春休み終了まで、あと二日。
巴さんが何の連絡もなしに帰ってきて、かと思ったらまたどこかへ旅立った、その翌日。
僕は咲良の家にお邪魔していた。
咲良の父親は遅くまで仕事で、母親はお出かけ中らしい。
当初は古畑任三郎コンプリートボックスを借りるだけだったが、お茶を用意してくれた咲良の厚意に甘え、雅火家のリビングで午後のティータイムを楽しんでいた。
まあ春休みが終わると言っても、世間の一般高校生には大変申し訳なく思うのだが、通信高校生の僕は始業式らしいものもなく、しかも課題であるプリントすらも「家でやっていい」システムなのだ。
包み隠さず言ってしまうのなら超ヌルゲーであり、暇な日が多い。
数か月前まで全日制に行っていた身からすると、こんなに自由な高校が存在したのかと世間を疑いたくもなるが、これで卒業の資格も大学への斡旋もあるのだというのだから、世の中知らないことにうまい話もいっぱいである。
「けどみなと君、世の中うまい話には裏があるものだよ」
実は転校したことを咲良にはまだ言ってなかったから、この機会に打ち明けたら、返ってきたのは物騒な意見だった。
「なんだよ咲良、怖いこと言うじゃないか。まあ全日制と比べたら通信制は楽だし、自分の時間を作れるのはいいけれど、そのせいで経験不足になるんじゃないかって話だろう?」
「んーいや、かの有名なブッダも言ってたらしいんだけど、修行ばっかりの苦労した生活を数年送ってはみたけど、『俺は苦労したから偉いんだ、他の人間より優れているのだ』という驕りが生まれたから、『苦労しすぎは良くない』って結論を出したんだって」
「やけに詳しいな、仏教徒だったのか咲良」
「というよりブッダファンってだけだよ。でも通信制特有のうまい話の裏は、個人の努力が必要になるってことじゃないのかな?」
「努力……ああ、まあ受験勉強はそれなりに頑張らないとだよな」
「まあそれはどの学校に行っても一緒なんだけどね。やる気を維持するだけの意欲が本人にあるなら、別にどこに行ったって変わらないだろうし。でもほら、通信制と違って全日制とか私の通う全寮制には、『良くも悪くもつきっきり』なところがあるから」
辟易しているような口ぶりだが、だからといって「その環境が嫌い」といった悪印象を抱いているわけではないみたいだ。
「友達とも、先生とも、とてつもなく距離が近い。本来の家族ほどではないにしても、毎日会う関係だしさ。煩わしいって思うことも時にはあるんだけど、そこも含めて人間関係の奥深さだったりするから」
本来の家族、か。
血のつながりだけが、家族だと言える理由にはならないもんな。
少なくとも、咲良の父親と母親を遠目から見ている僕ですら、あれを「家族」だと言えはしない。
むしろ、全く血の繋がっていない義姉弟の僕と姉さんの方が、家族らしいのではないかと思えるほど。
「ふうむ、咲良は考え方がしっかりしてるというか、芯があるよな」
「あはは、よしてよそんな。誰にでも合う合わないがあるんだから、私はこっちの方が良かったってだけ。逆にみなと君みたいな男の子は、のびのびとできる環境にいる方が、独断力が活きるだろうし、きっとあってるよ」
「そうかなぁ……。留年確定して逃げてきた結果がこれだからなあ……」
「ち、違う違う! そんなへこむことないよ! 逃げるが勝ちって言ったりするからね!」
軽い自虐ネタを振ったつもりではあったのだが、咲良はむしろ肯定してくれた。
些細ではあるが、こういうまっすぐな優しさが心に染みわたるものだ。
「咲良、僕では力不足かもしれないけど、なんかあったらいつでも言ってくれていいからな?」
「ど、どうしたの急に?」
「隣人を自分自身のように愛せよ、って言うでしょ? 咲良は僕にとってそういう存在だからさ」
「おお、含蓄含蓄」
「眼福眼福、みたいに言われると高尚な意味のはずなのにすっごい俗っぽく聞こえてくるな」
「イエスキリストの言葉を使えるようになるなんて、神様みたいだね」
「……なら咲良はブッダだな」
「ブッダ女の子説が議会で討論される可能性をこんな場で作り上げちゃって良いの? もういっそ論文出そうよ?」
「真に受けすぎだろ!」
神様みたい、か。
まあ、悟りを開いた人と、本物の神様っていうのはちょっと違うからな。
イエスキリストやブッダのような現人神と、神族はまた別物だ。
それを、僕は身をもって知っている。
「ところで咲良」
「んーなに?」
「この古畑任三郎コンプボックスは、いつ返したらいい? 次こっちに帰ってくるのって、例年通りなら正月なんだろ?」
咲良は、正月の挨拶には実家へ戻ってくるが、それ以外は夏休みのお盆であっても帰ってこない。
だから、期間が非常に短い春休みに帰ってきたのはイレギュラーというか、何かあったと勘ぐってしまうぐらいには珍しいのだ。
「見終わったら返したいんだけど、咲良のお母さんにでも渡しておけばいいか?」
「あー、いや。うーん、別に返さなくていいよ。というかあげる」
「は? いやいや待てよ、さすがにこんな値の張るものをもらうなんて申し訳ないっていうか……」
「じゃあ預かっといてほしいな」
さらりと、言った。
当たり前のように、それが当然だと言わんばかりに。
「全部見るの、時間かかるだろうしね。ほんとは一気見してほしいけど」
「はは……冗談きついぜ。合計何時間あるんだよ?」
「本編約四十三時間、特典約三時間」
「丸二日かよ! 死ぬわ!」
「そうそう、だからゆっくり見てね。人に物を貸すときはあげるつもりで貸してるし」
景気が良いというか、殊勝な心掛けだが、それだけ信頼してくれているのだろう。
「というか、正月以外で帰ってくるなんて咲良にしては珍しいよな」
「まあうん、コンプリートボックスを貸すためだけに帰ってきた」
「嘘だろ!? わざわざこのためだけに、片道二時間強かかるのにか!?」
「えへ」
本当にそれだけなのだろうか。
勘繰り過ぎて疑うのも良くはないけれど、正直言うと心配でもある。
帰ってきて、何か話したいことでもあったのではないのかと。
「もう今日にはここを出るんだろ?」
「じゃないと始業式に間に合わないよ」
そうだ、それが普通の高校生だ。
春休みを終えたら学校が始まる。そのために準備をしなければならない。
けれど。
「……咲良、僕は君の家族と君の関係を全部じゃないけど、知っている。だからといって、僕ができることはきっと大したことないんだろうし、君の助けにもならないのかもしれないけどさ……」
「心配しすぎだよみなと君。これでも寮暮らし五年目だよ? 私の人生は順風満帆だよ、小学生の頃に比べたらさ」
小学生の頃。
それは、僕たちが隣人となった、小学三年生から卒業までの三年間。
咲良は今ほど心を開いていなかったし、ずっと怯えたようにかしこまっていた。
気兼ねなく遠慮のないやり取りができるようになったのは、それこそ中学に上がって寮暮らしをするようになってからだ。
「心配されるようなことは、全然ないよ」
「そ、そうか。僕の杞憂ならいいんだけどさ」
「むしろね、私は巴さんが帰ってきてたことの方がびっくりしたよ? 『喧嘩別れした』って聞いて、それ以上突っ込んで聞けなかったし、今でも気にはなるけど、聞きづらいっていうか。色々あったんだろうなって」
色々。
……いろいろ?
あれ、そういえば。
巴さんと姉さんが喧嘩別れしたのは、嘘偽りない事実だ。
今から五年前。
姉さんが高校一年生の頃に、神楽坂家は巴さんが出て行って、二人になった。
だが、その理由は?
大喧嘩に至った、原因はなんだ?
僕はその場にいたはずで、喧嘩をしていたところも見届けたはずなのだが。
その頃はまだ小さくて、理解できなくて、姉さんから喧嘩の理由をひた隠しにされていたから、忘れてしまっているのか?
「家庭の問題って、難しいよね。他者が介入しないと進展はしないけど、だからといって当人たちが解決を望んでいない場合だってあるんだから」
「……解決を望まない?」
「現状維持する方が、気楽なんだって思い込んでる。幸せだって信じ切ってる。だから変化を拒む。こういう言い方はちょっとすかしているように見られるかもしれないけど、変わらないものを愛するのが人だからね」
変化しない物。変化しない者。
それを良しとする、身内。
もう変わりはしないと、彼女は諦めているのだろうか。
「……咲良は、小さい時から変化を求めて全寮制に行ったんだから、すごいよな」
「あはは、私のは逃げだよ。逃げて勝手にして、その場しのぎの勝利を得ただけだから、問題の解決にはなってない。そんなもんだよね、人生って」
諦めることを良しとする。
変化しない事実を受け入れるのも、人の生き方なのだろうか。
「でもさ、みなと君は最近変わったよね」
「……え、僕?」
「なんか、なんていうんだろう。昔よりいい男になったよね」
……あれ、いま口説かれてる?
「他意はないよ、全然ないんだけど」
「即効で僕の胸キュンを地に叩き落とした罪は大きいぞ!」
「色男なのに、精神面が初心だよね」
「ぐっ、返す言葉もない……色男なのは否定したいが」
「でも変わったように見えるのは、結奈姉さんもだよ。二人の間で何かあったのかなって思うぐらい」
「……何かってほど重要なことはないよ。単純に僕のサボり癖が酷くなってきたから、姉さんがきっちりと矯正し始めて、それで変化したんだろうね」
という言い訳を、昔馴染みの知り合いには言うようにしている。
「なんで転校したの?」とか、「最近何かあった?」と聞かれた場合の、常套句だ。
特に咲良は気を付けておきたかった相手だ。彼女は他人のことをよく見ているから。
「へえ」
咲良は端的に、気のないというか気のこもっていない返事をした。
とりあえず、納得はしてもらえたように思う。
言えない秘密を抱えるのって、重たいなあ。
*
「駅まで送るよ?」
「んーん、ここでいいかな」
最寄り駅まで咲良を見送ろうとしたが、止められた。何やら別れが惜しくなるから、だとか。
「結奈姉さんと巴さんのことは頑張って」
「はは、そうだね。もう少し仲良くしてもらえるように、僕も頑張るよ」
咲良はにこりと笑い、手を振って駅まで歩いて行った。
曲がり角を曲がるまで見送り、自分の家へ戻ろうとした時。
何かが、鼻腔を通り抜けた。
「……なんだこの匂い」
鼻の奥を通して、脳髄に直接ひびく危険な匂い。空気中の微細な塵が、擦られたような香り。
煤の匂いだった。
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