「空木さん! いますか!?」
間に合ったかどうかは分からない。
空木さんの放った「朧月夜」の暴風域を、睡蓮鏡を駆使することでどうにか平静を保ちつつ、抜けきることができたが。
北東に五百メートル進んだ先であっても、結局は木々が無数に並ぶ森の中であり、空木さんと「灰の主」がどこにいるかまでは分からなかった。
だから叫んだ。叫び呼びかけて、返事を待った。
「みなと君、気をつけろ!」
怒号に近い反響。
夜の山奥であっても深く通る声の発生源に眼を向けると、空木さんが片膝をついてしゃがみこんでいた。
しかし、気にするべきは負傷しているように見える空木さんであるべきなのだが。
それ以上に。
いや、そんなことより。
彼の視線の先にいる、一人の女の子にこそ僕の興味は向いた。
そこにしか僕の関心は向かなかった。
淡い桜色の髪を編み込んだ、僕のよく知る友人であり、幼馴染み。
雅火咲良が、一本の木に触れていた。
「咲良!」
彼女は僕の呼びかけに振り向かない。
駆け寄ろうとしたが、それ以上の異質な空気に気圧され、足が進むのを拒否した。
彼女は、雅火咲良ではあるが、何かおかしい。
木に触れている咲良の周りに揺らめいている、綿のような桜色の灰はなんだ?
「はは、なんや、やっぱり知り合いやったんか」
空木さんがからりと笑うが、それがやせ我慢であることは掠れた声色から察することができた。
たった数メートルの距離なのに、咲良の近くまで進むのを拒絶したくなる、異様な空気。
本能的な恐怖心で優先順位が入れ替わり、僕は空木さんのもとへ行く手を変えた。
「空木さん、右手が!?」
「たいしたことやあらへん、不注意のやけどや」
彼の手は炭に包まれたように真っ黒となっており、皮膚の爛れも垣間見える。
明らかに重傷だ、何分も焼かれ続けたような熱傷を受けている。
「……まさか、彼女から攻撃を!?」
「違う、不注意って言ったやろ。レディに遠慮無く触れようとした男の罰ってやつや。しかしまあ、ここまで来て逃すのはまずいなあ……」
くらりと地面へ倒れそうになった彼を支える。
精神がまどろんでいるのか、うつろな眼になっている。
「みなと君、さっさとこの場から離れた方がいい。あの子は危険や、今日中にもこの森を焼き尽くしてしまうやろう」
「そ、そんな……。どうして咲良が……」
「任務放棄になってしまうんは歯痒いが、方舟に連絡を入れるんや。対処が遅れたら、どんどん厄介なことになってまう」
「厄介なことって……?」
「あの薄桃色の灰は、死の灰や。降りかかった木がすべて本来の形を失い、別の物へと成り果てる。己のクローンをそこら中にばらまく、変化の灰。花咲爺さんに出てくるような枯れた木を咲かせる優しいやつやない。無理やり『染井吉野』に上書きする、『死桜の灰』や」
染井吉野。
花見桜としては有名な品種であり、成長も早いが、「すべての染井吉野はクローン」という話は有名だろう。
そう聞くとあまり良い印象を抱きづらいが、木には「接ぎ木」という、とある品種の枝を別の木に植え付けることで、その枝の花を咲かせる栽培方法が古来より行われており、特に染井吉野はその接ぎ木で増やされた品種だから日本各地にいるのだとか。
むしろクローンの語源が「枝」を意味するギリシャ語であるらしく、本来の意味で使うのならクローンは僕ら人間のものではなく、自然界に存在する木々たちのものなのだろう。
だが、あの灰はそうではない。
今も木に触れ続けている咲良の周りには、桜色の灰が宙を舞っている。
けれど、燃えていない。
木は未だに形を保っている。
これまで「赤い灰」の件には何度か直面し、いくつかの目撃情報もあったが、今起こっている現状は聞いてきたどの状況とも違う。
灰は、燃えかすなのだ。
燃焼した物質の残滓であり、つまりそれは何かが燃えた後でなければ発生しない。
なのに、まるで桜吹雪のように彼女のまわりに漂う灰は、木が全く燃えていないせいで、無から生み出されたようにも見える。
存在しないものを燃やして、生み出された灰。
まるで。
いや、だからこそ。
それは、怪異の灰だ。
見えない何かを燃やして生み出された灰であり、木を燃やした結果生まれた物ではない。
発火現象の産物ではなく、怪異現象の産物。
観測不能な何かを燃やして、桜色の灰が産まれている。
けれども、そんな怪奇現象をなぜ「ただの人間である咲良」が起こしている?
「咲良! おい、どうしてここにいるんだ!?」
「あの子、さくらちゃんって言うんか? はっは、いやあそうか。あかんな、笑ったらあかんのやろうけど、名前ってのは残酷なもんや」
呼びかけても、返事はない。
空木さんはやけどの痛みがひどいのか、今にも意識を失いそうだ。
どうすればいい。
今ここで咲良に駆け寄っても、僕も空木さんと同じようにやけどするだけじゃないのか。
ミズチが体の中にいなくて、怪異性が消えかけている今の僕は、大けがを負ってしまえばそのまま死んでしまうかもしれない。
いや、それは違う。
きっと、死にはしない。
僕の心臓が勝手に危機を判断して、再生してしまう。
コントロールの効かない暴走状態となり、鱗の心臓が範囲をさらに広げてしまう。
そうなれば、また不安定な状態になり、予測不可能の状況へと陥ってしまう。
「初夜逃し」の再来となってしまうかもしれない。
ならば。
「空木さん、そのやけどはまだ痛いですか?」
「痛いに決まってるわ。皮膚がただれて、まだ燻り続けてるんやで」
「その痛みを少しでも抑えられたら、立てますか?」
片膝をつきながら僕に支えられている空木さんが、驚愕のまなざしをこちらに向けた。
成功するかは、五分五分。
いや、実戦で使ったことがないから、経験値の少なさも見積もれば確率はもっと低くなるだろう。
だが、何もしないよりはましだ。
鎮静の神秘術、「睡蓮鏡」
ミズチに命名を手伝ってもらったときに、僕は一つ豆知識も教えてもらった。
『神秘術というのはな、空想で現実を上書きする技であるが故に、その対象は自分だけではない。他人にも使うことができるんじゃよ。厳密には、非常に狭い領域内では他者への行使も可能というやつじゃな。ゲームで例えるなら、デバフとバフもできる術だと思えばよい』
精神状態や、傷の痛みを和らげる、鎮静剤のような術技。
それを僕は、他人に使うこともできる。
まるでモルヒネといった、薬物のように。
喋りたがりでひけらかしたがる、天狗のような悪癖だと、僕はその時思っていた。
特に気にも留めず、ミズチの戯言を聞き流しているつもりだった。
だが、それがほんの数日前で良かったと、今は心の底から思っている。
メモに記さなかったのに、なんとか忘れずにいたのは直近の出来事だったからだ。
「空木さん、僕の鎮静術はまだ誰にも使ったことがないので、成功するかどうかはわからないんですが……」
「鎮静術……そうか、台風を抜けてこれたんが不思議やったが、君は『青色』か?」
「厳密には空色らしいんですけどね」
「それは、なおのこと安心できるわ。頼む、俺は自分で自分の傷を治療するのが無理やねん」
覚悟は決まった。
彼の爛れた右手を見据える。
重油のようにどろりとした煤の奥に、赤黒い皮膚が覗いている。
ただ触れただけで、こうなってしまったのだろうか。
咲良は一体、何者なのか。何者へと成り果ててしまったのか。
だが、たとえ大切な幼馴染みのことであっても、それは今考えるべきことではない。
集中しろ、波紋のない清らかな水面をイメージするのに、雑念は邪魔だ。
「……睡蓮鏡」
唱える。
本来なら詠唱すらいらない技に、なぜ名前を付けるのか。
その意味の本質が、分かった気がした。
「これは安全な薬だ」と与える者が知っていたとしても、与えられる者にとっては異物であることに間違いない。
説明できるだけの理屈と、信じられる理由がなければ、投薬や治療は意味をなさないし、処置を拒絶されるだろう。
プラセボ効果、というものがある。
薬としての成分が全く入っていない偽薬を飲んで、一定の効果を患者が感じる現象だ。
「薬を飲んだ」という安心感のおかげで体に眠る自然治癒力が活性化するためらしいのだが、それと似たようなもので、「技名」というのは行使する術に「信用」を付け足すものなのだろう。
偽物をより本物に近くする、偽装。
技名の偽名、範囲の拡大。
まだまだ未熟な「睡蓮鏡」には、小手先の手品が必要だ。
「静かな水面をイメージしてください。月と夜空が浮かぶそこには、炎の熱さはありません」
焼け爛れた皮膚を痛めないように、触れない距離感で空木さんの右手に自分の手を添える。
鎮静術、ならぬ神秘術は、イメージを現実に引きずり込むこと。
つまり、思い込み。
心頭滅却。
心を無にすれば、苦しみや痛みから解放される。
空木さんの右手で、まだ薄暗く燃え続ける火を抑える。
本来なら、お得意の水でも使って消化できたらよかったのだが。
今は、これしか方法がない。
――~~――
また、か。
何か別のところで、波の音が聞こえた。
自分の頭でもなく、耳でもなく、心臓でもなく。
今抱いている睡蓮鏡の心象風景に映る水面が波を起こしているわけでもなく、というかもしそうであればイメージが崩れて鎮静術は失敗してしまう。
第六感、もしくは誰かのSOSサイン。
だとしても、どういった条件で発動しているのだ、この音は。
しかし、聞き覚えはある。
どこかもっと遠い、ずっとずっと昔にある記憶の片隅で、鳴いたような。
いや、泣いたようで。
……この波音、すすり泣いている?
~~湊、また起きたの?~~
大理石に頭蓋骨をぶつけたような、割れる頭痛が脳内に響きわたった。
なんだ、今のは。
いや、今の声は、誰だ?
意識が落ちる感覚に襲われたが、その前に空木さんは僕の目の前ですっと立ち上がる。
「ありがとなみなと君、助かったわ」
名前を呼ばれたおかげで、ふらついた意識は引っ張られ、起こされる。
しかし、頭痛の前に嫌な予感が走った。彼は、灰朧を無傷の左手で握りしめている。
「これであの『さくら』って子と、やりあえる」
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