僕は大木のような右腕を半ば引きずるような形で屋敷内の廊下を移動。
数ある部屋の一室から安らいだ寝息を立てている音が聞こえ、中にいる者を起こさないように優しく扉を開ける。
まあ、先にミズチを向かわせていたから、迷わず来れたという方が正しいが。
全身包帯でぐるぐる巻きの六戸のそばで、ミズチがふわふわと寝転ぶポーズで空中に浮きながら、彼の寝顔をのぞき込んでいる。
「ミズチ、六戸の容体は?」
「植物状態に近いのぉ。負傷の性質から見ても、こいつに必要なのは睡眠ではないじゃろうな」
手当てはきっとロゼさんがやってくれたのだろう。
血を分け合った彼女の異象結界の中だと、六戸も安心して眠れるぐらいには居心地が良いみたいだ。
僕が彼に触れようとしただけで反射的に攻撃をされた時より、よっぽどリラックスしているようで、安心した。
だが、安心と同時に不安も芽生えてくる。
安らかな眠りが、そのままずっと起きないことを示すのなら、これはどうしようもなく非常に身勝手な考えではあるが、困る。
だって彼には、ほんの少しの間だけ。
あの母娘を、守ってもらわないといけないのだから。
「……だいぶ僕も怪異に偏ってきた気がする。こういう時の打開策を、僕自身の怪異性に頼ろうとしているんだからさ」
「それはそれは、嬉しいことじゃな。非常に喜ばしいぞ」
「僕は嬉しくないよ……。ねえ何とかならないの? 僕のこの人間らしくない考え方は」
「ならんの。だって別にそれはわしのせいじゃないし。お前さんがもともと持っている気質に、体が追い付いただけじゃよ。望みをかなえるために勝手が効く体にしてやったことを感謝されても良いぐらいなんじゃがのぉ」
「いや、感謝はしてるさ。けど、だけどもさ……」
勝手が効く体。
それは「自由」だと言えば聞こえはいいかもしれないが、それ以上に「強大」であることも意味する。
まさしく、僕の右腕が大木のような「竜の腕」になっていることが、その自由さと強大さを明確に示しているだろう。
こんな腕、人のものではない。
ロゼさんの宣戦布告に思わず感情が昂り、咄嗟に変化してしまった竜の右腕。
これを自由だというなら、その代償はあまりにも大きい。
だってこれは、人間としての自由ではない。
人としての器でいられなくなったと言っても、過言ではないのだから。
「辛気臭い顔してるのぉ。まあわしも正直なところ、思わぬ誤算じゃったがな」
「誤算?」
「あのな、確かにわしはお前さんの右腕を食って、ほんの一部ではあるが受肉を果たしたから、肉体的に繋がっているお前さんの右腕にも影響が現れたのは合点がいく。しかし、だからといってわしが今まで渇望し、夢に焦がれて、どれだけ待ってもたどり着けなかった龍の境地にあっさり垣間見えたのじゃ。嫉妬しちゃうぞ、ぷんぷん」
「何千年生きてきた神様のぶりっ子か……需要ないよ?」
「なんでじゃ! のじゃロリとロリババァは流行じゃと聞くぞ!?」
「うーん、お約束ってだけで僕はむしろもう少し落ち着いた振る舞いをしてくれる方がカッコイイって思うかなぁ」
「むむむ、そうか……。じゃあもうちょっとかっこいいところを見せるべきじゃな、うむ」
彼女のおおよその年齢を知っている身としてはかわいこぶられると少々精神的にくるものがあるが、あくまで冗談であるからこそツッコミやすくて助かる。
もちろん、怪異に関する知識を惜しみなく、そして細かく教えてくれる姿は、年の功を感じられて尊敬にも値するのだが。
というか、「お前さんが死ぬとわしが悲しむ」なんて歯の浮くようなセリフと共に僕のことを颯爽と助けにきてくれただけで、もう惚れそうなんだけどね。
だが、だからといってそれはそれ。
目前にある問題は、どうやって六戸を回復させて、目覚めさせるかだ。
問題の解決策はミズチだけでなく、僕だってそれとなくわかっている。
いや、わかっているどころではなく、それが最善の策だからこそ、その行動の手段と手順に問題があると危惧しているのだ。
「きっと、僕が血を分け与えたら、六戸はすぐ回復するんだろうけど、それはさ……」
「ああ、もはや人間技とはいえんな。己の血に含まれるものが異質であることを認めてしまい、神血であることを定義してしまう行動にもなるのぉ」
神の血。
たとえミズチが邪神であったとしても、曲がりなりにも神であるということは、その身に宿る性質は人間を超える。
ミズチの場合、特に肝となる能力は「耐毒性」と「超再生能力」だ。
そしてそれは、彼女が僕の心臓を肩代わりしている時点で、僕の血にもわずかながら宿っている。
とどのつまり、僕の血を六戸に飲ませるだけで、傷の再生と白式によって植え付けられた特殊な毒性を解毒することもできてしまう。
「でもミズチ、やっぱりそれは……まずい気がする」
「じゃが、そうでもしないとこの鬼は、数十年近く眠り続けることになるやもしれんぞ?」
わかっていた。
篠桐宗司の白式は、毒のように尾を引く殺傷性だった。
狙った獲物がどこかで野垂れ死ねば、それで任務完了とだけ考えたような、彼の精神性が表れている白式。
僕はまだ、人間としての性質が残っていたからそこを起点にして再生し、生き返れたが。
あの老人からもろに白式を食らった六戸が、もう一度目覚める確率は。
何もしなければ、ゼロだ。
「まだ生きていることが奇跡なんじゃよ。あのジジイのしろが即効性の類でなかったから、なんとか生き繋いでいるだけでな」
「しろ……? 白式のこと、そう呼ぶんだね?」
「ああ、つい昔の癖が。白式じゃな、わし覚えた」
むふんと誇らしげにどや顔してくるが、物覚えが悪くなったおばあちゃんが新しいことを覚えれたようにしか見えなくて、一周回って微笑ましい。
「んで、どうするんじゃ?」
「……ミズチ、本当のところどうなのか教えてほしい。今ここで六戸を起こすには、僕の血を与える選択肢以外に、全くない?」
「はっ、甘えるな」
一瞬、僕は毒を吐かれたことに全く気付けなかった。
普通に答えてくれるだろうと思っていた彼女は不敵な笑みを浮かべ、見下すような目で僕を貫く。
「真実を知ってるやつが真実をそのまま教えてくれるとは限らんのじゃぞ。そいつらは巧妙に嘘をつき、自分の思い通りにさせようと口車を回らせるじゃろう。お前さんはそれにまんまと乗っていいのか?」
「……なら、どうすればいいのさ」
「なら? なにが『なら』なんじゃ。そのなりそこないの頭で考えろ、小童が」
からからと、毒の盛った説教と噛み合わないような一笑をして、続ける。
「答えを求めようとする姿勢が悪いわけではない。しかしお前さんはわしが答えを知ってるのに甘えて、良いように利用しすぎじゃ。わしの機嫌はいつでも良いわけではない」
「それは……いやうん。そうだったよね、ごめん」
反省した。いや、頼り過ぎていた自分を蔑んだ。
ミズチは言いなりになってくれるマシーンではないのだ。調べればなんでも出てくるネット知識とは違う。
確固たる意志を持って、僕の相棒を務めてくれている存在を、少々ぞんざいに扱い過ぎたのだろう。
だから、お叱りを受けた。
いつもの冗談と似た、毒の混ざったミズチ節とも言えなくはないのだろうけど、今一度改めて自分で考える、いい機会であるかもしれない。
竜の腕で床をつき、全身を支えてじっくりと考える。
考える人のポーズを取ろうかとも思ったが、この右腕ではさすがに顔に爪が刺さりそうで怖かったから、道端にある電柱のようにもたれかかる。
神様に頼りすぎず、今あるものを整理してちゃんと自分で考えるんだ。
僕が知りたいのは、六戸を救う方法が「神血を与える」他にないかということ。
この場で取るべき選択肢が神血を与える以外にあるのだとしても、ミズチはそれを取らせたがらないとも受け取れる……のか?
いや、待て。
それは、何かおかしい。
神血を六戸に与えれば、僕の性質は神へとさらに近づく。
そうなれば、ミズチの受肉という目的はさらに近くなるはずだ。
なのに、彼女は僕の問いかけにたいし「自分で考えろ」と、なぜかストップをかけてきた。
本来なら、僕が選択肢を聞いた段階で「そうすればいいぞ」と言ってしまえば、まんまと口車に乗せられるのに。
それなのに、ミズチは僕が選択肢を考える工程を、好しとした。
そこが、何かおかしい。
矛盾。
不自然。
不可思議。
ミズチが酔狂な神様であるから、なんて言ってしまうと身も蓋もないが。
酔狂ではあっても、意思疎通ができない者ではない。
狂神であったとしても、言葉が交わせないわけではないのだ。
目的だ。
別の目的が、彼女の中にはある。
僕がただ六戸に神血を与えるだけでは終わらせない、違う選択肢を彼女は見据えている。
けれど、教えてくれない。
それはもしかすると、ただの妄想ではあるのかもしれないけど。
僕が答えに気付くのを待っている?
「……ミズチはさ、きっと『これが答え?』って聞いても、教えてくれないんだよね」
「ああ、当然じゃな」
教えない。
答えを開示しない。
問題を解決する手段を見せてくれない。
つまり彼女の持っている答えが、僕のするべき行動の答えにはならないのだ。
だから。
そうであるから。
この問答自体が、愚問だったのだ。
「……ミズチの意志が絡んでいたらだめだったんだね。僕自身の意志を貫かないと意味がなくて、君のメリットにもならない」
「ほう」
彼女は目を細めて、愉快そうに、そしてどこか嬉しそうに笑みを浮かべる。
間違っているかもしれない。
とんでもない勘違いかもしれない。
それでも、行動しないことには始まらないのだ。
覚悟を決めて、竜の腕に視線を移す。
僕は長い深呼吸で気を整え、竜鱗に包まれて人間ではなくなった右肩に歯を当てる。
そして、痛みで卒倒しないように脳を奮い立たせ、思いきりかじりつき、食いちぎって切り落とした。
無理やり引きちぎった切断面から、鮮血がぼとぼととシロップのように垂れてくる。
「ああくそ、いってぇ……」
「そりゃ痛いじゃろうな、力技過ぎるじゃろ」
「でも、痛いっていうのは幸せなことだよ。痛みすら感じなくなったら、それこそ人として終わりだった」
洋室のカーペットに落ちた竜の腕だったものを左手で拾い、ぎゅうと握り込んで、肉に混ざる血を絞り上げる。
そして、ほどほどに溢れ出てきたところで、意識を自分の心臓に集中させる。
全身に血液を送るポンプであり、今の僕の不死性と再生能力の核を担っている器官に、腕がなくなった異常事態よりも先に、対処させるべきことを命令した。
再生するな。
「……かっかっか。かっかっかかか‼」
「変な笑いだよねぇ、それ」
「いやいやどうして、お前さんは本当に頭逝ってるのぉ!」
「毒を吐かれてるはずなんだけど、今までで一番褒められてる気がするよ。言葉って不思議だね」
本来ならすぐ右腕が生えてくるはずだが、今は僕の命令にしたがって出てこない。
右肩の切断面とも言えない、乱雑な傷跡から止めどなく血が溢れてくるが、気にせず六戸へ近寄る。
血の赤ですこしベッドを汚してしまうが、もともと六戸の全身に包帯が巻かれているわけだし、傷口から滲んできた血だと思えばごまかしは効くだろう。
「いいかいミズチ。よく見ておいてよ」
竜鱗に包まれた手を逆手に持ち、切断面から落ちる再生の血を、六戸の口に近づける。
「これはね、『どっかの誰かさんの竜腕にあった血を飲ませた』だけだ。僕の血じゃないし、神様の血でもない。というかそもそも判断不可能だ。だってこれは、本来ありえないはずの右腕にあった血なんだから」
「ああ、そうじゃな。わしの血でもないかもしれんし、みなとの血でもないかもしれん。だってそれは、竜の腕から落ちてきた、竜の血じゃからな!」
誤魔化しがきいたわけでも、はぐらかしが通用したわけでもない。
ただの屁理屈であり、当事者である僕たちは、これが『神楽坂みなとの右腕にあったもの』であることをわかっている。
言いくるめすらできていない。
けれど、それは僕とミズチだけだ。
これから復活して起床する、観測者の六戸には、その言いくるめが通用する。
そしてそれは、この場しのぎの証明として十分だ。
僕が神ではないことの、ひとつの理由として。
まだ人間であり続けるための、苦し紛れの言い訳として。
六戸は僕が助けたんじゃない。
かといって、ミズチが助けたわけでもない。
僕たちではない誰かが。
僕ではない、竜が。
霧の鬼を、助けたのだ。
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