アルバイトは週に二日、休みを貰っていた。きつい労働の中、休みの日にはIshtarのメンバーが集まり、練習をして、曲についてのディスカッションもする。社会人バンドの人達はこんなに大変な生活を送っているのか、と夕衣は思わず目を回しそうになる。しかしそれはいかに自分が今まで甘えた環境で生活をしてきたかが判る、本当に貴重な経験だ。基本的に休みは二日間続けて取ることができるが、有事の際、まさに先日のようなトラブルがあったときなどは駆り出され、休日出勤手当をつけるか、代休を取って休むかを選ぶことができるらしい。昨日はバキバキになった体をほぐし、休ませるためにほぼ一日ごろごろとしていたが、今日は殆ど手付かずの状態だった夏休みの宿題を片付けようと夕衣は机に向かっていた。まずは夕衣の好きな教科である英語から片付けようとまとめてあった宿題の山から英語の教科を引っ張り出す。オーラルの宿題はないが、ライティングの方では結構な量があった。
「うはー……」
オーラルは歌の中に英語を取り入れるときに役に立つので嫌いではなかったが、ライティングの方はあまり好きではない。結局のところ歌詞に英語を取り入れたり、この先英詩の曲をやることを考えればどちらも勉強はしておいた方が良いのだ。それにどんな理由をつけたところで宿題はやらなければいけないものだ。インターネットで英語の辞書を開こうとブラウザを立ち上げる。
「あ、そうだ、ブログ……」
アコースティックライブの時にブログを始めようと思っていたが、すっかり忘れてしまっていた。簡単に作れるブログを検索しようとしたところで携帯電話が鳴った。
「ん」
莉徒からの電話だった。
「もしもし?」
『あ、夕衣、今大丈夫?』
「うん」
少し慌てているような口調だ。何かあったのだろうか。
『ちょっとネットであんたの名前、カタカナで入れて検索してみて』
「は?」
『いいから!』
「う、うん」
莉徒の剣幕に少々押され気味になりながらも、夕衣は自分の名前をカタカナで入力し、検索をかけた。ほどなくして『カミナユイ』の名前と共に、数件の検索結果が検出された。ただカミナユイとしての検索結果は最初の一件だけだった。あとはカミだけ、ナユイだけの条件にかかった検索結果だけだった。
「え、なにこれ……ブログ?」
『そう。結花のファンみたい』
「え、結花さんの……?あ、でも、悪くは書かれてない、ね……」
『まぁあんたくらい実力あればね。でもそいつが悪いヤツじゃなくて良かったよ』
この間のアコースティックライブの時に来ていた人なのだろう。元々結花のファンであり、ライブを見るのが好きな人物らしく、この日も最初からずっとライブハウスにいたようだった。
――何番目かは覚えてないけど、ともかく結花の前に出演したカミナユイと名乗った女の子の弾語りはけっこう良かった。この街にきたばかりと言っていたけれど、機会があれば是非また見てみたいと思った。殆どがオリジナルだったみたいだけど、『ディーヴァ』のカヴァーもとても雰囲気があった――
そうブログには書かれていた。夕衣の出番の時に名前を言ったのを覚えていてくれたのだ。Ishtar Featherはやはりディーヴァのカバーをしたという捕らえ方だった。あまり出回っていないオリジナルのものと、アコースティックライブに出たカミナユイのものが同じだという考えを持つ人はいない。こればかりは夕衣と個人的な付き合いがある人間にしか判らないことだ。
「うん、ちょっと迂闊だったかも」
『出回ってる方のディーヴァのファンだったら叩かれててもおかしくないし』
「そう、だね……」
本当は夕衣のオリジナルソングなのだから、正々堂々としていれば良いことなのだが、何も証明する物がない時点で噂話や定説に楯突くことはできない。何の確証もない状態で自分の正しさを主張したところで、風車を巨人と見紛えた騎士のように、相手にされない上に呆れられるだけだ。
『もう誰がオリジナル、なんてレベルじゃないしね。私もちょっと認識甘かったかも』
「バンドでやるの、ちょっと考えた方がいいかも」
『かもねぇ』
「それにしても……結花さんのファンか」
こんなことならばやはりあの時、結花の演奏を聞いておけば良かったと思った。どんな音楽なのかも判らない。けれど、夕衣に対して好意的な感想を述べてくれているということは、もしかしたら夕衣と結花の音楽性は近いのかもしれない。
『ちょっと意外だったね』
「全然知らない人みたいだね」
『うん。学校の連中とかだったらちょっとは騒がれてるかもしれないしね。近い人じゃなかったのは幸いだよ』
「だね」
複雑な気分だ。夕衣は自分が創った曲をやっただけだというのに、その曲を自粛しなければならない。そもそもそこがおかしいのだ。正当性を主張できずにやりたいことを我慢しなければならない。世の中の風潮が、とりわけインターネット上においては匿名の主張主義のようなものが常識となってしまっている、一種、この状況こそがもはや国民性なのではないだろうかと思えるほど、インターネットの影響というものは大きい。
『何にしてもちょっと様子見した方がいいかなぁ』
「うん。わたしブログ始めようかと思ってたけどやめとこうかな……」
『何もそこまですることはないでしょ。まさか髪奈夕衣って本名晒す訳じゃないんだろうし』
「うん、まあね」
『それこそ漢字の夕衣ならけっこういそうだし、そうピンポイントで髪奈夕衣にはヒットしないかもだし』
「そっか」
確かにユイという音で夕衣と書く漢字は多いだろうし、折角やろうと思っていたことだ。やはりやろうと思い直す。トラックバックやコメントがなければ個人のブログを探し当てることは早々できることではない。それにIshtar FeatherがGoddesess Wingのオリジナルだ、などと書かなければ何も騒ぎは起きないだろう。
『そういやさっきのブログ最後まで読んだ?』
「え?」
『最後にちょこっとだけまた夕衣のこと書いてある』
まだブラウザを閉じていなかったので画面をスクロールさせる。
「え……」
『下から三行目くらい』
何だか莉徒の声が明るくなる。何か面白いことでも書いてあるのだろうか、と夕衣は文章を目で追った。
「あぁこれか、ええと、何々?カミナユイのライブがあるんならまたいきたいけど情報がないんだよなぁ。見た目中学生くら……うるさいよ」
『うははは。まぁでもまた結花とブッキングなんてこともあるだろうし、そのときまでその人はお預けかねぇ』
「そのときはIshtarでね」
夏休み終りのライブに向けて動いている。まだいつやるかも決めていない状態だが、それでもとりあえずの目標がなければモチベーションは保てない。バンドをやることの最大の目的は結局のところライブをやることなのだ。バンドでも一人で活動していてもそれは変わらない。一生懸命創って、一生懸命に練習した曲を誰かに聴いてもらうために音楽をやっているのだから。
『とーぜん』
そんな夕衣の気持ちに応えるように自信満々に莉徒は言った。
『そしてカミナユイ』
「ん?」
『宿題一緒にやらない?』
「いいけど、それならわたしんちくる?」
莉徒の意外な提案に驚きつつも夕衣は承諾した。まさか莉徒の口から宿題をやろうなどという言葉が出てくるとは思いもしなかった。
『お、いいの?』
「うん、いいけど」
『んじゃ今から行くよ』
「あーぃ」
とりあえず莉徒がくるまででも宿題を進めようと、夕衣は気を取り直してインターネットで英語辞典を開いた。
呼び鈴が鳴る。夕衣はとんとん、と階段を降り、玄関に向かった。
「はいはぁーい」
玄関のドアを開けると、莉徒がトートバッグを持って立っていた。
「うーっす」
「入って」
莉徒を招き入れると、台所から母の真佐美が顔を出した。
「いらっしゃい、莉徒ちゃん」
「あ、こんにちは!おじゃまします」
父にも母にも莉徒の話はよくしている。そのせいか、挨拶だけ聴いていると初対面のような気がしないのがおかしくて夕衣は笑顔になった。とんとんと階段を上がり、自室に莉徒を招き入れる。
「おー!ウワサのシナモロール!」
ベッドの上にある大きなシナモロールに飛びつく。結局夕衣のことをばかにしていたって女はみんなぬいぐるみ好きなのだ。絶対そうに決まっている。そしてこのシナモロールを見た莉徒の態度は至極当たり前なのだ。いやむしろ常識と言っても良い。
(このシナモロールの魅力には誰一人抗えない……)
内心勝ち誇って夕衣は莉徒を横目で見た。
「つーか部屋にエアコンあんのー?贅沢ー」
ここに引っ越すときに新たに買った、まだ新しいエアコンを見上げて莉徒はふー、と息をついた。
「じゃあ消す?」
「何故そんな愚行を……」
「確かに贅沢だなぁ、と思って」
消す気など更々ないが、そう言ってやる。莉徒もそういうつもりで言った訳ではないのだろうが、贅沢の恩恵を受けておいて言う台詞ではない。
「あるものを利用しないのは愚者の証よ」
白いブラウスの胸元をパタパタとさせながらふぃー、と莉徒は一息ついた。あまり汗をかいているようには見えないが、この炎天下の中自転車を漕いでくれば、寒がりの人間でも暑くなるというものだ。
「それがたとえ贅沢品であってもね」
莉徒に合わせて夕衣も笑顔になり、そう言った。
「そゆこと。で、あんた宿題何からやってんの?」
「英語」
ぴ、とパソコンのディスプレイを指差す。英訳をやっていたが、単語が判らずに調べていたところだった。
「どのくらい進んだ?」
「わたしも今日からだからまだあんまり進んでない」
英語以外の、机の脇に積み上げた宿題の山を見ると気が滅入る。宿題をやって、アルバイトもして、バンドもやって、それだけで手一杯だ。すみれや英里などはその上彼氏もいて、どこかに遊びに行ったりもするのだ。バンド者の女子高生というのは地上最強に忙しい生物かもしれない。
「んじゃ私も英語やるかな。面倒臭い教科は一緒にやった方がいいでしょ」
「違う教科やってお互いに書き写すのも手だけど」
二人で宿題をやる最大のメリットだ。一つの大きな物を作るために作業を分散させる。世の中はしっかりとしたシステムで回っているのだなぁ、とどうでも良いことをつい考えてしまった。
「でも判んないと時間かかっちゃうじゃん」
「じゃあそういうのは一緒にやって、プリントなんかは別々にやろっか」
「おっけ、じゃあともかく英語やっつけよう」
莉徒もバッグの中から英語の宿題を取り出した。
「かしこまり」
「はっ!ちょっと私閃いたわよ」
ノートを広げて一文字も書かないうちに莉徒が声を上げた。
「なぁにー?」
あまり良い予感はしない。
「何よその嫌そうな声」
「なんか莉徒と樋村の思い付きってロクなことないような気がするんだけど……」
特に大した事例もないが、何となくそんなことを思ってしまう。
「あんなのと一緒!この柚机莉徒が!あんな樋村英介と一緒!」
「良く似てると思うけど……。あんた達が別れたのも同属嫌悪とかじゃないの?」
憤慨した様子で莉徒は言うが、元は付き合っていた男に対してそこまで言うこともないのではなかろうか。そもそも莉徒と英介が似ていると思っているのは夕衣だけではないはずだ。
「あんたって子は……」
「で、何?」
どうせ大したショックも受けていないのだ。夕衣は話を促した。こんなことでは一向に宿題は進まない。
「あぁそうそう、倉橋瑞葉って知ってたっけ?」
「あぁえーと確かF組の、えーっとなんだっけ?Kool Lipsのベースの人の彼女だっけ?」
すぐに顔は脳裏に浮かんだ。中央公園での野外ライブや弾語りライブでもきてくれていたはずだ。夕衣と同じような背丈で眼鏡をかけている、実に可愛らしい女の子だ。
「そ」
「一応顔は知ってるよ」
「同類項だしね」
「え?あぁ……。仲良くなれそうな気がする」
莉徒が自分の胸をぺたぺたと軽くたたきながら言った。確かに背丈は夕衣と同じくらいだが、同じなのは背丈だけではない。控えめな胸、凹凸の少ない身体のライン。実に親近感が湧く佇まいをしていたと記憶している。
「あいつめっちゃくちゃ頭いいのよ」
「一緒にやればはかどるとかそういうこと?」
「ご名答!」
大人しそうな印象を受けるが、莉徒と仲良くしているということは莉徒の友達としては夕衣の先輩にもなるということだ。莉徒との付き合い方を変えるつもりはないけれど、困ったときの対処法などは夕衣よりもきっと慣れているに違いない。
「わたしは構わないけど」
「よしじゃあ呼ぼう!あ、美朝も呼んじゃお」
「あぁ由比さんも頭いいもんね」
テストではいつも高得点をマークしている。席が近いだけあって、授業中などでも判らないことがあると、夕衣も美朝を頼りにすることが幾度となくあった。
「劣等性は苦労多いからね」
「本人達が抵抗ないならわたしは全然呼んでいいと思うよ」
音楽関連での友人は莉徒や英介のおかげで確かに増えたが、音楽を演奏しない友達というのは正直言っていない、と言ってしまっても過言ではないだろう。由比美朝とはそれなりに仲良くやっているが、学校の帰り道や休みの日などに一緒に遊んだりすることは今まであまりなかった。
「よっしじゃあ連絡してみよ。あいつら一年の時は同じクラスだったしね。もしかしたらもう終わってるやつとかありそうだし」
「そういうとこだけ賢いよね、劣等性」
にやり、と笑って夕衣は言った。
「マァナ!」
(実際のところどっちが……いや、やめとこ)
どうやって見てもやはりない胸を張って、莉徒はブイサインを返してきた。やはりここで莉徒との決着をつけるのは避けるべきだ。どうせ身長もバストも差があったとしても一センチ以内のはずだ。勝っていればそれはそれで良いが、もしも負けていたらきっとショックを受けるだろう。
(きっとまだ伸び代は……ない、かな……)
幸運なことに、美朝と瑞葉が終えている宿題を合わせると全体の七割方が終わっていた。はやり莉徒曰く、優等生と呼ばれる人間は何かが違うのだろう。
「な、なんか罪悪感が……」
苦笑しながら夕衣は言った。そもそも宿題は自分の力でやるものだが、ここまで書き写すだけの作業になると何も身につかない気がする。
「莉徒ちゃんは毎年これだよね」
「その分チケ代サービスしてんでしょー」
「そ、そうだけど」
聴けば瑞葉の彼氏でもあり、Kool Lipsのベーシストでもある伊口千晶との仲を取り持ったのは莉徒なのだそうだ。中々厄介な相手が仲介をしたものだなぁ、と夕衣などは思ってしまうが、それでも本当に好きになってしまったら猫の手も借りたくなるのが本音と言うものだろう。
「え、私も莉徒に見せてるけど。瑞葉にサービスしてるのに私はナシなの?」
「う」
どうやら美朝と瑞葉は一年生の時にクラスメートだったらしく、今でも普通に友達付き合いをしているのだという。
「じゃあ由比さんにはわたしがチケットサービスするってことで」
苦笑しつつ夕衣は言う。貸し借りだけの問題ではないが、これだけ宿題で楽をできてしまうのは間違いなく美朝と瑞葉のおかげだ。
「あぁそうだ、髪奈さん」
「え?」
ぽん、と手を打って美朝が何かを思い出したように言う。
「名前なんだけど」
「うん」
「夕衣ちゃんて呼んでもいい?」
「あ、うん。なんならちゃんとかいらないし」
それは夕衣も願ったりだった。まかり間違って『ユイユイ』が浸透してはたまらない。
「あーそうよね、由比美朝に髪奈夕衣じゃワケ判んないし」
「それ言ったら倉橋さんと公子さんもそうだね」
莉徒の言葉に夕衣もふと思い出す。
「え?公子さん?」
「あぁ、そうだね。あんたが倉橋瑞葉で、公子さんは水波公子っていうの」
「あ、そうなんだ」
苗字が同じだとか名前が同じという話は良く聞くが、苗字と名前が同じというのは案外珍しいのではないだろうか。それが身近に二人もいるとそうでもないのかもしれないが。
「偶然なのかしら?」
「さあ?」
「と、ともかく宿題やっちゃお」
思わず手を止めたまま話し込んでしまっていたので、夕衣が皆を促すように言った。
「あ、そうだね。でも私達もちょうど英語やってなかったから良かったね」
「そうだね」
この中では瑞葉だけが違うクラスだが、出ている宿題の内容は同じだった。とりあえず全てを見せてもらうだけではなく、今しがた莉徒と一緒に終えた英語の宿題が役に立って良かった。全てを見せてもらうだけではあまりにも心苦しい。
「でも私と夕衣でやったから間違ってるとこもあるかもよ」
「気付いたら直すよ」
「流石優等生」
「何から何までホントにもう」
先ほどから苦笑しっぱなしで夕衣は言った。
xxxi I can't say END
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