腐った血

ゾンビvsヴァンパイア

閉ざされた部屋

公開日時: 2021年7月16日(金) 18:02
文字数:3,997

長い緊張が途切れ、男がうたた寝をした頃に、

目の前のカーテンが開かれた。


メガネをした小柄の女が見下ろし、

合図ひとつで後ろのサングラス姿の大男が

手元のスイッチを押した。


鉄の椅子に座っていた男の、

|睾丸と肛門の間《アリの門渡り》に電撃が走る。


激痛と絶叫の後で3度目の排尿。ただしくは失禁。


「おはよう。フヂタくん。」


広い室内に響くスピーカーからの音声。


目の前の女が、フジタの名を呼んだ。

ただ、発音はよろしくない。


ガラスから見えるのは黒髪で黒縁メガネの女。


黒色のジャケットに黒色のインナーシャツ、

黒色のネクタイと全身黒ずくめでいかにも怪しい。


それと同じ格好でスキンヘッドの大男は、

天井に頭がつきそうなサイズで遠近感を狂わせる。


一見すると|拷問《ごうもん》部屋だが

ふたりの|拷問《ごうもん》官はガラスの向こうの部屋で、

死刑執行人よろしくイスに電気を流すのみ。


室内は空調がなく非常に寒いが、

フジタは緊張からか恐怖からか、

頭の毛穴が開いて汗を垂らした。


「…お嬢ちゃんは何者だ?

 ここはどこだ?

 俺をどうするつもりだ?」


この場の不安を払い除け、

フジタは先に質問を浴びせた。


「日本人は質問が多いわね。

 顔はレバノン人にも見えるけど。

 私はテギュ、こっちはグラーヴよ。」


「婦女暴行の現行犯だ。」


「婦女? あれは人間か?」


グラーヴと呼ばれた色眼鏡にスキンヘッドの

いかにも|寡黙《かもく》そうな大男の言葉に、

フジタは眉間を歪ませた。


フジタの質問に、ガラスの向こうで

ふたりが顔を見合わせた。


ふたりの名前、テギュとグラーヴは

フランス語の発音記号を意味する偽名だ。


フジタは偽名を名乗るこの連中に、

自分が連れて来られた意味を再度考えた。


「あなた、ヴァンパイアのくせに

 モノを知らないのね。」


「|箝口《かんこう》令が敷かれているんだ。無理もない。」


「じゃあ、やっぱり。

 あの女の血をわざと吸わせたのか、俺に。」


「あれは保健省の備品。

 歩く腐った死体。ゾンビ。

 あんたが血を吸った相手。」


「俺になんてもんを吸わせてんだ! チビ女!」


「グラーヴ。」


「|痛《いて》ぇ!!」


死体の血を吸ったと知るや|憤《いきどお》るフジタであったが、

テギュの命令ひとつで股間に電撃が走る。


フジタは痛みにうつむいて、

しばらく口から|唾液《だえき》を|垂《た》らす。


「私が話してる途中。

 そういえばヴァンパイアの汚い|唾液《だえき》でも、

 ゾンビに対して麻酔効果が機能するのかしら?」


「知らねぇよ。

 なんせゾンビ相手なんて初めてだから。

 こっちから質問はいいのか?」


「どうぞ。」


「アレが保健省ってことは、

 あんたら国の人間か?」


「HIVって知ってる?」


「俺の質問は? |痛《いて》ぇ!」


「はい、口答えしない。」


「…エイズくらい知ってる。ゲイの病気だろ。

 ヤク中どもが感染してるやつだ。」


「そんな認識か。」


|ヒト免疫不全ウイルス《HIV》の発見から

まだ数年しか経っていない。


フランスでは血友病患者にも

非加熱製剤による感染が拡大し、

権利や政治の問題で大騒ぎになった。


フジタが住んでいたイタリアでの

HIVの感染経路は主に性感染、

ヘロイン中毒者による|シリンジ《注射器》使い回しと

それらの輸血、それから母子感染であった。


「ヴァンパイアにHIV問題はないのか?」


「俺を知ってるなら、そういうことだ。」


ウイルスは血液、母乳、精液、

|腟分泌液《ちつぶんぴつえき》に多く含まれる。


ヴァンパイアは血を栄養源にする怪物だが、

|衝動《しょうどう》で吸血行為に及ぶほど理性は乏しく

その数は年々減少傾向にある。


つまり感染してしまうと、

怪物どもはまともな医療を受けられず

野たれ死ぬことが多い。


偉そうな言い回しをしたフジタに、

グラーヴは3度目の電撃をお見舞いした。


「ちなみにアレは

 HIVには感染してないわよ。」


「そりゃありがたい。

 フランスは人体実験でもしてるのか。」


「フヂタは自分がヒトのつもりでいるのね。」


テギュに揚げ足を取られて|ヴァンパイア《フジタ》は黙った。


「世界各国でHIV撲滅の為に

 ワクチンを研究している。

 その副産物で開発されたのがあのゾンビ。」


「ワクチン打って歩き回る死体になったって?」


「そうよ。日本で開発されたワクチン。

 製薬先進国が作ったその特効薬は、

 大豆と|枯草《こそう》菌でできているの。」


「|枯草《こそう》菌…?」


「|納豆《ネイトー》を作る菌よ。」


「そうか…。あの女から発した

 足の指の間みたいな臭いの正体は

 |納豆《なっとう》だったのか…。」


食欲を失せさせる黒ずむ茶色や臭い、

糸を引くあの光景を思い出してフジタはえずく。


それとテギュの納豆の発音も気になる。


「日本人のくせに

 |納豆《ネイトー》に妙な|偏見《へんけん》持ってるわね。」


「イングランド育ちなんでね。」


「偉そうに言ってるけど、

 結局ろくなもの食べてないじゃない。

 まあいいわ。その特効薬はヒトの体温で|繁殖《はんしょく》し、

 他のウイルスや菌を寄せ付けなくなる。

 それと同時に呼気で簡単に空気感染する。」


「空気感染だって?」


「呼気から大気中に|芽胞《がほう》を撒き散らすの。

 暑さ寒さ、それから熱、乾燥にも強い菌。

 それが|納豆《ネイトー》菌を使った迷惑なところね。

 症状は|眼瞼下垂《がんけんかすい》、血色不良、言語能力の|喪失《そうしつ》、

 それから歩行、|平衡《へいこう》感覚の低下が|顕著《けんちょ》になる。

 あとは指の|壊疽《えそ》。脈拍数の異常。

 認知機能の――。」


「おいおい。」


「だから日本人には耐性があったのよ。

 |納豆《ネイトー》に耐性のない外国人が使うと

 性欲の低下と勉強や労働などの意欲の|減衰《げんすい》、

 他者への|依存《いぞん》、責任|転嫁《てんか》、自殺率の上昇…。」


「そんなデタラメの承認がよく降りたもんだ。」


フジタの意見にテギュも、

グラーヴまでもうなずいた。


単一民族国家に等しい日本では、

新薬開発において人種や民族での

臨床結果をこれまで重視してこなかった。


「問題なのが感染者は、

 脳がまるで機能しなくなるのよ。

 そして面倒なことに感染者を脳死として

 認定するにも、法整備に時間がかかる。

 国を相手取って裁判にかけるのも同じ。

 当然、人権問題もあって親族の同意も必要ね。

 感染力が高く会社、学校、家族間で

 感染者数が爆発的に増える。一家心中も増えた。

 それにチーズやワインなんかの、微生物が関わる

 |発酵《はっこう》産業も大きな打撃を受けてね。」


納豆菌の|繁殖《はんしょく》力を考えれば、

他の菌など勝ち目はない。


「最悪、人類は日本人以外ゾンビ化する。」


「だからハワイか。」


以前、フジタが仕事に誘われたハワイには

年間200万人を超える日本人観光客が訪れ、

ゾンビの最初の感染が拡大した。


日本人観光客の増えるパリも、

もはや対岸の火事とはいかない。


そして日本人を偽っていたフジタには、

ゾンビになったハワイ人の女があてがわれた。


「それで俺が|贖罪の山羊《スケープゴート》になったわけか。」


「潜伏期間は18時間。」


「それで、どうしたら開放してくれるんだ?」


「すると思ってるの?」


「ヒトの良心に期待してるだけだ。

 あんたら、国の何者なんだ?」


「あぁ、てっきり気づいてるものかと思った。

 |対外治安総局《たいがいちあんそうきょく》、ご存知DGSEの

 |運用部門《DO》及び|研究部門《DR》、

 |リサーチ・サービス《SR》付属の|作戦部《SO》、

 特殊作戦セクション・サービスZ。」


「サービスZ? ゾンビのZか?

 そんな都合のいい部署聞いたことがないぞ。

 お国の情報機関がなんで俺なんかを

 ターゲットにしてんだ!」


「先週新設されたばかりだもの、

 普通知らなくて当然よ。

 それにあんたは日本人でしょ?

 ゾンビに感染しても抗体があるんじゃない?

 ヴァンパイア相手なら昨今わずらわしい、

 人権問題にだって発展しないし。」


「ユダヤ人を焼いたナチ党と同じことをする。

 っがぁ!」


「敗戦国同士、|吠《ほ》えてろ。」


フジタの過ぎた発言に、

グラーヴがスイッチを押した。


激痛に悶えるなか、

フジタはさらなる罵倒を思い浮かんだ。


フランスは第二次大戦で

ナチス・ドイツの侵攻に恐れてパリを明け渡し、

イギリスに逃げた亡命政権は

自由フランスを名乗る。


イギリスの手を借りてパリを取り返した、

シャルル・ド・ゴールが|凱旋《がいせん》門をくぐった。


そして戦争終結後に、『四大戦勝国』を

ひとり主張している大間抜けがフランスであった。


しかしフジタは度重なる電撃による

股間の痛みで|唾液《だえき》が垂れ落ち、ろれつが回らず、

|苦言《くげん》を|呈《てい》する気力も失せていた。


「ボウフラ程度の価値もないヴァンパイアめ。」


目の前の|人種差別主義者《レイシスト》を|睨《にら》みつけた。


「あんたの血から抗体ができたら、

 開放も善処してあげるわ。」


「…開放? そりゃ得意のギロチンか、

 もしくは火|炙《あぶ》りの間違いじゃないのか?」


「そんなことしたらあなた、

 聖人になっちゃうじゃない。」


フジタはジャンヌ・ダルクほど|純潔《じゅんけつ》ではないし、

当然ながら|敬虔《けいけん》でもない。首を切り落とされたり、

火|炙《あぶ》りにされてはひとたまりもない。


ヴァンパイアはウイルスであっけなく死ぬ。

銀どころか鉛の銃弾で頭を撃たれれば死ぬし、

心臓を杭で打たれてもやはり人間と同じく死ぬ。


「フランスに戻ってきたのが運の尽きだ。

 異常性欲者の仲間め。」


今こうして捕まって人体実験を受ける最中、

グラーヴの言い分はもっともだとフジタは思う。


10年近く前、パリに住む日本人留学生が

友人を銃殺し、死姦して食べた事件があった。


このセンセーショナルな事件は

世界中で取り上げられ、

ヨーロッパ在住のアジア人は差別され、

襲撃を受けることもあったという。


フジタはこの事件を機に

イタリアに|河岸《かし》を変えた。


だがイタリアの気候はフジタの肌に合わず、

パリに戻ったことが彼の運の尽きだった。


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