「お、やっぱきてた!」
莉徒はそう言いながら土手を駆け上がってきた。ということはあの場所でギターを弾いていたのは莉徒ではなかったということだ。しかしこうして夕衣を尋ねてきたということは、やはり莉徒には何か夕衣に伝えたいことがあるのだ。
「柚机さん……」
「莉徒、だってば。あのさ、狎れ合いたくないの判るけど、必要以上に突き放さなくたっていんじゃない?ま、人にも依るけどさ、私はカベ張ってる人間の中に踏み込もうなんて思ってないからさ」
「え……」
いや、莉徒くらい気が付く人間であれば、莉徒の言葉は頷ける。夕衣がどういったスタンスを莉徒との間に取ろうとしているのか、それが判ってしまうのだろう。そしてそれが判ったところで、莉徒の態度もまたきっと何も変わりはしない。
「あれ?違った?まぁいいや、どっちにしても苗字で呼ばれるのってあんまり好きじゃないのよ。ま、強制するもんでもないけどさ」
「うん、判った」
やはり似ている、と思う。夕衣がどう思おうが莉徒にはさしたる問題でもないのだ。ともかく、莉徒の用件が伝われば良い、という言い方が妙におかしかった。さっぱりとした性格なのだろうことは昼休みの一件でも充分に判ったし、そういうことならば、夕衣も色々と気にしなくて済むというものだ。
「そうそう、それであんたを探してたのはね」
「探してた?」
「そ。弾き語りのイベント、今度やるんだって。私そこのハコのスタッフと知り合いでさ、私らはちょっと準備してなくて出られないけど、夕衣なら出るかと思って。締切り明日までなのよ。そいつ情報よこすの遅くてさ」
「そのイベント自体はいつやるの?」
「あぁ、えーっと六月末って言ってたから、一ヶ月くらいはあるね」
弾き語りのライブイベントの場合、PAを使わないことや転換に時間も手間もかからない場合が多く、通常のバンドイベントよりも経費がかからないためか、安価で参加できる。通常のバンドイベントに一人で出るとなると、大体負担額は三万円から四万円が相場だが、弾き語りイベントだとその半値以下で参加できる。一ヶ月あれば練習時間も充分だ。今この場でストリートに出ても七曲ほどは唄うことができる。特に準備期間に困ることはない。
「締切りは明日の何時まで?」
「五時くらいみたい」
「学校終わってからだと無理かな……」
顎に手を当てて夕衣はしばし考える。ステージで歌うことに抵抗はないし、集客率も気にするようなイベントではないはずだ。練習不足という心配もない。参加費さえ払えば、後は参加アーティストの負担などはない。参加費はそのほとんどがチケット代金が含まれているので、チケットが売れればアーティストの負担額が減るというだけのことだ。前の街にいたときも、友達伝ではチケットはほとんど売れなかったし、逆にあまり知り合いや顔見知りがいるとやりにくい場合もある。
「や、ケータイから連絡入れるから別にいいけど」
「そしたら、少し考えさせて」
少しして夕衣は莉徒にそう伝えた。恐らく莉徒はきてくれるだろうが、後は黙っていれば誰もこないだろう。態々夕衣がライブをすることなど莉徒もクラスメートには言わないだろう。ただ心身の整理ができていない今の状態では、そう簡単に返事はできない。莉徒の紹介で参加するのならば、いくら顔見知り程度の仲とは言え莉徒の顔に泥は塗れない。中途半端な状態で中途半端な演奏と歌を披露することは、莉徒の顔に泥を塗ることになるし、当然夕衣自身も納得はいかないものになる。それだけは避けたい。ただ、ある程度距離を置いて付き合おうと思っている相手でもこうしてわざわざ話を持ってきてくれたのだ。無碍に断る訳にもいかないし、迷惑は尚更かけられない。
「おっけ。んじゃそう言っとくわ。ま、別にそのときだけのものじゃないから、ダメならダメで全然オッケーよ。次もあるだろうし」
「うん、ありがと」
「なんもなんも。で、今日はもうおしまい?」
ギターケースを指差して莉徒は笑顔になった。
「え」
「練習。昨日よりも時間早いじゃん」
「うん、そうなんだけど、あの場所、たぶん私が使う前から使ってる人がいるんだと思う」
先ほどまでは莉徒だと思っていたその人は、まだベンチに座っていた。
「じゃさ、ちょっと私とやんない?」
「え?」
思わず目を見開いて夕衣は問い返した。
「夕衣って何好きなの?音楽」
土手の斜面が板チョコのようになっているコンクリートの上に腰を下ろし、莉徒は言う。
「んー」
「私はバンド系ばっかだけどロジャアレ。まぁ当然みずかと、早宮響も好きな方ね。あとはG's系」
バンドサウンドは夕衣も好きなものが多い。莉徒が挙げた『ロジャアレ』とは『Roger&Alex』という既に解散した女性ボーカルのパンクとポップとロックを融合させたバンドの略称だ。そのRogoer&Alex解散後にソロアーティストとして歌を続けているのが冴波みずかである。『G's系』も『The Guardian's Blue』、『The Guardian's Knight』、『-P.S.Y-』の三つから成るバンドことだ。大本のThe Guardian's Blueの解散後にThe Guardian's Knight、-P.S.Y-というバンドに別れた、所謂カテゴリの一つで、今莉徒が揚げたものは夕衣も好んで聴いていた。早宮響にいたっては全てCDを持っているし、何曲か弾き語りもできる。
「じゃあ……」
夕衣も莉徒の隣に腰掛けて、ギターケースからギターを取り出すとチューニングを始めた。
「わたしは……これね」
早宮響の四枚目のシングルのカップリング曲『Gratitude to you』のイントロを軽く弾き始める。ファンの間ではどのシングルよりも評価されている楽曲だ。早宮響自身もあえてこの曲はシングルカットをしないでいるらしいということを何かの雑誌で読んだことがあった。夕衣もこの曲は他のどの曲よりも大好きだった。
「お、いいセンスしてるじゃない。やっぱり早宮響っていったらこれよねー」
そう言って莉徒は軽く咳払いをする。唄い出しからコーラスラインとのハーモニー美しい曲だ。莉徒の声にうまく乗せられるかは判らなかったが、夕衣も弾きながら声を出した。
「Gratitude to you does not forget.――」
上手く莉徒の声に乗せることができた。驚くほど綺麗なハーモニーが生まれる。莉徒はそれが判っていたかのように唄い続け、夕衣に笑顔を向けた。
(……)
夕衣も笑顔を返すことはできたが、複雑な気持ちだった。
一曲だけ莉徒と歌った後に別れ、帰宅後に夕衣は圭一の家に電話を入れた。このままではいられないことは判っている。どうしたら進めるかなど今の夕衣には判らない。それでも、まず避けてたことから、逃げていたことから向き合うことをはじめよう、と夕衣は決心した。これから自分がどうなりたいのか、そんな大それたことは判らないけれど、起伏のない平坦な時間を歩むだけなら、歌う意味も、ギターすら弾く意味もなくなってしまう。莉徒の申し出はそういうことを夕衣に気付かせてくれた。
「あ、夕衣です……」
圭一の父親が出た。夕衣にとっては伯父にあたる。
「おぉ夕衣か、久しぶりだな。どうした?」
「うん、今日圭兄に手伝いにきてもらったのに、わたし、いなかったから……」
「何だ、そんなことか」
努めて明るく伯父は言う。人は強いものだ、と夕衣にも頷ける。たとえそれが久しぶりの姪からの電話であったからだといっても。伯父は圭一を呼ぶと、電話を代わった。
『夕衣?』
「うん……今日はごめんね」
『あぁ、仕方ないよ。転入初日だし、夕衣にも色々都合はあるだろうし、思うところも判らない訳じゃないし、さ……』
やはり圭一は夕衣のことを慮り、早くに帰宅したのだ。
『裕江が死んでから三年過ぎたとはいっても実時間と精神時間は違うからね』
「うん」
もう電話の向こうの家族に裕江はいない。
「前、向かなくちゃ、って思ってたのに。だから一緒にこの街に住むって決めたのにね」
『夕衣は特別裕江と仲良かったしね……』
姉妹よりも、親友よりも通じ合っていると思っていた五歳年上の従姉。便りがないのは良い便りだと思い込んでいた。それだけ通じ合っていると思っていた。裕江が自ら命を絶ったと聞くまでは。奔放な裕江の性格を羨望した。裕江には裕江の苦労はあったと思う。愚痴は良く聞いていたけれど、本心は絶対に打ち明けなかった。本心を打ち明けていないことを夕衣も判っていた。だから、裕江から言ってくることを待った。待って、待ち続けて、裕江は何の言葉もなく死んだ。
「似てる子がね、同じクラスにいるんだ」
『裕江に?』
「うん。見た目とかじゃないんだけど、性格がね」
好きなことには真剣で、なりふり構わない姿勢。自分に関係あるものとないものの切り離し方。場の空気を読む能力。そして思うところを吐露しない、前向きなようで後ろ向きな性格。いや後ろ向きかどうかはまだ判らない。夕衣が勝手に莉徒に裕江を重ねてしまっているだけだ。
『中々珍しいね』
「わたし、きっと仲良くなれるって思った……」
同じ音楽という趣味もある。それに莉徒は夕衣を気にかけてくれている。
『いいじゃないか、越してきたばかりで友達もまだそれほどいないんじゃないの?』
「そうだけど、もう、好きな人を失うのが怖くて」
だから、親友も恋人すらも要らない、と思うことにした。人を好きにならなければ失う悲しみもない。楽しい時間がなければ、それを失ったときに落胆することもない。自分を打ちのめす準備など態々自分からしなくても良い。そう思っていた。
『……夕衣』
「……」
嘆息交じりに圭一は夕衣の名を呼んだ。
『それは違うよ。あるかどうかも判らない先の可能性、それもずいぶんと低い確立のものに怯えて生きるのは間違ってる』
「ないかもしれない、でも、あるかもしれない……」
『もしも死んでしまったらどうしようなんて考えてちゃ生きていけないよ』
大切な者を、それも、ただ一人の妹を喪ってしまったのは圭一も同じだ。
――いや、同じではない。
従妹であった夕衣よりもずっと関係が近い。それでも絶望することなく今を生きている。伯父も伯母も同じだろう。だから人は強い、と思った。
夕衣はまだ断ち切れていない。まだ歩みを止めたままだ。以前と同じではないにしろ、圭一達は前に進もうとして、きっと進んできた。この三年間で。
「そうなんだけど……裕江姉が死んじゃったときのこと思い出すと、怖いの」
『でもさ、それは僕は違うにしても叔父さんや叔母さんだって同じだろ?』
それは違うと思う。親はどうしたって自分よりも先に逝く。
しかし友達や恋人は、親よりも共にする時間が多くなって行くのだ。親と子、友達や恋人とは考え方が絶対的に違う。しかしその反論は、今、この会話では場違いだ。
「いきなりいなくなっちゃうのは、確かにそうだね」
『でもそればかりを考えていたら何もできないし、何の成長もないと僕は思うよ』
大切な人を失っても強く生きて行ける、笑顔を取り戻せる人間とは夕衣は違う。今もまだ裕江のことを思い出すと涙が出てくる。何に対しても他の何者にも変えられない理解者だと思っていた。裕江が一人で死んでしまったことに対して、裏切られたような気持ちも残った。事実、圭一の言う通り、夕衣は成長できていないのだ。
「判ってるつもりなんだけど……」
『そこまで裕江のこと思ってくれてるのは、嬉しいけど、ね。僕は、うーん、僕らは夕衣ももちろんそうだけど、ちゃんと幸せになんなくちゃいけないんだって思うし』
無責任な言葉だ、と切り捨てることはできない。誰よりも、妹を喪った兄がそう言っているのだ。だから、聞き入れるべき言葉だということは夕衣にも判る。判るし理解もできるし、そうしなくちゃいけない。幸せになりたいのは夕衣だって同じだ。それでも、心がそういう風に動いてくれなければ、どんな言葉もただの言葉でしかない。今の圭一の言葉は、本来ならば心を揺り動かされて然るべき言葉なのだろうことまで判っているのに。
(わたしはもう、駄目かな……)
幸せになれなくても良いのかもしれない。
本気で幸せになることが怖いのかもしれない。
「そう、だね……」
『すぐには無理かもしれないけどさ。ゆっくり、夕衣の思う通りにやってみなよ』
「うん」
今の夕衣の思う通りとは一体どういうことなのだろう。莉徒達とは上手くやって行けるかもしれないけれど、もしも仲良くなったときに、裕江を失ったときのような思いをするのは二度と御免だ。前に進みたいけれど進めない。もうやり直すことはできないから、新たにやり始めるしかない。それは理屈では判るのだけれど、今の夕衣にはそのバイタリティがない。
『今度は夕衣の顔、見に行っていいかな』
「うん」
圭一の顔を見ても何が変わる訳ではないだろう。声を聞いてみても、思ったほど、というよりも夕衣が危惧するようなことは何もなかった。もっと、何かショックを受けるものだと思い込んでいた。どんなショックかは判らないが、何か心を揺さぶられるような、それに夕衣が耐えられないショックを受けるのではないか、と恐れていた。だから圭一と顔を合わせることを避けた。
『じゃ、約束』
「うん、それじゃ、ゴメンね」
『いや、じゃ、またね』
それだけ言って通話を終えると、夕衣は自室に戻った。エレキギターを抱えコードをかき鳴らすと、すぐにギターをスタンドに立てかける。今は気分ではない。圭一の声を聞いて、何とも思わなかった自分が意外だった。ごろりと寝転がって、夕衣は鼻歌を歌う。心の中で歌詞を思い出す。
(どんなに時が過ぎても、生きていること、誇れるもの、たった一つの気持ち)
久しく歌っていなかった歌だ。自分で書いたとは思えない詞だ。三年もの月日が過ぎたのに、何も変われない。ギターを始めたばかりの頃には、これが自分の誇れるものだと信じることができていたのに。
生きる意味を、誇れるものを見失ったのか、無くしてしまったのか、見つけられなかったのかは判らない。けれど、裕江は死んだ。夕衣は死ぬことはできない。立ち上がる強さも、死を決断する勇気もない。
今はただ唄うことしかできないのかもしれない。
(そっか……)
それならば、それしかできないのならば、それをやるしかないのだ。
(決心、なんて大それたこと、今はまだ言えないけど)
この街にきて、まずやることができた。
(唄おう)
ついさきほど、莉徒と唄ったあの奇妙な高揚感を思い出し、夕衣はそう心に決めた。
iv Days of Days Over You END
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