「さすが、若さ故に知は浅くとも、勘はするどいわね、結奈さん」
「いや……! あなたは確かに強大な怪異であっても、異象結界を同時に二つも持っているなんて……!」
「一つですよ」
ぽつりと、霞さんは私の言葉を遮るように言った。
「私の体にはもう、ローゼン・ガルテンはないのよ。これは、この暗闇は『夜霧の帳』よ」
「……は? ないって、それはおかしいです。だって霞さんは、私にルビーネを渡してくれて……」
言いながら、私はとある違和感を抱いた。
異象結界を施したあの巾着袋が、どうして現世に存在し続けられるのか。
そもそも異象結界は世界の因果とルールをゆがめて顕現させる、異空間なのだ。
巨大な絵画にゆがんで生まれた穴を修復しようとする力が働くのが当然であるはずなのに、ルビーネはいまだに残っているし、私のジャケットの内側に収まっている。
そうだ、渡された時点でおかしいと思うべきだった。
もっというなら、スズリさんが「この巾着袋には異象結界が施されている」と言った時点で、疑ってよかったはずだった。
私たちが普段、ものを入れる道具箱として扱っている魔術道具は、『結界術』が施されているものだ。
決して、世界の因果を歪めて星のような世界を作り出す、異象結界ではない。
そんな大げさな小道具なんか、作らない。
「そう、私はみなと君が『老人』のことは心配はないと言ってくれて、新しい家も見つかったから、ローゼン・ガルテンは廃棄したの。戦争用の道具なんて、抑止力になると言いながらその実、自分の権力でねじ伏せるための口実にしかならないし」
「じゃあ、あのルビーネは一体……?」
「ローゼン・ガルテン最後の遺産、とでもいうべきかしら。私が唯一残すことができる、聖遺物とも。単体で独立した異象結界の代物を、実験的に作ってみただけで、結局手のひらサイズまで小さくしなければ存在できないものだったわ」
規格外、どころではない。
虹羽先輩にだって、そんな真似はできないはずだ。
だがそれ以上に、廃棄物を再利用してルビーネを作ったまでは良いとしても。
「なぜ、そんな貴重なものを私に……!?」
「だって、こうでもしないと――」
黒く染まった世界で、霞さんは目を伏せた。
まるで何かの前準備をしているその動きに、私は地を蹴って数メートルジャンプし、距離を空けつつ、結界の外へとなるべく近づいたが。
「結奈さん、本気出してくれないでしょ?」
にたりと不敵で邪悪な笑顔を浮かべて、彼女は続ける。
「私を殺さないと、この結界は解けない。つまりあなたは、みなと君を追うことができない」
「……は?」
全く読めない行動と言動に振り回され、苛立ち程度でうごめいていた感情が、憤怒に変わる。
波打っていた水面がふつふつと煮え立つ熱湯へ塗り変わり、入れ替わり、変わり果てる。
お遊びであるのならいくらでも付き合うつもりだった。吸血鬼としての血が騒いで、戯れに暴れたいというのなら、相手にしても良かった。
だが、あの子を助けるのを妨害するというのなら。
話は、別だろうが。
彼女の頭上、つまり廃神社を包む黒霧の空から、細長くしなる一振りの刀が、ゆっくりと降臨する。
それは、まぎれもない「日本刀」だった。
霞さんの身長が目測で百七十センチほど。
持ち手の柄と刃渡りを合わせた寸法が彼女の背丈の半分を越えているから、全体の長さは百センチぐらいだろうか。
刃は黒曜石のように純黒の美しい艶を放ち、反りが大きい。柄の方は黒い下地に血脈のような細い螺旋模様が走っている。
夜と血を具現化したような黒刀。
巴叔母さんや空木叔父さんの使う「灰朧」ほどの長さはないが、反り方や形状はどことなく似ている。
まあ、あれほどトリッキーな得物を使うより、自分の身長に合う武具の方が合理的だろう。
そして、着物姿に抜き身の日本刀を持つ山査子霞は、他の追随を許さないほど美しく、優雅であった。
「あははは、ほら結奈さん、笑ってる」
「……え?」
彼女は突然、朗らかにからりと笑って、慈しむように私を見据えてきた。
愛すべき宿敵を見るような、そういう目で。
「わかる、わかるわよ。あなたは私と同じように。いいえ、違うわ、灰蝋巴と同じようにと言うべきね。圧倒的な強者を前にして、怖れを抱くと同時に、たぎるのでしょ?」
「なにを、知ったことを……」
「隠さなくていいわ、隠すだけ無駄なの。私に惚れ込んでいるあなたが、私に考えを読まれてしまうのは当然だから」
「……魅了術を使うなんて、性格悪いですね」
「残念ながら、この世は惚れた方の負けなのよ。あなたは弟と違って、私の魅了に耐えられなかったから、ここまで私の言いなりになって、信じ込んで、付いてきた。私が悪巧みをしていることなんて、ありえないと信じ込んでね」
それに、と続けながら彼女は刀を振るって一閃。
剣閃によって放たれた衝撃波で、鬱蒼と生い茂っていた雑草は軒並み同じ高さにまで刈り取られ、視界が晴れ渡り、彼女が私をあざ笑う表情がよく見えた。
「性格が悪いのは、あなたも一緒じゃない。ねえ、神を殺すことに悦を見出す暗殺者さん?」
ぷつり。
自分の中で必死に覆い隠していたものが、これ以上は我慢できないと、出てきてしまった。
大逆無道の精神を包み込んで繋ぎ止めていた仮面の紐が、千切れる。
「……あは」
張り詰めていた理性の糸がぷっつり切られたように、笑い声が腹の底から湧き上がる。
けたたましく廃神社の境内に響き渡る狂った嬌声が、私の口から、胃から、精神から、脳から、心臓から、下腹部から、どんどんどんどんあふれ出てきた。
どれだけ大声で笑っても、黒霧に包まれているおかげで外には全く漏れない。
際限なく笑っても誰にも迷惑がかからないことに気づいたら、せき止めていたものが噴火するようにぼこぼこと泡立った。
喉がつぶれ始めて、酸素が足りなくなって、引き笑いに変えたら今度は呼吸が苦しくなって。
それでも、どこまで笑っても。私の感情は朽ちずに笑い続けた。
「いつまで笑ってるつもりなの? そろそろ精神崩壊で死んでしまうんじゃない?」
さすがに半狂乱で笑い続ける私を見ているのが面倒になったのか、彼女は突っ込みをいれてきた。
「ひひ、いや、ふふふ、なんだかもう笑うことしかできないですよ。だって、あなたは最初から私にこれを求めていたんだってことに気づいたら、気を遣っていたのが馬鹿らしくなって、あははは!」
「もう、なんだか私まで釣られて笑いそうよ。ふふふふ」
ゲラ笑い、というのは釣られてしまうことが多いらしいが。
それはどうやら、怪異であっても一緒らしい。
「あー、もうなんだ、霞さんは分かっていたんですね。私のクズっぷりを」
「それはもちろん。ミズチの胸に玉泉を刺しながら、笑っていたのを見て、確信したわ。あなたの心は相当歪んでいることに気づいて、もっと知りたくなった」
「へえ? それで、何か分かりました? 私の何が知れたんですか? 教えてくださいよ」
「そこでしょう。私と相対して、閉じ込められて、みなと君を追うことを邪魔されているというのに、笑っているところ」
「あはは! 人間壊れたら笑うことしかできなくなったりするじゃないですか!」
「違うわねぇ。あなたのそれは、愉しんでいる者の笑みよ。強敵と相対して、愉快に、ご機嫌になるその精神性。似てるわ、ほんと。私とも、巴とも」
そうだ。私と、巴叔母さんと、霞さんは。
戦闘狂であることが、これ以上無いぐらいに似通っている。
「みなと君の追跡を邪魔する化け物を、大義名分で殺せる条件が整って、嬉しいんでしょう?」
「そうよ! あのローゼラキス・カルミーラ・ホーソーンがまだ生きているなんて、吸血鬼の王と戦えるなんて……! 人生でこんな幸運、二度と訪れないわ!」
「ようやく本性を出してくれたわね。まあ、私もあなたぐらいにイカれてる人間の方が好きだわ」
にやりと不敵な笑みが、私を見据えてくる。
昂ぶった精神がぶつかり合って、空の暗闇に反響する。
夜霧の帳。
視界を闇で覆い尽くしているというのに、目に映る景色は明瞭だ。
月明かりすら入ってきていないはずなのに、参道や本殿の建築物だけでなく、霞さんの姿形まではっきりと見える。
この異象結界、まるで秘密裏に対決するため作られた闇の闘技場のようだ。
こんなものを作るなんて、彼女の本能が窺い知れる。
「しかしねえ結奈さん、ずいぶん失礼なことをしてくれたわね。なによあの瞬間移動の結界術。私の家に張っていた結界が壊されたのよ」
「はっはー、だからあんな分かりやすい錠で窓を閉めて、家を守っていたんですね?」
「あんな急増品では防げるものも知れてるわよ。六戸に張り直させる分の対価をもらわないと気が済まないわよ」
「へえ、対価を求めるわりに私を殺さないとは、『冷血鬼』の名が廃りますねえ?」
「母親になれば分かるわよ。子供の前では見栄を張らざるを得ないのよ」
「ははあ? 守りのすべも結界術も張らずに、プライドだけ張るとはずいぶん甘っちょろいですねぇ? 年をくうと丸くなるのは、吸血鬼であっても一緒ってことですか」
「いちいち癇にさわることを……。どっかのグラサン男みたいで嫌になる……」
「けどまあ、戸牙子ちゃんの前では気品よく振る舞ってましたけど、さすがに二人きりでは責めてきましたよねぇ? 私、操られていたことにようやくいま、気付けましたよ」
「……そういう原理で動いてるのか、あなた」
霞さんは刀の峰を肩の上に乗せつつ、感心した風に言う。
「白銀霧氷の神殺しは、どうして人間でありながら、神をも殺すことができる業を持つのか。不思議だったけど、直接見てようやく理解できたわ。その壊れた本性を出すことが、精神のリセットスイッチで、かつ『白式の常時解放』なのね」
「ご名答、しかし遅すぎますね。途中までは良かったですが、詰めが甘い。ローゼラキス・カルミーラ・ホーソーン全盛期の魅了術は、こんなもんじゃないでしょう?」
「まあ、そうね。だからああして、回りくどくお茶に誘ったわけだし」
「ふーん、媚薬でも盛ってました?」
「ブルーブラッドをね。でもあなたは服従して使役できるようなタイプではないみたい。恋する乙女は強いわね」
なるほど、カルミーラの血か。
紅茶の中にほんのりとした甘さがあったが、霞さんが砂糖を入れたような所作はなかった。
つまりあの甘味は、彼女の血であり、本物の媚薬だったのだ。
だが、その精神汚染はつい先ほど、解けた。私の本性を露わにして、洗脳を洗い流した。
「私はみなと一筋ですから、強くて当然ですよ」
魅了術が少しばかし自白を促したとしても、彼女への服従はありえない。
私が服従する相手は、もう決まっている。もうすでに、服従している。
「それで霞さん、今ならまだ引き返せますよ? ここで結界を解いてくれるのなら、私はあなたを殺さずに済みますよ?」
「腑抜けたことを。しかも殺せる気でいるなんて、大した自信ね」
「当たり前ですよ。巴叔母さんにすらかなわなかったあなたが」
愛銃を握りしめて、取り出した。
二発装填式のハンドガン、『シルヴァ・デリ』を。
「私に勝てるわけ、ないじゃないですか」
ジャケットの外へ出てきた瞬間、銃口に銀色の火花が一瞬咲く。
私だけでなく、この子もやる気のようだ。
「神楽坂結奈」
「なんでしょう、ローゼラキス・カルミーラ・ホーソーン」
「その驕り、ねじ伏せた暁には私の願いを聞いてもらおう」
「へえ?」
自然と笑みがこぼれて、口角が異様に上がってくる。
もう私たちには、女同士の腹の探り合いも、伝わりにくい舌戦も、遠回しな皮肉もいらない。
お互いに心を開いて、赤裸々の精神でぶつかり合うだけ。
「なら先に問いましょう、山査子霞。貴方は私に負けたら、何を差し出す?」
「……黒橡の方舟への服従」
「ではその代わりは、なんとする? 己の存在を捧げるのに見合うほどの、何を求める?」
「神楽坂みなとから身を引くことを、望む」
「ふうん? なぜ?」
「娘の恋路を応援するのが、そんなにいけないかしら?」
「あっはっは! あーはっはっは! つくづく娘に甘い母親で笑ってしまうわね! けど、いいでしょう、取引はそれでこそ。お互いの命をかけた闘争ほど、楽しいものはないわッ!」
文字通り、私がみなとから身を引けば、この命はそこで終わる。
彼のもとに居られなくなったら、私の運命はその場で尽き果てる。
そういう契約を、私は昔に、神と結んでいるのだから。
つまりこれは、お互いの命運を捧げた決闘だ。
彼女は、ローゼラキス・カルミーラ・ホーソーンは、山査子霞は、闘争の場を用意してくれたのだ。
辺りの被害を気にせず、暴れ回れる空間を作り上げてくれたのだ。
それに応えなければ。
そうでなければ。
神殺しの名が、笑うじゃないか。
「さあ、存分に殺し合おうじゃないか、堕天使の生き残りさんよぉ! 神にたてつこうとして墜ちぶれて人間世界でせせら笑ってた底辺がぁ! 神殺しの私に勝てるかなぁ!?」
「Lord, laugh at our folly!」
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