「あぃ、とりあえずこれで曲は揃ったね」
莉徒はぽん、と手を打ち合わせて言った。アルバイトにも随分と慣れ、何やら夕衣も腕や脚に筋肉らしきものがつき始めていた。アルバイトの合間に練習を重ねて、とりあえず五曲はできるようになった。三十分のライブならば充分な曲数だ。まだまとまりきっていない楽曲もあるが、今後はディスカッションよりも、バンド全体としての演奏を高めていく方向に進んで行くだろう。
「で、ライブなんだけど、昨日聴いたらとりあえず八月の三十日、土曜日に空きができたらしくてさ、出ようと思えば出れるわけ」
もはや恒例となってしまった練習後の喫茶店vultureでのミーティングだ。今日は涼しげなアコースティックギターの曲が流れている。
「なるほど。で、どうしようってことね」
「うす。皆の意見で決めようと思って」
公子の言葉に莉徒が頷いた。
「莉徒の意見は?」
まずは莉徒の意見だろう、と公子は莉徒を促した。
「私は出たい。夕衣は?」
「わたしもオッケー」
三十日だとあと二週間もないが、すみれが学校側に了解を取ってくれたおかげで、練習は学校の第二音楽室、つまり軽音楽部の部室でさせてもらえることになった。時間を気にして、お金を払って、という心配はしなくても良くなった。夕衣はそれまで知らなかったが、第二音楽室の準備室にはちゃんとギターアンプやドラムセットも置いてあるのだ。古ぼけたガットギターだけではなかったのか、と感心したものだった。
「んじゃ英里」
「いいよー」
「すー」
「いいよ」
「公子さん」
「おっけ」
「二十谺」
「うん」
各々に訊き、返事を聞いて、莉徒は頷いた。
「おし、んじゃ、満場一致ね」
「実質練習できるのって四日くらいかな」
「そうだねぇ」
手帳を広げて英里が言い、二十谺が頷く。皆それなりにアルバイトが忙しいのだろう。アルバイトの他にもあれやこれやと忙しいことはあるのだろうけれど、夕衣は本当にアルバイトくらいしか用事はない。
「まぁ学校でできるんだったら四日もあれば充分じゃない?」
「充分じゃないって、相当練習しないときついよ」
現状だとまだまだ演奏は足並みが揃っていない状態だ。バンドとしてのまとまりを出すにはとにかく反復練習しかない。Ishtarに関して言えば、個人の技量は皆そこそこ持っているので、後はいかに合わせるか、という問題だけだ。
「ま、合宿みたいなノリで、集中してやれば大丈夫っすよ。一日五、六時間」
「集中できるかな」
「そこはしないとね」
長時間スタジオに入る時に良くあることだが、どうせ長い時間入っているのだからと、つい無駄な動きが多くなってしまうことがある。同じことばかり長時間やっていても集中力が切れてしまうので、どこで息を抜くか、等のバランスは中々難しい。
「あんた達は高校最後の夏休みだもんね。何かやんないと」
「そうですねー。冬は受験勉強かぁ……」
公子が言うと、すみれがすぐに頷いた。
「ちょっと気が重くなるからそういう話やめて」
ひぃ、と言いながら英里が頭を抱える。確かに今から受験勉強のことなど考えたくない。
「そ、そうだね」
「まぁともかく、じゃあ申し込んじゃうから、あとは各々練習!練習日はえーと?」
「皆いつ空いてるんだっけ?」
各々が手帳に目を落とす。夕衣も先日買った手帳を開く。バンドとアルバイト以外の予定がないのは少々寂しい気もするが、元々が見栄で買ったものなのでこればかりは仕方がない。
「えーとこないだは確か二一と二四と二六、それから二八が空いてるって一致してたはず」
「うん、印ついてる」
二十谺が言って公子も手帳をチェックする。夕衣の手帳にも印はつけてある。
「誰か予定入りそう?入らないようならこの四日で抑えちゃおうか」
「そだね」
「英里は?」
手帳に書き込みながら莉徒は英里に視線を向けた。
「え、いいけどなんでアタシだけ?」
「あんたが心配だから」
「えー、すーちゃんは?」
つい、と英里がすみれに視線を送る。
「うん、まぁ、すーも心配」
「え、何で!」
「わたしは莉徒が一番心配なんだけど」
すみれの反論は尤もだと思ったが、何より心配なのは莉徒本人のような気がするのは夕衣だけではないはずだ。
「オレヘイキダヨー!」
わ、と両手を挙げて莉徒が喚いた。ともかく練習日も確保し、Ishtarがファーストライブに向けて動き出したということだ。元々の夕衣の曲であるIshtar Featherは今のところライブではやらない方向で進んでいるが、練習はしている。バンドの意向としてはやりたいという形でまとまっているのだが、状況がそれを許すかどうかはしばらく時間が経ってみないと判らない。
「そういえばディーヴァのカバーってやってるバンドとかあるの?」
ネット上に流出している音源ではディーヴァのものしか聴いたことがない。言ってしまえばディーヴァのGoddesses Wingですら夕衣のIshtar Featherのカバーでしかないのだ。
「んー、確か結花がたまにやってたと思う。まぁ結花はバンドじゃないけど、バンドでってのは生じゃ見たことないな……」
「いない訳じゃないんだ」
「まぁそうだけど」
「それ考えたらあたしらだってIshtar Featherやっても良いと思うんだけど」
英里が言う。英里はことのほかIshtar Featherを気に入ってくれている。夕衣としてもできることならばちゃんとこのバンドでIshtar Featherをやりたいと思っている。
「ま、そうなんだけどさ」
問題は所謂オリジナル、と呼ばれている夕衣の音源が出回っていることなのだ。仮にIshtarでIshtar Featherを演奏したとしたら、素直にオリジナルと呼ばれている音源と夕衣の声が認められるとは思えない。そもそもディーヴァのカバーをしている、という評価では意味がないのだ。夕衣のオリジナルをオリジナルとして発表できないことこそがボトルネックになっている。無理を通してIshtar Featherを演奏して、オリジナルだと主張したところで、周りが認めなければ叩かれる原因になりかねない。
「あれから特になんもないよねぇ」
「自分の名前なんて検索しないから判んないけど」
この間は莉徒に言われたので言われるままに調べたが、自分の名前はあまり検索などしないものだろう。
「あのブログ見てないの?」
「うん」
「なんか進展とかあるかもじゃん」
「ないでしょ、結花さんのファンの人なんだし」
ライブがあるのならばまた行きたい、というようなことは書いてあったが、特に情報を集めている訳でもなかったはずだ。
「まぁ私、帰ったら見てみるよ」
「んー、何かさ、気にしすぎなんじゃない?」
夕衣と莉徒のやり取りを見ていた公子が口を開いた。
「え?」
「これはまぁ、あたし個人の考え方だけど、Ishtar Featherを夕衣ちゃんのオリジナルだ、って主張しなくてもいいんじゃないかなぁ、って」
「あ……」
そうだ。あのアコースティックライブのステージに上がる前、自分で言ったのだ。
(だから、わたしの唄、聴いてて)
「……そう、ですね」
ゆっくりと頷いて夕衣は笑顔を見せた。そうだ。誰かに認めてもらいたかった訳じゃない。たった一人、姉のような存在だった裕江に聴いてもらいたかっただけの曲だ。他の誰が何を言おうと、Ishtar Featherは夕衣が裕江に聴いてもらいたくて創った曲なのだから。
「夕衣」
「わたしね、別に、わたしの周りのみんなが、それこそ本当にここにいるみんなだけでもいいから、判ってくれてればいい、ってそう思ってた。……それ、忘れてたみたい」
「どういうこと?」
すみれが夕衣の顔を覗き込むように訊いた。
「別にIshtar Featherがわたしのオリジナルだとか、ディーヴァは偽者だ、とか、そんなことどうでも良かったの。わたし達が、Ishtar Featherを演奏して、ディーヴァのカヴァーだね、って言われるんだったら、そうだね、って笑っていればいいと思うの」
「そっか」
夕衣の言わんとしていることを理解してくれたのだろう二十谺が頷いた。
「そうそう、言いたい奴には言わせときゃいいのよ。私も忘れてたわ」
あっけらかんと莉徒も笑う。目先の情報に流されて、足元を掬われていたのかもしれない。
「もし夕衣ちゃんがあの時、そんなこと気にしてたら、きっとあの時、みんな夕衣ちゃんのあの曲に惹かれなかったんじゃない?」
「そうですよね。アタシもやっぱりやりたいもん、あの曲」
公子が言い、英里もそれに続く。夕衣が裕江だけに贈ろうと思っていた曲は、今これだけの人に愛されている。つたない技術で、一生懸命創った曲が裕江だけではなく、Ishtarの面々に認めてもらえている。それだけで充分だ。
「じゃみんな、やってくれる?」
返ってくる答えは判り切っていたけれど。
「当然!」
「ありがと!」
この先Ishtar Featherを演奏することによって、もしかしたら何がしかの弊害は出てくるかもしれない。それでもきっと、この仲間達とならそんな弊害をものともせずに一緒に歩んで行けるかもしれない。今の夕衣ならばそう思える。
「よし、これで当面の問題はなくなった訳だ。残る問題は夕衣の胸がどうしたら大きくなるかだけど?」
「莉徒に言われたくないんだけど?」
ぐい、と莉徒の胸を鷲掴みにして夕衣は莉徒を睨みつけた。ほぼすぐに肋骨に指先が当り、掴むというよりはつねっているような感触が夕衣の手に返ってくる。
「痛いんだけど?」
「ほんと、あんた達っていいコンビね」
誰かがそう言って、皆が笑顔になった。
ぶるる、と玄関の手前で携帯電話が震えた。今日はIshtarのメンバーだけでの練習とミーティングだったので、秋山奏一の護衛はない。電話の相手は樋村英介だ。今日はまだ陽も高いが、夕衣が家に帰りつくタイミングというものをどこかで見張ってでもいるのだろうか、というタイミングだ。
「もしもし」
『おーぅ夕衣。平気か?』
「う、うん」
なんだかあっさりと英介が会話を続けることに、僅かながらに違和感を感じてしまった。これは不覚以外の何物でもないだろう。ミュールを脱ぎつつ、夕衣は内心で舌打ちをしてみる。
『なん?』
「変な呼び方しなかったからあれ?と思っただけ」
『物足りないかユイユイ』
鋭く夕衣の心中を察して英介は冗談交じりに言った。
「今度ユイユイって呼んだら殴るからね」
『英里とかすーだってユイユイって呼んでるじゃねぇかよー』
確かに、と思うが、英里やすみれが夕衣をそう呼んでいるのとは訳が違う。階段を上がり、自室に入ると熱気がこもっていて、すぐさま冷房をつける。
「あんたはばかにして言ってるだけじゃないの」
『暴力女め』
「で?」
汗ばんだブラウスを脱ぎながら会話を促す。英介との会話の運びを促すのはもはや夕衣の得意技能と言っても良いかもしれない。
『あぁ、明日のバイトさ、六時起きだろ』
「うん」
『おれ今日夜バイト入ってっから明日起こしてくんねぇ?』
「そんなもの秋山君とかにお願いしたら?」
彼女でも何でもない女にモーニングコールを頼むなどどうかしている。いや、そもそも英介は夕衣のことを女だとは思っていないのだから、これが普通なのだろうか、と夕衣は一瞬首をかしげた。
『勿論してるさ。保険だよ保険』
「人を目覚まし代わりに……」
『だからこうして頭下げてんじゃねぇかよ』
大体にして樋村英介という人間は高いところからものを見ている節があるのだ。高いところから頭を下げても、結局見下ろしていることに気付けないから、敵も多いのだと夕衣は思う。夕衣や莉徒達のように英介のことを判っている人間であればそういった事情も理解の上で付き合えるが、それが判っていなければやはり好意的には思われないだろう。
「見えないけど?」
『ほんとお前莉徒に似てきたな……』
「そぉ?樋村のそういうとこ見てたら誰でもそうなると思うけど」
少し楽しくなって夕衣は続ける。英介は自分自身が見えていないことが多いのだ。人のことをどうこう言える立場かどうかは夕衣も聊か自信はないが、少なくとも英介よりは自分のことは解っているはずだ。
『まぁこんなこと頼める女は莉徒と夕衣くらいしかいないのも事実だが』
「女だなんて思ってないくせに」
『おめーそこまで俺だってシツレーじゃねぇっつの』
「うっそばっか」
くすくすと夕衣は笑う。今更英介に女性扱いされてもなんだか気持ちが悪い。恐らく夕衣と英介の関係とはそういったものではないのだ、と思う。
『ばっかだねー、お前その気になったらギンギンにおっ勃つっつの』
「っ」
あまりにも突飛、あまりにもばかげた発言、あまりにも下品な言葉に夕衣は文字通り言葉を失った。
『お?なん?お子ちゃまには刺激強すぎたか?ウケケ』
いや、ウケケは言っていなかったかもしれない。しかしそんなことはもはや関係なく羞恥なのか英介への怒りなのか全く判らないが、とにかく瞬時に頭に血が上った。
「ば、ばっかじゃないの!勝手に遅刻しちゃえ!」
『おい、ちょ』
英介の言葉など聴かずに夕衣は携帯電話を折りたたんだ。やっとエアコンが効いてきて涼しくなってきたはずだったのにまた汗が出てきてしまった。
「ふーっ!ふーっ!」
荒々しく携帯電話をベッドの上に放り投げようとした瞬間に携帯電話が震えた。
「なによ!」
『え、あぁ秋山だけど……。なんか怒ってる?』
電話をかけてきたのは奏一だった。てっきり英介だと思っていた夕衣は、慌てて荒げてしまった語気を引っ込めようと努力した。
「あ、あああ秋山君?ご、ごめんなさい、ちょっと人違い……」
『もしかしなくても英介と話してたとか?』
恐らく苦笑しているだろう奏一の顔を想像しながら夕衣が苦笑する。汗を引かせようとエアコンの風が当たる位置に座り直す。
「ご名答……」
『あはは、あいつまた髪奈さん怒らせたのか』
「わたしの怒りを買うことに関しては天才的センスを持ってると思う」
そこだけは間違いないと確信できる。
『わははは、確かに。あぁそれで、そのばかの件なんだけど』
「モーニングコールしろって話?」
『あぁそう。一応おれもすっけど、またこないだみたいに全員で連絡し合おうかな、と思って』
確かに四人で行動することが多いので、英介が遅刻するのはかなりの痛手だ。しかし奏一と莉徒が英介に連絡を入れるのならば問題ないだろう。莉徒は莉徒で不安も残るが、そこは夕衣か奏一が莉徒を起こせば良いだけのことだ。
「うんいいよ。樋村以外にはする」
そう。英介に連絡するつもりは毛頭もない。
『な、何を言った訳?あいつ』
「う、い、言えない……」
言葉にもできない。そもそも夕衣は男と付き合ったことがないのだ。キスですらまだしたことがないというのに、いきなり諸々の事情をすっ飛ばしてあんな話など、どうかしている。そしてそんな話など奏一に言える訳もない。
『そ、そか。まぁじゃあ判った!あいつに関してはおれと莉徒で何とかするわ』
思わず言葉を失った夕衣をフォローするように奏一は言う。英介もこのくらい色々と察してくれればいいのに、と思わずにはいられない。
「うん、宜しくね。あととりあえず明日会ったらあいつ蹴っ飛ばすね」
『それ、おれに予告されても』
「あはは、そうだね。でもバイト中気まずいのもやだし、一発蹴っ飛ばしたら忘れてあげる、って言っといて」
どうせ英介は何とも思っていないのだ。一発やり返さないと気が済まない。大体にして英介や莉徒が言うような、何人と付き合っただとかそういう話は夕衣にとっては想像もつかないことだし、それこそ何人と寝ただとか、とんでもない話だ。
『りょぉかい、んじゃ明日ね』
「はーい」
奏一と話して少し冷静になれたようだ。室温が下がったこともあるが、少し肌寒くなってきた。冷房の温度調節してを引き出しからTシャツを出す。着ようと思ったところでシャワーを浴びてからにしよう、と思い直す。ふと気付くと奏一と話すことにも大分慣れてきて、最近は変に意識もしないようになった。奏一がそれらしい素振りを見せていないこともあったし、やはり莉徒の勘違いだったのかもしれない、と思うようになってきたこともある。逆を返せば惚れた腫れたの色恋沙汰が全くない寂しい夏休みであることに安堵を覚えてしまうのもどうしたものだろうと思わないでもないのだが。
「ん」
再び携帯電話が短く震えた。メールだ。
『ごめんなさいゆるしてくださいすみませんでした』
差出人は平謝りだ。返信しようかと思ったがすぐに思い留まる。ここは夕衣自身が怒っていることをきちんと英介に知らしめなければいけない。
「無視!」
ぱくん、と携帯電話を閉じて、夕衣は浴室へと急いだ。
xxxii BORDER LINE END
『BORDER LINE』 D.T.R 1995年
読み終わったら、ポイントを付けましょう!