「……おいしかったです」
残りを意識するのを忘れるぐらい、霞さんの入れてくれた紅茶へ、つい夢中になってしまっていたようだ。
「本当ですか。気に入ったのなら、もって帰りますか?」
「……いいんですか」
「ふふ、よっぽどですね。ええ、どうぞどうぞ、是非持って帰ってくださいな」
言いながら霞さんはガラス戸を開けて、まだ封が開いていない紅茶缶を取り出して、渡してきた。
それを受け取った私は、物は試しと思って巾着袋へしまってみる。
すると、金色の紅茶缶はすんなりと袋の奥へと消えていった。
「……この袋って、なんて名前ですか?」
「『ルビーネ』です」
「ルビーの、ミツバチ……?」
「あら、さすが結奈さん。血筋は日本ではないものが混ざっていると思っていましたが、まさかドイツ語まで網羅しているのですか?」
「いえ、まあ……『ローゼン・ガルテン』と言っていたので、もしやとは思いまして」
ルビーネ。
おそらくだが、彼女の眼と同じ緋色の宝石と、ドイツ語で「ミツバチ」を意味する「ビーネ」を合わせているのだろう。
しかし、ローゼン・ガルテンもそうだが、なぜ異象結界に関連する技や呼び方がドイツ語読みなのだろう。
ローゼンは、ドイツ語で薔薇を意味する『ローゼ』の複数形で、ガルテンは『庭』だ。
薔薇園の庭、ということ。
私は最初に「ローゼン・ガルテン」と聞いた時ですら、疑問を抱いたものだ。霞さんがわざわざドイツ語で命名しているのにはきっと意味が伴っているはずだから、頭に残っていた。
世界的な公用語である英語を使わず、それに吸血鬼の発祥として有名な土地かと言われたら、ドイツは少し遠いだろう。
そんなことを思っていたら、霞さんは部屋の奥にある窓の方へ歩きながら、さらりと言った。
「私の異象結界は、とあるドイツの者との取引で作ったからなんですよ。まあこれ以上はあまり言えないのですが」
「十分ですよ! 私を信頼してくれているからって、そんな明け透けに言ってはダメです!」
「だって聞きたそうな顔してましたし」
「うっ……」
たしかに否定はできないが、甘やかしがすぎる……。
彼女の老婆心に、むしろこちらが心配になってきて、抗議というか抵抗の目線を送ろうとしたが、霞さんは私のことなんか目もくれなかった。
彼女は、窓にかかっている黒鉄の錠に触れる。すると、次の瞬間には完全に空気が変わる。
病的な色白の手が錠に触れた瞬間、かちんと音が鳴って黒い錠が霧消し、この部屋の空気が、屋敷全体の雰囲気が、一気に塗り変わった。
いや、これは変わったというより、戻ったに近い。
まるで、季節の変わり目や、雨上がりの空気を吸い込むような、そういう「今までの空気とは別の味」を肌で感じた。
この部屋、もしくはこの屋敷全体を覆っていた何かが、解かれたようだった。
「さあ、長話はこれぐらいにして、そろそろ行きましょう」
「あの、霞さん。本当に良いんですか」
「吸血鬼は嘘をつきますが、くだらない見栄を捨てることはできない化け物なんですよ。一度あなたを『送り迎えする』といったのに、それを反故にするなんていうのは、狭量が過ぎて情けなくなりますからね」
ばさりと、黒霧の眷属が彼女の背中に、巨大な翼となって現れた。
それは、コウモリの持つ皮膚が広がった羽とは少し、というかかなり、形状が違う。
彼女の背にあるのは、翼なのだ。
虫の持つ羽ではないし、腕が進化して滑空するために広がったものでもない。
霞さんの腕はしっかりと人のままであり、足だって書斎の床に着いている。だから、あの翼は「完全に独立している」のだ。
霞さんの翼は、窓の奥に見える夜空の闇よりも暗く、すべてを闇に染め上げるような黒がかろうじて「翼」に見えているだけなのだ。
たとえるなら、もしこの事象と現象を固有の名称で例えられるのだとしたら。
堕天使の翼、だ。
着物姿の吸血鬼が、美しい金髪を夜風でなびかせて、私をちらりと見る。
今日は研ぎ澄まされた三日月が浮かんでいる。琥珀色の髪が月のきらめきを反射して、流れる砂金のような輝きを見せる。
三日月と並ぶさまは、さながら宛転蛾眉。黒霧の翼をたずさえた彼女の背は、月の浮かぶ「夜空」そのものだった。
「行き先は、わかってますか?」
尋ねられたのに声が出なかった。私の口は、彼女の振る舞ってくれた紅茶のおかげで、しっかりと潤っているというのに。
「ふふ、まあいいでしょう。夜風で惚れの熱を冷ましてくださいね」
私は、彼女の微笑みを見たが最後、目の前が真っ黒に染め上げられた。
黒い翼が、私に覆いかぶさってきたのだった。
*
さて、現在の状況を説明する前に、一度ここまで起こった出来事を確認しておこう。
まあこれは、私の精神状態を統一するためのものであり、いってしまえば自問自答の独り言である。
黒い翼に覆われて、無理やり山査子家から連れ出されたはいいが、なんと私は空の旅を行く間、爆睡してしまったのだ。
無数の眷属を使役して形成しているとはいっていたが、なんというか、霞さんの翼は最高級の羽毛のように、ふさふわできめ細かなのだ。
考えてみてもほしい。仕事終わりに残業を押し付けられて、さらに私にとっての重要な「仕事」もやり遂げてしまって、そのあと紅茶を飲まされてリラックスして、疲れが溜まった状態で布団が私を自ら包んできたようなものなのだ。
これで寝ないという行動が取れる人間だけ、私に石を投げろ。
だが、とりあえずそこはいいのだ。
私は最初、霞さんに目的地だけ伝えたから、そこまでたどり着く間に私が寝ていたのは、彼女にとっては特に問題ないと。
いや、気を遣ってそう言ってくれたというべきか。私があんまりにも謝るから、最後の方は霞さんも申し訳なさそうに謙遜していた。
そして、いざ目的地である咲良の寮がある山付近の最寄り駅へ送られて、お礼を言ったらそれでお別れのはずだった。
だが、霞さんが「私も付いて行きますよ」と言ってきたのは意外だった。
寝心地のいい空の旅でぐっすりと仮眠が取れて、気分もすっきりしていたから、山を散策することに不安はなかった。
だから彼女に何か付いてくる理由があるのかとか、もし私を気にしているのなら心配はいらないとも言ったのだが、彼女は私の質問には答えず、首を縦に振らなかった。
「移動手段に使ってください、夜の山道を足では大変ですよ」
そんなことまで言いだすものだから、どうやら山査子霞というのはミズチと同じぐらい、意志が固いと知ることになった。
と、ここまでが現地に到着してからの話であり、ここからは現地で調査しはじめた段階の話になる。
二人で現場を散策して、みなとを探すことを始めた時刻が『午前0時12分』であった。
記録媒体ともなる銀の腕時計に状況開始のタイマーをセットして、改めて山査子家にお邪魔した時間の長さに驚いた。
移動時間も含まれているとはいえ、きっと一時間強はいたことになるのだろう。
じっくり休めたから、それは悪くないのだけれど。
そして、現場での散策ですら、私は霞さんにおんぶに抱っこ状態だった。
翼で飛行する霞さんの腕に掴まり、ふわふわと滞空しながら見下ろして探すという、なんとも効率的な方法での捜索だった。
ただ、夜の山というのは視界が悪いものであり、たとえ空から見ようが歩いて探し回ろうが、探しづらいことに変わりはない。
しかし、これは霞さんが「私の体力消耗を減らす」ために行っていた気遣いであり、それに気づけなかった私を叱責したいぐらいだった。
いや、戒めたかった。
そのまま、みなとと空木叔父さんを探し続けて二十分ほど経った頃だった。
「あれ、見てみませんか」
そう言いながら霞さんの目線が見据えたのは、廃墟同然の神社であった。
なぜそれを見ようとしたのかといえば、みなとが逃げ込む先として神社は選択肢となりうると考えたからだろう。
まあ、祀られている神がミズチとあまりにも険悪な関係性なら避けるべきなのだが、ミズチはあれで日本神話の原点に近い神様でもあるため、それ以降に生まれた神ならむしろ頭を下げるだろうし、そもそもそこは廃墟となって久しいような神社だったから問題ない、というのもある。
いないのだ、もう。
その神社には、神様は祀られていない。
いなくなったのが先か、祀る人間がいなくなったのが先か。
それは鶏と卵どちらが先かのようなお話だが、どちらにしても人の手が入らなくなった建造物というのは、朽ちるのを待つのみである。
入り口となる鳥居は上側がごっそり無くなっていて、二本の柱しか残っていない。
境内は土地を活かしたのかそれなりに広いが、参道らしきものがあったのだろうと推察しかできないぐらいには、殺風景である。
奥へ進むと、鐘楼や狛犬といった石の建造物は形を保って残ってはいるが、その全てが鬱蒼と生える野草で覆われてしまい、影を感じることすらできない。
本殿も、大木が刺さるように倒れ込んでいて、本当にここが本殿だったのかも怪しいぐらいに形を残していない。
廃神社、だった。
もしこんなところに逃げ込んだところで、何か解決策があるとは思えない。
むしろ、廃神社のあるここは山の奥へと向かう方向であり、逃げるのなら山を下るべきである。
しかし、霞さんは「何か痕跡が残っているかもしれないですから」と言って、調査を続けた。
確かにその可能性もあるし、連れてきてもらった手前、彼女の意見に逆らうこともできず、私もそれに協力した。
もし空木叔父さんが咲良を追いかけたのだとしたら、何かしらの痕跡が残っているはずである。
あの人の専門分野である「灰」が、少しでもあるはずだ。
だが、そうではなかった。
それすら思い違いだった。
私は、最初から乗せられていた外野であることだなんて事実は、信じたくなかった。
信頼していたのに、裏切られた。
信用していたから、身を預けていた。
相手が、怪異であるというのに。怪異であることを忘れて、過信していた。
「結奈さん」
霞さんは、最初から人を探すつもりなんてなかった。
空木叔父さんも、咲良も、ましてやみなとですらも。
私に手を貸すと言いながら、彼女の思惑は全く別のところにあった。
山査子霞の、ローゼラキス・カルミーラ・ホーソーンの目的は、最初からただ一つ、たったひとつだったことを理解してしまうのを、脳が激しく拒んだ。
だから、私はこうして頭のなかで自問自答をして、繰り返して、なんとか現状を自分の心へ落とし込もうとしていた。
「この神社はね、私と巴嬢が最期に戦った、冥地なんですよ」
ぐしゃぐしゃに潰れている本殿跡を背にして見返り、私を見据えて煌々と揺らめく赤い宝眼には、情熱の闘志が燃え盛っていた。
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