「治ってるだろ」
「おー、わりと良い感じではないか」
剥き身になった右腕をバケツの水でじゃぶじゃぶと洗う。
腕全体に覆っていた黒い煤が鱗のようにぼろぼろと剥がれ落ち、一瞬でバケツ内の水が墨汁のように染まるが、血肉の赤色は全く混ざっていない。
完全に治癒している。
「より竜の腕としての側面が顕著になっておるのぉ。人間やめてるわい」
「前から神様だろ」
「ふはっ、そうじゃった」
からからと楽しそうに笑うミズチ。
元通り、と例えると語弊があるが、とりあえず見栄えは人間の腕と変わりない。
握り拳をつくったり、指をばらばらに動かしてみるが、特に異常は無い。
「まあ、戻ってきてくれて助かったよ。ミズチが僕の中に入ったから、再生速度も速まったし、神性を利用することもできたようだし」
「結奈と戸牙子が連絡できる状態で良かったのぉ。でなければわし、もっと一人を謳歌するつもりじゃったし」
「お前は薄情者だな! 僕は相棒がいなくてわりと寂しかったぞ!」
「あーもうわーったわーった。今のは嘘じゃい、わしも寂しかったぞ、おーよちよち」
「お前っ! 自分が浮けるからって変幻自在に撫で撫でするんじゃない! こら逃げるな!」
僕の頭をあらゆる方向から撫でてくる彼女を捕まえようとしても、しゅるりと避けるさまは、まさに蛇。
こんなところだけ動物っぽい。
「ちなみに、あの娘っこは追わなくていいのか?」
「バスタオル持ってたしあれは多分お風呂でしょ。追ったら犯罪だよ」
「覗き見は男のロマンじゃろ?」
「意図的であっても偶然であっても、僕の株を下げるだけだからやりません」
「犯したいと言った時点でマイナス五千兆点だと思うのじゃが」
「今更遅いって言いたいのかよ」
「いや、もういくらでも罪を重ねて構わんという開き直りの方が……」
「大罪人、いや大罪神よ。君は今までに重ねた罪の回数を覚えているのか」
「罪は数えるものではない」
「清々しい」
開き直りの神だな。
何をどうすればここまで邪悪な精神になるのだ。
これが年齢に伴う老化と摩耗というやつなのだろうか、末恐ろしい。
「というかさ、結局戸牙子はミズチに何を聞いてたの?」
「言えんな」
「あ、そうか。戸牙子もそう言ってたっけ。あんまり悪巧みしないでよ? 僕だって君を擁護しきれない時もあるんだから」
「なんじゃ、幼馴染みのことは助けないのに、わしのことは守ってくれるのか?」
「当たり前だろ、君は僕なんだから」
「あっはっは、そうかい」
……あれ。
今笑ってたの、ミズチだよな?
なにか、どこか不自然に聞こえたというか。
包み隠すことなく言うなら、らしくなかったというか。
「わしは好きじゃぞ、お前さんのそういう自己中なところ」
「君がそうなら、きっと僕もミズチのことは好きなんだろうね。自分大好き同士、相性ばつぐんだ」
「お互いドラゴンタイプというやつじゃな!」
「笑えないけど、笑う方が楽だね」
あのタイプ相性、当たり前にはなっているが、原理がよく分からないんだよな。
竜を殺せるのは、同じ竜であることの暗喩なのだろうか。
同族殺しのイコン。まるで、『黒式』のようだ。
だとするなら、物悲しいな。
「さて。ミズチ、ちょっと協力をお願いしよう」
「帰ってきてすぐ働かせるご主人きらい」
「大丈夫、そんなに面倒じゃない」
今の僕なら。
ミズチが帰ってきた今なら。
フルパワーではないが、「神眼もどき」が使える。
「居眠りおじさんを、起こしに行こう」
ベッドから出て、咲良がそばに置いてくれていた僕の靴をはき、部屋の窓を開ける。
ここは二階のようだ、飛び降りても怪我はしないだろう。
だが。
窓の縁に足を乗せて飛ぼうとしたその直前。
僕は、咲良が怒りに任せて開けっ放しにしたまま出て行ったクローゼットの中を、チラリと見た。
いや、見えてしまったと言う方が正しい。
きっと数分前の僕なら、神眼が消え去っていた僕なら気にも留めなかっただろうし、目に入りもしなかっただろう。
神眼もどきが帰ってきたおかげで、視力が人間以上のものへなっていたから、目に入った。
いや、そうではない。
蛇の目というのは、生物学的に言えばかなり悪い方であり、むしろ彼らは舌にあるピット器官を使い、「赤外線探知」をすることによって、獲物を探すのだ。
僕の神眼も、またしかり。
これがまた別の神様なら、その特性は変わってくるかもしれないが、ミズチのは蛇目で邪眼なのだ。
蛇神様の目が見抜くのは、物の本質であり、もっと分かりやすく言うならば「熱量」だ。
対象に含まれている「概念的な質量」を見抜くのが、ミズチの神眼である。
だから、僕がクローゼットの隅の方に、小さな段ボール箱があることに目を惹かれたのは、その段ボールが金ぴかの超合金で形成されているからという見た目の問題ではなくて。
その段ボールにだけ、とんでもなく大きな「赤い質量」が宿っていたから。
「……まさかね」
罪悪感というか、人の私物を盗み見る申し訳なさが浮かんではくるのだが。
僕はギリギリ外へ出ようとしたところで、履いていた靴を脱いでクローゼットの側まで歩み寄る。
めらめらと、何かを訴えるように。
クローゼットの隅に佇む段ボール箱は、燃えるような赤い質量を灯している。
「……元凶がこれなら、事件解決には繋がるんだろうけど」
段ボールから滲み出ている赤は、咲良が生み出す赤い灰とほぼ同じ色だ。
ここに怪異的な何かが眠っているのなら。
それを退治すれば、咲良に取り憑く怪異は消え去る、かもしれない。
今なら咲良にバレず、中身を開けて見ることができる。
咲良の記憶喪失や夢遊病は、「一時の気の迷いであった」と強引に理由をつけられる。
隠し通せる、のだ。
怪異と関わってしまったが、怪異に乗っ取られていた事実は揉み消せる。
別の現象で、たとえば「短期的な記憶障害」や「多重人格」で立証することができたら、トスされたコインは表として成立する。
その裏に、どんな怪奇現象がこびりついていようとも。
「ミズチ、もしもの時は防御頼む」
「またV・Bを飲ませてくれるなら」
「わかった」
交渉成立。
触れた瞬間、また燃やされた時には、相棒に助けをもらう。
神様の後ろ盾も用意して、ゆっくり深呼吸してから覚悟を決めて、僕は段ボール箱を開いた。
「…………………………」
数分ほど、物色した。
結局、その段ボール箱に入っているものは怪異でもなんでもなかった。
だが、口にするのが憚られるものである部分だけ切り取れば、怪異的と言える代物ではあるのだろうけれど。
咲良も、若い女の子だな、と。
そういう子供じみた感想を抱くぐらい、ありふれたものだった。
「行こう」
「もうよいのか?」
「空木さんの方が、心配だ」
今はうら若き乙女の秘密より、銀髪イケオジの救助の方が優先と考える。
眠らせてしまった彼を助けに行かないと。
靴を履き直し、窓に足をつける。
時刻は午前三時を回っている。
丑三つ時は超えた、あとは朝を待つのみである。
「知らないふり、してあげるべきなんだろうな」
僕が特に苦手とすることを、つぶやく。
そうすれば、言霊になって、少しでも自分の意思を矯正できるかもしれないと、微かに願って。
跳躍して、音もなく着地。
神眼を頼りに夜の森へもう一度、進み入った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!