どうやらLumiliaのボーカル、佐倉南奈の鼻血は無事に落ち着いたらしい。らしいが、本番で再び出血する可能性は高そうだった。後のことは夕衣達ではどうしようもないので、あとはLumiliaのメンバーとスタッフに任せ、ステージに上がった。
「おぉーきたきたー!」
誰かがやんやと騒ぎ出す。それに続いて顔見知り達も騒ぎ始めた。英介や奏一は勿論、美朝や瑞葉、公園で最初に知り合ったMorphoの面々やシャガロック、Kool Lipsの面々もきてくれていたし、涼子、貴、夕香に諒、沙奈もきてくれていた。沙奈のとなりにいる男性はおそらくSURRENDERのマスターだろう。それに二十谺に良く似た可愛らしい女の子が風野晃一郎のとなりにいた。会うのは初めてだが二十谺の妹の十五谺だろう。
(うわはー)
夕衣は嬉しくなって、自然と笑顔になっていた。莉徒は勿論、夕衣ともそれほど交流のないクラスメートまできてくれているのは、恐らく美朝や奏一が声をかけてくれたのだろう。ぺこぺこと頭を下げながらも夕衣はギターのセッティングを急ぐ。ステージはお世辞にも広いとは言えない。客席側から見て夕衣は上手で、センターに莉徒、下手寄りに公子、英里、後方に二十谺が並ぶが、ステージが狭いので、ほぼ莉徒と公子がセンターとなっている。少し動けば莉徒の身体にギターのヘッドが当たってしまうかもしれないが、贅沢は言っていられない。夕衣は今回、エレキアコースティックギターだ。公子がソリッドギターで、莉徒はセミアコースティックギター。Ishtarの基本スタイルは夕衣と公子で固めて、莉徒と英里がフレキシブルにフィルやアレンジを行うという形で固まってきている。ギター、アンプ、マイクの位置を決め、後は他のメンバーの準備が終わるのを待つ。ステージに目をやると、英介と目が合った。ステージの上手側の壁に身体を持たれかけ、煙草を吸っていたが、夕衣と目が合うとぐ、とサムズアップした。夕衣も小さくサムズアップを返して笑顔になる。
「何よ、目と目で通じ合っちゃって」
「ひっ」
いつの間にかにじり寄っていた莉徒が夕衣の耳元で低く呟いた。
「だ、だって無視する訳にいかないでしょ」
「あーあーあー、はいはいはい、あれね、ツンデレ。わたし英介のために一生懸命歌うわ!」
くねくねくね。
「ゲム・ギル・ガン・ゴー・クフォ……」
「あぁ、う、うそうそ!」
夕衣の謎の呪文に敏感に反応して莉徒は慌てて謝った。流石に本番直前に莉徒のブラジャーをずらす訳にも行かないので、とりあえず夕衣はにぎにぎした手を引っ込める。
莉徒の向こうにいる公子、英里、英里のやや後方にいる二十谺もセッティングを終えてあとはすみれ待ちだ。すみれはドラムのポジションをセッティングするのにしっかりと時間をかける。理想のポジションは良いドラミングに繋がるので、夕衣は莉徒を睨みつけながら待つ。
「すーおっけー?」
夕衣の視線をものともせず、莉徒が振り向くと、丁度セッティングを終えたすみれがスティックを打ち鳴らす。
「おっけーおっけー」
すみれの返事を受けて、莉徒がPAに手を上げる。準備OKのサインだ。
「こんばんは!Ishtarでっす!」
「イエーァー!」
莉徒の挨拶が終わらない内にやんやの歓声が上がる。
「みんな、各々ライブ経験とかあって、見知った顔もいるだろうけど、このバンドでは初ライブでーす!宜しくお願いしまーす!」
「オー!」
普段の莉徒とは違うテンションだ。一度Kool Lipsのライブビデオを見せてもらったことがあるが、ステージ上の莉徒はわざと媚びているような節もあり、普段の莉徒を知っている夕衣としてはそんな莉徒がおかしくてたまらなかった。莉徒はくるり、と半身になって視線をすみれに向ける。すみれは一度頷いて、スティックでカウントを入れた。最初の曲は夕衣が歌う。夕衣は最初のコードを丁寧に押さえ、静かに口を開いた。
「Scene」
莉徒の前奏を受けて夕衣は唄い出す。
――
後悔はしないなんて 大きな嘘をついて歩き出した
誰もが背を向けて 決別したつもりだけれど
見たくもない過去や キレイな思い出たちを
切り捨てて生きてはいけない 誰もがきっと
土砂降りの雨の中 いっぱい溢れた涙も
晴れ間と共に零れ落ちた笑顔も
切り捨てて生きてなど行けない
どんより雲の厚い日に ふと思い出すメロディ
風に吹かれて過ぎ去ってから
何を無くそうとしているのか 気付くんだね
――
思えばこの曲が最初に浮かんで、それを一番最初に聞いたのは英介だった。
学校の屋上でふと思いついた、耳鳴りにも似たメロディ。
あの時はまだ曲としては未完成だったけれど、完成した曲を聴いた英介はIshtar Featherよりも好きだと言ってくれた。この街にきたばかりの頃の夕衣は、今となっては小さな考えをいくつも集めて、まとまらずに足を止めていたのだと思う。それをIshtarのメンバーや英介が変えてくれたのだと思う。
――
永遠に続けばいいなんて
現実を見たくない目が見たもの
本当は気付きたくなかった
決別したくなかったんだ
帰り道の河川敷も 寄り道したコンビニも
もう寄り道ではなくなってしまう 本当はみんな
降りしきる雨の中 笑って走ったあの日も
晴れ間の光に輝いた雫も
二度とこない日々を判っていながら
降り積もった雪と一緒に 解けて消えてしまう
再び晴れたらもう戻れない
何を無くしてしまったのか 見たくなかったのに
――
刻一刻と時間は過ぎて行く。
あの時の夕衣の気持ちにも、今の夕衣の気持ちにも嘘はない。間違っていたのか正解だったのかは今となってはどうでも良いことだけれど、過ぎていった時間と一緒に生まれては流れた気持ちのやり取りはどうでも良いなどとは言えないことばかりだった。
閉ざそうとしていた夕衣の気持ちも、そこに体当たりをしてきた莉徒の気持ちも、夕衣を好きだと言ってくれた奏一の気持ちも、今はもう手に取るように判ってしまう英介の気持も、全て一つずつ答えを出さなければいけないことなのだ。
――
時間は待ってくれない
追い立てるように答えを出す
どうしたら良いか誰も教えてくれないままで
桜舞う風の中 振り返ることもできず
ただ前へと歩き出してしまった
もう振り返ることしかできないから
雪解けの跡もない あの時の道に告げる
さようならと言葉に出せずに
後悔はしないなんて 大きな嘘をついて歩き出した
誰もが振り返り 思い出を残して
――
目を閉じ、最後の一節を唄いきって、コードをゆっくりとアルペジオする。それに英里がピアノで合わせ、とてもきれいなハーモニーが生まれる。
ピアノとギターのサスティーンが消え、夕衣は目を開けると英介を見た。英介もこちらを見ていてくれていた。一瞬の静寂の後、拍手が巻き起こった。
すぐにすみれは二曲目のカウントを入れる。夕衣も意識を切り替えてギターに集中する。次は公子がボーカルの曲だ。アップテンポの曲で、夕衣は殆どコードギターを弾くだけなので少し肩の荷が下りる。
(でも、もう一曲唄っちゃったな……)
毎度のことながらステージ上の三十分というのは本当に短い時間だ。宿題をやっている時やアルバイトをやっている時など、無限にも等しい時間だと思えるのに、ライブの三十分間はあっという間だ。
(目一杯楽しまなくちゃ)
きっと少なくとも卒業するまではこのバンドで何度かライブをやるようになるだろうけれど、この日、このステージは一度きりだ。
同じバンドで同じ客、同じライブハウスで演奏したとしても、同じステージなど一度としてないのだから。
個人的には大きな失敗もなく、MCにまでたどり着いた。正しくあっという間だ。MCまできたと言うことは残すところあと二曲だということだ。
(もう、終わっちゃうなぁ……)
次はIshtar Featherだ。IshtarとしてバンドアレンジをしたIshtar Featherは初披露だが、歌は全く変えていない。事情を知らない者達が聞けば単なるディーヴァのカヴァーでしかないこの曲だけれど、Ishtarでやると決めたときから、堂々と、何に恥じることもなく、歌いきってやろう、と夕衣は思っていた。
「どもー、みんな色々バンドやってるから知った顔もいるでしょうけど、一応ね、初ライブってことでメンバー紹介しまーす」
「おぉー!」
以前悪乗りとも取れるくらい率先して盛り上がっていた英介は壁によっかかったまま笑顔でこちらを見ている。やはり今日の英介は何かおかしい。奏一とのことを考えてしまえばそれも頷けるような気がするけれど、それだけの問題ではないような気がする。
「まずはウチの歌姫!髪奈夕衣ぃー!」
「ユイユイー!」
(マイク通して言わないで……)
莉徒の紹介の後、すみれがコーラスマイクを通して言った。野太い声でユイユイー、と返ってくる。これはえらいことになってしまった。この先ずっとユイユイと呼ばれるようなことになってしまったら大変だ。さっきまで大人しいと思っていた英介もここぞとばかりに乗ってきていた。
(あいつめー)
夕衣の心配を他所に能天気に笑っている。それでもどこか英介がおかしいのはほぼ確信だ。ただ今はそれを考えるべきではない。怪訝な顔をしたままでは後で英介にも突っ込まれてしまう。
「あぃ、一言!」
「え、あ、う……。よ、宜しくお願いします……。あ、えぇと今日はありがとうござ」
「うぇい次!」
いきなり振って、いきなり斬られた。
(まだ途中……)
「ギターボーカル!ウチのセクスィー姉さん!水波公子ー!」
そんなことなどお構いなしで莉徒はメンバー紹介を続ける。
「ハム子ー!」
「ハム子ゆーな!」
ユイユイに続いてまたしてもすみれがコーラスマイクで茶々を入れた。今まで気付かなかったが、公子の字は確かにハムだ。言われる前に気付ければもう少しネタとして……。いや、それでも夕衣では公子にそのネタは振れなかっただろう。そかしそれにしても、ステージ慣れをしていないと聞いていたが、これだけきちんと対応できていれば充分だと夕衣は思う。
「うん、私も初めて聞いた」
「水波です、宜しくお願いします」
笑顔になってぺこりと会釈した公子に、やはり夕衣のときと同じように、ハム子ぉと野太い声援が上がる。公子の彼氏がきているはずなのだが、その野太い声援の中に混じっているのだろうか、と夕衣はつい目を凝らしてしまったが、顔が判らないので見回しても無駄なことにすぐ気付いた。
「んじゃ次、キーボー……ピアノ?」
「どっちでもいいよ」
苦笑して英里が言う。英里も最初は緊張していたが、今ではそうでもないようだった。本番直前のLumiliaのギターボーカルである南奈の鼻血事件で緊張がまぎれたのかもしれない。南奈にとっては気の毒なことだとは思うが、Ishtarにとっては良い方向に作用したのかもしれない。
「んじゃピアノ!槙野英里ー!」
「マキマキー!」
ユイユイに則るのならばてっきりエリエリだと思っていたが、まさか苗字から拾ってくるとは思わず、つい夕衣も笑ってしまった。やはりマキマキーと野太い声。それにあわせて夕衣もマキマキーと合わせた。
「なんで苗字!」
「まぁいいじゃん」
英里はぐるり、とドラムの方へと顔を向けたが、またしてもバッサリと莉徒が斬った。
「英里です」
「え、そんだけ?」
椅子から立ち上がり、ぺこり、と挨拶をすると、すとん、と座る。
「だって長く喋ったら途中で切」
「ベース!」
「……」
いーん、と莉徒に顔を向け、それでもすぐに可愛らしい笑顔に戻る。客からも笑い声が聞こえてるということは楽しんでもらえているのだろうが、事実、莉徒のMCはテンポも良く、面白いと夕衣も思えた。流石にライブ経験も豊富だ。夕衣はあまりステージではガチガチに緊張する方ではないけれど、莉徒と同じことはできないな、と関心すら覚えた。
「宮野木二十谺ー!」
「はっちゃーん!」
「私は普通なんだ」
きっと繰り返しパターンで良い呼び名がないと判断したのだろう。ハツハツだと何だか落ち着かないし、ミヤミヤも変だ。二十谺は苦笑してすみれに言った。
「変な方がい」
「ベースの宮野木です、よろしく」
今度は二十谺が莉徒の言葉を遮った。流石に二十谺もライブ経験が多いためか、素直にうまいなぁ、と思ってしまう。
「……あい、ドラム!水野政子ー!」
「すみれですから!」
誰、と夕衣が言う前にすみれが声を高くした。何故か敬語で。まるで莉徒がそう言うことを判っていたかのようなタイミングだ。やはり政子ーと声がかかるが、あまり嬉しくないかもしれない。
「あぃ、最後はIshtarのアイドル、柚机莉徒でぇす」
「認めねー!」
「黙れ外野ぁ!」
真っ先にステージ前にまで飛び出してきたのはシズだった。Kool Lipsのギタリストだ。なるほど莉徒の本性も良く知っているのだろう。
「これがウチのアイドルの本性ですから」
「ウフ」
公子が苦笑して、モニターに足をかけ、とんでもなく下品なことに中指などを立てながら、まるでプロレスラーのように勇ましい莉徒を指差した。その場でくにゃりと、そう、まるで一切似ていないし絶対に認めないが、夕衣のモノマネをする時のようにポーズをとった。
「キモイ」
ぼそり、と二十谺が言って笑い声が起こる。
「ともかーく!残すところあと二曲でっす!」
お約束で、えぇ、と声が上がる。お世辞でもお約束でも嬉しいものだ。
「あらぁ、ありがとうございましー、でも時間厳守なんでね、さっさと行きますよ!」
「じゃ、Ishtar Featherという曲です」
夕衣は曲紹介をすると、深呼吸をして歌に集中する。この曲は殆ど夕衣はギターを弾かない。ピアノメインのアレンジなのだ。英里が奏でる美しい前奏に夕衣は身体をゆだねた。
――
溢れた涙は誰のためなの 歌声響かせて笑顔に変えたい
蒼い月明かり 思い出すのは
風を切り駆けた あの日のあなたの影 そばにいたわたしの影
I believe for myself 女神の羽根 あったなら
どんなにも離れていても 色褪せない 信じたい
青くまぶしい 空に流れてく
あの白い雲を 追いかけて笑うあなた その背に羽をまとって
I believe for myself 女神の羽根 あったなら
どんなにも時が過ぎても 忘れない 羽ばたける
瞳を閉じて 追いかける あの日のあなたの影
強い向かい風の中で
黒髪を揺らす 風がすり抜ける
歌声に変えて 月明かりに乗せて届くように この声が枯れるまで
I believe for myself 女神の羽根 あったなら
この唄もいつか響いて 羽ばたいて 行けるはず
I believe for myself 女神の羽根 あったなら
この胸に誇れるもの ただ一つ 羽ばたける
――
最後に英里のアルペジオを聞きながら、微かに夕衣もギターを乗せる。一曲目のSceneの最後と同じようにきれいな旋律が流れ、しん、とライブハウスが静まり返る。そこにスティックでカウントを取る音が響き渡った。
「んじゃー最後だよー!今日はほんとにみんなありがとねー!トリのLumiliaさんもすんごく素敵なバンドだから最後まできっちり楽しんでってね!」
一瞬演奏が聞こえなくなるほどの歓声が巻き起こった。
自分達の演奏でこれほど人を楽しませることができるのだ、と夕衣は改めて音楽の素晴らしさを実感した。最後の曲は莉徒と二十谺の合作だ。アップテンポな曲で莉徒と公子と夕衣が持ち回りで唄う曲になった。
(もう、終りだぁ……)
もっともっと演奏を続けていたかったが、時間は守らなければならない。
夕衣達のような学生バンドでは自分達でイベントを興すことも金銭的に不可能だ。それなりに収益のあるバンドならばそれは可能だが、趣味バンドでは収益など期待はできないし、それほどの金銭を集めることは今のところ不可能だ。こればかりは本当に致し方がないことだが、いつかは、気の置けない仲間たちだけでそうしたイベントもしてみたい、と思う。
だから今は、三十分という短い時間に全てをかけるくらいの勢いで演奏に望む。
(まだ、もうちょっと、みんなとできるよね)
不意に莉徒と目が合った。まるで夕衣の心の中を見透かしたかのように、莉徒は頷いた。ドラムに近付いて、すみれともアイコンタクトを取る。お互いに思っていることは、もしかしたら違うのかもしれない。それでも、今この時を楽しもうという気持ちだけはみんな同じだ。少しでもこの時間を充実させるために、それを確認し合うかのように、夕衣はメンバー全員と視線を合わせた。
(この街にきて、良かったよ、裕江姉……)
本当に。もしも莉徒の誘いを断っていたら、今頃夕衣は一人ぼっちのままだっただろう。こんなにも暖かで楽しい仲間達と出会うことも、英介と知り合うこともなく、一人の時間を過ごしていただろう。
(やっぱり、裕江姉はばかだよ……)
何もかも捨ててしまうには早すぎた。どれほど、誰にも理解できない苦しみの中にいたとしても。無責任な考え方かもしれないけれど、裕江の決断は早すぎたのだ。何もかもを要らない、と決めていた夕衣の回りには今、こんなにも笑顔が溢れている。命にも代えがたい何かを無くしてしまった裕江でも、きっと生きてさえいれば、こんな笑顔になれる日が、必ずきたはずなのに。
(裕江姉の分まで、笑って、楽しんで、苦しんで、わたしは生きてみるね)
胸元で跳ねる裕江のリングを意識しながら、夕衣はそう心の中で呟いた。
(この先、もしも音楽ができない身体になったとしても、わたしは裕江姉のとこには絶対に行かないから!)
人がたった一人では生きられない、その周りの人達の力を夕衣は信じたい、と心の底から思うのだ。
(だから、ずーっと、お婆ちゃんになるまで……待ってて!)
ギターのネックを持つ左手も、ピッキングをする右手も、歌声を奏でる喉も、どこが壊れたとしても、全部が壊れたとしても、夕衣は絶対に生きることを諦めない、と胸元のリングに強く誓った。
xliv Scene END
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