右ちゃんがいるなら左ちゃんもいそうだよね」
「双子みたいな感覚で呼ぶなよ、左京さんまでいないとだめになるじゃないか!」
「なるほど、実は前々から思ってたんだけど右京さんって『右』の『京』ってことだから、つまりその名前は東京にいる『関東の凄腕刑事』を示唆しているんじゃないかって思うの。ということは左京さんは、『左』の『京』にいる『関西の敏腕刑事』ってことになりそうだよね」
「左の京って……京都とかってこと?」
「以外にも奈良だったりして」
清水の舞台から桜や紅葉を眺めて推理とか、奈良公園で鹿にせんべい餌をやりながら推理とか、特徴的だし実際いそうだけどさ。
「あー、やっぱり楽しいや。こんなに遠慮なく喋れるの、みなと君ぐらいだから」
「そ、そうだな。僕は別の意味でヒヤヒヤしてるんだけどな」
怒られないかこれ?
明日には僕いなくなってたりしないよね? 溺死体で見つかってましたとか嫌だよ?
今までの白熱した掛け合いが嘘だったみたいに、咲良は口元を両手を覆い隠し、長いあくびをする。
昼下がりの暖かい日差しが差し込む時間だ、あくびが移りそうになるのを咬み殺す。
「本当に眠そうだね。電車疲れもあるだろうし、姉さんのベッド使っても良いよ?」
「うーん……じゃあお言葉に甘えようかな……」
よろりと力なく立ち上がる咲良。彼女のために部屋の扉を開けて、そのまま姉さんの部屋まで誘導する。
姉さんの部屋は殺風景だからこそ、ある意味来客用としての機能が備わっている。汚すことも何かに触れることも気にしなくて良いのだから。
吸い込まれるようにベッドへ寝転がった咲良に、掛け布団を渡す。
「晩御飯食べてく?」
「え、良いの? やった、久しぶりの神楽坂家ごはんだ」
「食べたいものとかある?」
「うーん、なんでも」
本当はそれを言われると困るのだが、まあおぼろげな意識の人に強要するのもいかがなものだ。
たしか彼女の好きなものは。
「グラタンとかどう?」
「食べます!」
咲良はニコニコと屈託のない笑みを浮かべながら、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
部屋の窓を閉め、カーテンをかけて日差しを抑えて、寝室をあとにしようとした時。
「匂う」
突然、ミズチが起きた。
もちろん実体化はしていない、僕の頭の中に語り掛けてきただけだが。
普段こちらから呼びかけなければ、ずっと眠っているような彼女が、珍しく起きた。
寝入り始めた咲良がいるこの場で独り言を放つわけにもいかず、脳内で返す。
「どしたのミズチ」
「なんか、煤臭くないか?」
「え、火事? 火を点けっぱなしにはしてないけど」
「んーや、もっと別の意味で」
別の意味。
そんな言い方を、彼女がするとなればそれはただ一つ。
怪異だ。
「なんか近くであったのかな。ちょっと匂う程度なんでしょ?」
「まあ、そうかもしれんが、うむむむ」
まあ、水の神様だけあって対極に位置する火には敏感なんだろうけど。
この世にはいくらでも怪異があるわけだが、眠っていた彼女が起きるぐらいなのだから、よっぽどの違和感だったのだろう。
「ま、姉さんにでも聞いてみるよ。最近ここら辺で何かあったかって」
「そうしておくれ。わしも煤が臭う場で眠るの好かん、原因を知っておきたい」
言うだけ言ったら、ミズチは意識の奥に消えていった。
悠々自適な神様に慣れてきている自分に不安を覚えつつも、携帯を取り出して、姉さんにメッセージを送る。
『咲良が来てるよ』
『今日は絶対はやく帰ります』
文面こそ端的だが、十秒もしないうちに帰ってきた返信の爆速加減が、姉さんも喜んでいることの証明であった。
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